排気口新作公演『呼ぶにはとおく振り向くにはちかい』の話。

 排気口新作公演『鎌倉高校前フォーエバーサマー』改め『呼ぶにはとおく振り向くにはちかい』は8月25日から28日荻窪小劇場で行われる。フライヤーも予約フォームも公開された。是非とも予約をして観に来て下さい。でもコロナがトホホな予兆を見せているので無理はしないで下さい。

 ここ数年夏になると、集英社『セレクション戦争と文学 文庫版』を読む日々を過ごしていた。21年に半藤一利が亡くなりそれをキッカケに『日本のいちばん長い日: 運命の八月十五日』を読み返したり『昭和史』を読んだりしていた。

 大田洋子の「ほたる」という短篇の一節が胸に残っている。1945年、疎開で広島市に帰郷中、被爆。占領軍による報道規制の中『屍の街』『人間襤褸』を書き、原爆作家としての評価を確立。と大田洋子のwikiには書いてある。私が大田洋子と出会ったのは大江健三郎『河馬に噛まれる』を読んだ数十年も前だ。

 大江健三郎『河馬に噛まれる』に収録されている短篇「サンタクルスの広島週間」に大田洋子の作品が引用されていた。それが「ほたる」という短篇だった。

 「ほたる」で作家は被爆しケロイドを負った少女と会う為に広島に帰ってきた。「娘ではなくて、化け物であった、よそゆきの服、すがすがしい白地に、花の模様のあるスカートをつけ、純白のブラウスを着ているので、異様な顔と手つきが、いっそう浮き彫りになっていた」そんな少女の姿を見て作家は泣き伏せる。少女はそんな作家に近づいて「あきらめていますから、だいじょうぶです」言葉を失う作家に続ける「うちの眼、光ってるでしょ」

 初めて読んだ時からその眼の光はどのような輝きなのか、そんな事を想ってきた。まるで私の記憶に焼き付いたように空想の光がそこにある。でもそれは空想の光だ。

 横溝正史『完本人形佐七捕物帳』第3巻の巻末には野村瑠美「人形佐七は横溝家(わがやの)の天使」という文章が収録されている。そこには戦時中の横溝家の事が記されている。空襲の折り髪を振り乱し「この芸術がわかるか!!」と飛行機に叫ぶ横溝正史。家の中では大音量でベートーベンが流れていたという。その飛行機には私たちと同じような身体をもった人間が乗っている。

 今回の排気口は修学旅行の話である。生徒たちが寝静まった短い夜の先生達の修学旅行。翌日には戦争の悲惨さを伝える平和学習が控えている。そんな話だ。

 偶然、ようつべで湘南高校演劇部春公演『修学旅行』を観た。作は畑澤聖悟。あらすじはこうである。沖縄県内にある旅館。青森県立浦町高等学校の修学旅行、四泊五日の三日目である。三階の奥「ゴーヤーの間」には、二年七組の女子五人が泊まっている。そこに訪ねてくる訪問者たちとのやりとりに、沖縄ならではの戦争の話、そして、ドキドキの恋の話…。

 本当に素晴らしい作品だった。約60分の作品はまるで自分もその夜を過ごしているかのような感慨を私に齎した。

 この新作の始まりは湘南高校演劇部春公演『修学旅行』からスタートしている。ならば私は先生達の修学旅行を書いたら面白いんじゃないかと思った訳だ。先生たちは生徒たちが寝静まった後にどんな風に過ごしているのか。そんな妄想から台本を書いていった。結果、殆ど関係ないものになってしまった。

 生徒たちと同じように先生たちもドタバタしている。生徒たちと同じように上手くいかない事がある。生徒たちと違って先生は大人だから余計にタチが悪い。そんな修学旅行の時間を書きたい。

 そしてうっすらと横たわる戦争の影。過去は後ろに立つ亡霊の様なものだ。呼ぶには遠い。でも、振り向くには近い。

 なにも戦争に対してどうこう言う訳じゃない。反戦のメッセージもない。ただ過去という時間と今という時間がほんのささやかだが重なる奇跡を信じてみたいのだ。なるべく下らなく。なるべく軽やかに。そして直ぐにでも忘れてしまう光でもって。

 夏の終わりは排気口新作である。お盆も過ぎ彼岸が遠く霞む頃合いだ。呼ぶには遠い。でも、私たちがフト思い出す時間の繋がりで、振り向くには近い。

 鋭意稽古中です。実は台本もあと10ページほど残っている。夏の終わりに排気口新作公演観に来てね。

排気口新作公演『呼ぶにはとおく振り向くにはちかい』フライヤー表

排気口新作公演『呼ぶにはとおく振り向くにはちかい』フライヤー裏

 皆さんの全ての穏やかさを祈って。



 

 

 


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