排気口新作公演 『呼ぶにはとおく振り向くにはちかい』の話。その2

 日差しを避けながら歩くのも面倒くさくなってきて照り返しで焼き付くような道も構わず歩いて稽古場に向かっている今日この頃。

 私が作・演を担当した名前のない役者たち『おきながら見るほうの夢』も過日から初日を開けて、今のところは無事に公演を重ねている。

 先週にようやく上記の作品の最終稽古が終わりようやく排気口新作公演『呼ぶにはとおく振り向くにはちかい』の稽古1本となった。まだまだ稽古をしている。夜の話なので夜まで稽古している。

 最近は疲労のピークを越えて成層圏まで到達している。腰痛は改善。下半身の疲れが酷く足の浮腫みが酷い。身体中の血液が足の裏に留まって連泊している。胃腸の調子が悪いのでセブンのゴーヤチャンプルばかり食べている。でも時々間違えてセブンの激辛カレーを食べてしまう。

 排気口新作公演『呼ぶにはとおく振り向くにはちかい』は修学旅行の初日が舞台の深夜12時までの話だ。生徒たちが寝静まった後の先生たちの話だ。それから戦争の話だ。目指したのは異なる時間がまるで折り目正しく重なるような短い喧騒だ。もしくは私たちの現在の延長線上に過去の時間が確かにある事の確認。つまりは手を握り直すことではなく、手をどうやって離すかという事。

 台本作業後半は話の舵を戦争に対するメッセージ/主張に振り切る事が可能な場面がいくつもあった。その度に私はパソコンを叩く手を止めて深呼吸、煙草を吸って、投げやりな目線で貰った日本酒を眺め、そうして冷静さと酒への憧れを胸に育て、またもパソコンの前に鎮座するのが常であった。

 私は台本作業において自分の主張やメッセージを織り込むのは台詞約3行分と決めている。その約3行は台本全体に散らばり、一見そうとは思えないように巧妙に隠している。出演者にもスタッフにも排気口の人にも言わない。でもLEDは仕込んであるので暗いところで光る様になっている。電気付けるのがメンドーな夜、ベッドサイドの落とし物を探す際には便利だ。

 演劇を作るという事は私の主張やメッセージを増幅させるアンプを作る事ではない。強固な他者と分かり合えなさを元手に立ち上げる目に見えぬ時間の別称が演劇だ。と、私は思っている。つまりは空間系エフェクター。ディレイな訳である。逆にワウ・ペダルなのである。なんのこっちゃ。

 台本作業中後半これはもうとかく大変だった。大変過ぎて身体が怯えていた。プロットもメモもグチャグチャになって紙に書き、改めて読み返して「?」となるのは日常茶飯事。「過去の台本をコピペしてしまおう」と悪魔が囁くのは四六時中。もう全て投げ出して田舎で無農薬野菜を作ろうとナスやキュウリやトマトが夢に現れるのが毎晩。

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 上記は今回の台本作業時のメモ。このようなメモが膨大にある。公演終わったら全て捨てる。こんなものを残していたら孫の代まで呪われる。

 台本も残り15ページ辺りを残す頃合いに激しいバッククラッシュが起こり全く台本が書けなくなってしまった。パソコンに向き合う気力すら無くなり、真夜中に奇声を上げながら排気口の素晴らしいフライヤーを作ってくれている、ぢるちゃんに電話で泣き付いたりしていた。電話口で私は酷い顔色で「もう永遠にスーパーロボット大戦だけをやりたい」と叫び続けていた。架空のフットボールチームのトーナメント表を何枚も作りそれをLINEで送りつけたり、今になって思い付いてパリスヒルトンのエロ動画を12時間探したり、意味もなくポケットにタバスコを入れて持ち歩いたりしていた。

 そんな日々の終わりは猫カフェだった。もうとにかく逃げようと稽古も台本も全てから逃げ出そうと途中のスーパーで韓国のりだけ買って中央線に飛び込んだ。テキトーな駅で降りて私はもう途方に暮れていた。そんな時に猫カフェの文字が飛び込んできた。初めて行く猫カフェ。「猫アレルギーが微妙にありますが猫が好きなので入れてください」と受付で大きな声で叫び、店員みんなが怯えた顔になった。飲み物を注文するときに「コーヒー苦くて飲めないからオレンジジュース」とまたも大きな声で叫び店にいた全員が私から離れて行った。私はそうして孤独になった。台本も書けない。台本が書けないのなら私にはもう価値がないのだ。そうしてやってきた猫カフェでも、みんなが私を離れていく。もうどうやっても孤独なのだ。まるで路地裏で干からびた魂の様だ。

 でも、猫だけは違った。猫だけはニャーニャーと私のそばに寄って来て可愛い顔でグルルと声を出した。その内、店にいた猫の殆ど約30匹近くの猫が私のところへやってきて、みんなニャーニャーと私の流れる涙をその小さな舌で舐めてくれた。その猫たちが私にこう囁いた「ニャーニャーニャあああああああ(はやく台本書いて猫だけの世界に行こう。人間はもうすぐ滅ぶから猫だけの世界で僕たちと暮らそうあと今度来るときはちゃおちゅ〜るを持ってきて)」私はこう答えた「ニャあああああああああああああああああ」

 台本作業後半の時に私の頭にはある1つの詩がずっと頭の中に流れていた。下に引用する。

 突然の別れの日に

知らない子が
うちにきて
玄関にたっている
ははが出てきて
いいまごろまでどこで遊んでいたのかと
叱っている
おかあさん
その子はぼくじゃないんだよ
ぼくはここだよといいたいけれど
こういうときは
声が出ないものなんだ
その子は
ははといっしょに奥へ行く
宿題は?
手を洗いなさい!
ごはんまだ?
いろんなことばが
いちどきにきこえる

ああ今日がその日だなんて
知らなかった
ぼくはもう
このうちを出て
思い出がみんな消える遠い場所まで
歩いて行かなくちゃならない
そうしてある日
別の子供になって
どこかよそのうちの玄関に立っているんだ
あの子みたいに
ただいまって

 辻征夫「突然の別れの日に」という詩だ。この詩で失われたのは命ではない。時間だ。時間が失われたのだ。それがたまらなく哀しい。

 「思い出がみんな消える遠い場所まで歩いて行かなくちゃならない」そんな想いをどうして人は抱かなくてはいけないのだろう。幾多にも言葉が溢れているのに呼ぶには遠い。

 君が振り向かなかった方に。哀しみだけじゃない朝に。そして、辻征夫の素晴らしい言葉に今回の排気口新作公演を捧げます。

排気口新作公演『呼ぶにはとおく振り向くにはちかい』フライヤー表

排気口新作公演『呼ぶにはとおく振り向くにはちかい』フライヤー裏

 予約して劇場で会いましょうね。それまでみんな元気でね。

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