③ブッツァーティ『タタール人の砂漠』
大学も春休みに入り可処分時間は圧倒的に増えたのですが、個人的に読書は隙間時間にするのが好きですね~。一日空いてるから一日読書しようとはならない不思議。寝る前や電車の中でちびちび読んでいきます。
期末が終わって早速5冊ほど古本屋で本を買ってきました。そのなかの一冊目がこの『タタール人の砂漠』です。
いつかきっと…
おおまかなあらすじとしては主人公ジョヴァンニ・ドローゴが将校としてタタール人との国境を見張るバスティアーニ砦という拠点に配属され、砂漠の向こうの見えざる敵を待ち続けるというものです。
この砦はすでに特に戦闘も警戒すべき事件も起こらないまま年月が流れており、ドローゴはこんなところで無意味な警備を続けて青春を棒に振ってもいいものかと早々に転勤を希望します。
しかしドローゴは砦の何かに魅力を感じて転勤のチャンスを蹴り、来るはずのない敵、起こるはずのない戦を待つことを選んでしまう。
この作品で個人的に面白かったのはアイロニー的な表現で、ナレーションや将校たちの会話において「~なんてことはあるはずないのだ。」とか言っておきながらそれが裏切られるという構造が頻出します。
では「この砂漠の向こうから敵が来ることなどありえない」と物語を通して言われているのはどうなのか?そう感じてページをめくる手が止まらなくなるんですね。
「実は敵がいつか来るんでしょ?」と物語を進んでいくのは私たち読者のみならずドローゴもそうなのです。しかし物語の年月がどんどん加速しても一向に来ない。最後に敵が来るのかどうかは読んでみてのお楽しみとしますが、このドローゴの「人生」というものが一つの物語のテーマであるよう思いますね。
習慣に囚われたまま年月が過ぎ去り、若かりし頃「いつかきっと」と待ち続けていたものは一向に叶わない。街で過ごす友人や元恋人とも話が合わなくなり砦に来る前に戻ってやり直すこともできない。はじめのうちは期待をもってすごしていたものが、のこされた時間が短くなるにつれてじわじわと不安に変わっていく様子に胸がきゅっとなります。
ああ、まだ大学生の僕も人生の道半ばで暗い森に迷ってしまいそうです。ウェルギリウスみたいな人が導いてくれないかなあ。
ブッツァーティといえば…
あくまで僕にとってですが、ブッツァーティといえば寓意の人。
僕のnote処女作でもブッツァーティの短編を扱い、拙い文章でその寓意性についても少し書きました。
この『タタール人の砂漠』が出版されたのは1940年。ムッソリーニ政権下でイタリアが第二次世界大戦への参戦を決定した頃ですね。
個人的にはこの作品にはイタリア軍隊への批判のような皮肉のようなものを感じます。非生産的な形式主義や、大砲などの設備もろくに整っていない
のに戦を待ち望む兵士の様子などなど。
これについては先行研究や他のブッツァーティの著作も参照しないとただの感想や憶測の域を超えませんが、春休みは多少余裕があるのでその辺も調べていきたいですね。
いい感じに主張の新規性を見いだせればあわよくば卒論に.…
映画もみたいぞ!
この『タタール人の砂漠』、映画化されています。
ドローゴが見入った砂漠や砦の風景を視覚的に見てみたいですし、地平線の方から何かがやってくる不安・わくわくというのも映像で見れたら面白そうです。
どうやったら見られるんだろう。アマゾンとかには無かったのでレンタルDVDとかかなあ。DVDみれる環境が整っていないんだけどなあ。