見出し画像

続・変わる考

人を変えることはできないが、自分は変わることができる、という物言いがありますな。あんまり好きな言い方ではないのだけど、それはその通りだと仮定してみる。と、自分は変わらずに人を変えられたら、すごいということになるんじゃないですかね。絶対不可能を可能にした。
言葉を持ってそれをあり得べきものとする、地位や金やでそうせしめる、あるいは愛でも恐怖でもいいし、政治や制度や法もあり。とにかく自分はそのままで人を変える、これは人間最大の野心であり、そのエクスタシィは無上のものなのかもしれない。

マトリクスにすると、4種ある。
人も自分も変えられない。
人も自分も変えられる。
人は変えられるけど、自分は変えられない(変わらないでいてよい)。
人は変えられないけど、自分は変えられる。

この最後のものが、やたらSNSで回ってくるのだが、こうやって並べてみると、みんな変われる前提のほうが自由な気がする。流動性、可変性、可塑性はあるだけあったほうが世の中おもしろい。
自分は変われたとする。それは「人は変えられないけど、自分は変えられる」という、どこかから回ってきた言葉によって変わったのだとしたら、その言葉自体は他者(の発したもの)なんだから、誰かに変えさせられた、変えてもらえた、と見做してもさほど不自然とは思えない。
「人は変えられないけど、自分は変えられる」という謂いはつまり、人を変えるために存在している言葉だととらえられる。それも、誰かによって変わったという意識は持たせずに、まさにこの言葉どおりに自分は自分だけで変えられたと思い込める。

オバマ以来、いやその前からもずっとchangeの時代だ。ネコも杓子もチェンジだという。そして、続いて回ってくるのは、人への作用は無理で自分には可能。よくできたコンテキストでシェアする人があとをたたないのもわかる気がする。
そうやって、これを聞いた人はみな、自分だけなら変われるのかと思って変えようとする。この言葉だけが他者、つまり作用する側となるわけだけど、そういう風には認識しない。させない。自主自律によって、自分は変革できたのだ!

しかし、いったいぜんたい、どう変わるのがいいのだろうね。どう変われと言いたいのだろう。
おのれのおもむくままに?たぶん、ちがう。世が変わる趨勢に即して?これもちがう。
最も正しい「変わる」はその先が不特定、不明確であることを請け負う変わり方だ。誰もその先はわからない。Go for Broke!


マーケティング用語では最近、VUCAの時代と言われる。Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)の頭文字を並べたもので、1990年代後半にアメリカ合衆国で軍事用語として発生し、2010年代になってビジネスの業界でも使われるようになった言葉だ。

これはしかし、最近のことだろうかと訝しむ。人間も人間社会もずっとそんな風だったんじゃあないのか。むしろ今この時代、それを恐れるようになり、こういう言葉、とらえ方が生まれたと考えた方がしっくりくる。前の時代は恐れていなかったのだ。

このような現代に、むやみに自分の信念を持てという人も多い。自分だけは信念を持ってカチッとソリッドであれと。
社会は流体、自分は固体。プロパガンダに乗りやすいというのはあるだろうけれども、全然異なる認識だ。

私は、誰であろうと人に、信念を持てよ、持つといいとは言わない。言ったことはない(と思う)。私の親友どもはそれの塊だから、わざわざいう必要もないというのもあるが、社会も人も変わることを前提にしたら、もっとも無責任な言い方のように思うから。
好きなように変わるといい。誰かが何かのアドバイスを求めてきたら、これをいう。

私はよく、カヌーにたとえる。リバーカヌー。一度でも乗ったことがある人はわかると思うが、なんなのこの不安定さはと驚いたはずである。乗り込む時からグラグラで体重を平衡にして乗らないともう沈してしまう。ひょっと振り向いただけでも転覆しそうになる。設計がどこかおかしいんじゃないかというくらい不安定。でも、こうだから舵がきくのだ。ちょっとオールを水にさせば、その場でクルクルと回転する。自在に方向転換が図れる。
さらに、たとえとして面白かろうと思うのは、激流に差し掛かった時に川の流れより速く漕いでないと、舵が効かなくなるということだ。流れが遅く淀んでいるところではいくらでも方向を変えられるが、ひとたび速い流れに巻き込まれたら、さっきまであれだけクルクルと舳があっちこっち向いていたのが一方向に定まってしまって、艇が流れに直角になったら一発で沈するのである。
水の流れは社会の流れ。カヌーは個人。つまり、舵のきく人生を歩みたければ社会の流れに乗ってないとダメだということのたとえ。さもなくば、大きな船の乗組員になる。持ち場の人となる。舵はきかないが沈むこともそうそう起こらない。が、大きな船でたくさんの乗組員がいたら、そこにまた人間組織の流れができる。カヌーほど不安定である必要はないが、流れにある程度のって自らの意思で舵を取らないと途端に、その船の中で難破する。

自分は変われるんだと思い込んでも、どうも変われた気がしないのは、流れに乗らずに立ち止まって考えているからだろう。流れに乗ったら終わり、そのようなベルトコンベヤー(死語か)人生はいやだと考えて、そこから隔たろうとするのかもしれないが、そこにおそらくは問題が生じている。逆なのだ。流れに乗っていなければ、自分も変われないし、世界も変えれられない。

ただし、作品をものにして世に出して問うということができるなら別。実際、ネットによって様々な方法が登場し、7畳のワンルームから世界を変える作品を生み出している奴らが大勢登場している。これはかつてなかったことだ。最近、vocaloidの世界をつぶさに見たのだが、腰が抜けるほど驚いた。作詞作曲はこんなに裾野が広かったのか。ブログは言葉だから誰でもできそうだが、それにほど近いようにさえ思える参加者の裾野の大きさだ。

自分を変えるにしても世界の流れに乗っていなければできないものだ、ということではなくなった。世界から隔絶して、作品を直接世に出し、自分は変わらないのに世界を変える奴らが出てきた。この世界はまだ始まったばかりだ。私の目の黒いうちにどれだけ、この遠隔撃破が世を揺るがせにできるだろうか、たのしみなことだ。

蛇足だが、予言しておく。
7畳間から一歩も出ずに選挙に勝つ奴が出てきた時に、大きく世界は変わるだろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?