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【死語の世界】第二十四話 『お気取り』

幼少のころ私はよく『お気取り』だと言われた。幼稚園にあがる前からはっきりと自我らしきものがあったのだから仕方ない。さらにその自我は『お気取り』と言われることをとても嫌っていた。どうしたら自然体になれるのか、そんなことを考えるからさらに気取ったことになり、ある種のディレンマに陥っていたわけだ。が、さすがにそれには気づくはずもない。


自分が浸かった産湯のキラキラを覚えていると言い張る三島由紀夫にはかなわないが、3歳くらいの記憶はあるし、なにより「ぼくが」という単位みたいなものがすでにあったのはまちがいない。ぬり絵がどうしてもはみ出してしまうことや、工作でセメダインが染み出してしまうことがいやでいやで、どうしてこんなに手が不器用なのかと自分を責めた記憶は今でも鮮やかである。これは自己嫌悪というものであろう。となりの子を見ると、ぞんざいで(これも死語だ)で粗雑な仕上がりなのに、先生、できた!とかいって乱暴に提出して運動場に駆け出している。どうしてそんなふうに自分の出来を気にせずに平気なのか、理解できなかった。いつも早いわねー、などといって評価する先生のあり方もまったく疑問だった。


私の中の「ぼく」はやがて不良になって「おれ」になり、プータローになって「自分」になり、大人になって自意識として相対化されたが、相変わらずそれは人に比べたらずいぶん高い方におもえる。しかし歳を食ったからなのか、目立たなくなったようにもおもえる。
自意識の高いタイプは、業界では営業に向くとされる。気取ってる同量を人(クライアント)にも使えるだろうと期待されるからだ。営業方の私の部下たちはそれができているとおもうが、おしなべて『お気取り』気質を持っているようにおもえる。たぶん、私と似たような幼少期を過ごしたに違いない。


さて、なぜ『お気取り』は言わなくなったのだろうか。【死語の世界】第一話『強情っぱり』では死語になる理由には二つあると書いたが、三つ目がある。

その言葉が指してる事象、モノなどがなくなる、見かけなくなるのが一つ目。単純で強い、扱いやすい言葉が駆逐する、これが二つ目。そして特に人間の性質などを表す場合に多いが、みんなが「それ」になって当たり前になり差異がなくなるケースである。
『お気取り』の死は、3番目の理由によるようにおもえる。つまり、自我だのアイデンティティだの主体だのの思想が襲ってきて、みな現実の私とそれを見ている私に分裂した。今となっては当たり前のようだが、その昔はそうではなかった。そういう「自己を持て余すような」やつは高等的な種族と見なされ、まだ珍しかった。小学校の高学年になっていたのに、「もうひとりの自分がさ」と言ったとき、友達はみな、気でも狂ったかという顔で私を覗き込んだ。自分のぬり絵の出来などに頓着しないガキばっかりだったのだ!


それが今や全員に自我は配られ、おまけに現実の私ともう一人の自分とは折り合いまでついていることが多い。メタなんちゃらもそういうニュアンスで使われたりもする。実に手馴れたものだ。だから、自意識(過剰)にまつわる言葉は一様に元気がない。「かっこつけ(たいじゃないすかぁ)」だけは奮闘しているが、「キザ」「スカす」「お澄まし」「見栄っ張り」「見栄坊」「しゃれ者」など、どれも瀕死である。「おしゃれ」でさえ、「彼女はおしゃれだね」という言い方は実は危ないのではないか。「スカしてんじゃねーよ」はよく言ってたような気もするが、もう使う場面がない。そんな下手くそなやつはいないからであろう。


ちなみに、同じ字を書いて「気取る(けどる)」と読むと意味が変わる。その場の雰囲気を読むことをいい、事情を察する感性を指す。「おれたちの関係を気取られないように気をつけろ」などという使い方もある。いまは「空気を読む」に変わり、この言葉も死語となったが、「気取る(けどる)」のほうが本来、意味が広く深い。精確に言えば、「空気を読めよ」は「気取る」の代わりは務まっていない。こういうケースを私は惜しいとおもうのだ。気取ってもらえるだろうか。

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