ベトナム難民
ベトナム難民
思い出の糸を手繰ってみると、必ずしも、時系列的に、順序よく整理整頓されて頭に浮かんで来る訳ではない。
むしろ、順不同、ぼんやり浮かぶ事、急に鮮明に浮かぶ事など、 全く頭の中とは、摩訶不思議なものだ。
1974年、私は母親大学生の端くれ、我が夫は真面目に新聞社勤務。娘は可愛い盛りの4歳。
アメリカ中が、長すぎる上、泥沼状態のベトナム戦争に反対する声が、だんだん大きくなっている時期だった。
大学の校内でも、反戦運動が行われていた。 同じ歳の我々は当時32歳、4歳の娘を連れて、週末の反戦デモに参加した。
翌年の1975年、ベトナム戦争は終わり、ベトナムから難民が、カリフォルニア州にも大勢押し寄せた。
旧サイゴンなどの、米軍基地などで働いていたベトナム人は、共産圏側の勝利の結果、身の危険が迫り、 実際はほうほうの体で、逃げざるをえなかった。
米国側がヘリコプターなどで、そのような難民を救助、米国本土に連れてきた。
カリフォルニア州内陸部である、荒野のど真ん中にある、ペンダルトン軍事基地演習場に、 臨時テントを張り、大勢のベトナム難民が、ホコリに塗れながら、一時的に避難していた。
ラジオ放送やテレビなどで、米国政府は市民に懇願した。
ベトナム難民がアメリカ生活に馴染むまで、「手伝って欲しい」と。
我が夫は、いち早く行動を起こし、我々は1時間半近く、高速道路を北西部へ飛ばして、難民キャンプ地に到着した。
奉仕活動のボランティアとして、ベトナム難民を受け入れる手続きをした。 何度かそのキャンプに出向いて面接を受けた。
結果的に、我が家に来る事になったのは、ラック氏とチュアン夫人、御夫婦であるが、 別性を名乗るのが、ベトナムの風習であるとか。
ホンノップ、キュイ ともう一人合計3人の子供達のいる家族だった。 長女ホンノップは12歳、長男は9歳で、末っ子のキュイは5歳だった。
我が家は娘一人の3人家族であったが 急に5人増えて、8人家族の様相を呈した。
「米軍用機の修理を専門としていた。」と言う、ラック氏は、ほんの少し英語が話せたが、 子供達と奥さんは、全然英語は話せない。
しかも、終戦後のどさくさに紛れて、急遽、米国に着の身着のままで、逃げてきた状態であるので、奥さんは呆然として、ベッドに座り、涙ばかり流していた。
夫は、いち早く近所の教会に頼み、子供達の普段着などの寄付をおねがした。
そんな混乱の中、 4歳の娘は自主的に、食卓にベトナムの子供達を座らせ、 簡単な英語を教え始めたではないか。
子供同士は不思議なもので、 威圧感がないので、本能的に相手の意図を汲み取り、国際協調の見本が、我が家で展開し始めた。
夫は、新聞社の仕事の合間を上手く利用して、ラック氏のため、中古の自転車をまず探し出してきた。
新聞社勤務は、情報源でもあるので、彼の行動は敏速であった。
また、ラック氏の就職先探しに真剣に取り組み、自動車修理工の仕事を、10日以内に見つけ出した。
私とチュアン夫人は、料理当番を交互にした。私ばかりが作ると、アメリカ料理か日本料理になってしまう。
当時、私は、まだ、ベトナム料理を食べたことさえ無かったのだ。
ベトナムの子供達は当然、母親の手料理を食べたいに違いない。
私が運転して、アジア食料品店で、チュアン夫人は、ベトナム料理の材料を仕入れた。
料理を始めると、 チュアン夫人は余り泣かなくなった。
片言英語で分かった事は、チュアン夫人の母親や兄弟姉妹を、ベトナムに残したままである事が、悲しかったのだ
また、見ず知らずの国に来てしまい、言葉も分からず、途方に暮れていたようだ。 料理は心のセラピーにもなったようだ。
子供達は割とすぐに打ち解けた。 娘は自分の玩具を、全部居間に持ってきて、みんなで遊びながら、英語の単語、簡単な言い回しを、4歳なりに一生懸命教えていた。
そうこうするうちに、 7月になり、娘の5歳の誕生日が近づいた。
チュアン夫人が「私がその日は料理を作りたい。」と、提案してくれた。
二人で材料の買い出しを済ませ、 チュアン夫人の言葉に甘えて、 チュアン夫人に作ってもらう事にした。
私は娘とホンノップに、お揃いの袖なしワンピースを縫っていた。
2ヶ月程で、 ベトナムの子供達は、片言の英語で、娘と話せる程度に上達していた。 結構楽しそうにみんなで遊んでいた。
アメリカの夏休みは長い、 7月は夏休み中だった。 その9月から、子供たちが公立学校へ通うので、夫は書類を取り寄せたり、学校に出向いて、全ての手続きをしてくれていた。
アパート探しも始まっていた。 秋からの新学期が始まる前に、アパートに引っ越して、必要最小限の家具類も、教会を通して寄付してもらう必要があった。
我が夫は仕事の合間に、電話連絡などをして、奔走してくれていた。
娘のお誕生日のお料理が出来上がった。 私は、部屋を飾り、女の子達の洋服を作り、テーブルの準備をしていた。
大きなお皿にベトナム風春巻き、鶏の蒸し煮、三段飾りの豪華なケーキなど、全てチュアン夫人の手作りだった。
鳥をみんなに分け始めて、再度びっくりした。骨は全部取ってあったのです。 魔法のよう。その味付けの美味しい事。
彼女は本職の料理人だったようです。 ケーキだって、複雑な美しい模様が入っている、本職の人でないと作れないような、立派なケーキであった。
後日談
ラック氏の家族はアパートに越し、数ヶ月後我らは日本へ引っ越した。
時は瞬く間に流れ、4年間の日本生活を終え、 ジョージア州へ行く途中、カリフォルニア州に立ち寄り、ラック氏の家族を訪ねた。
ラック氏は自動車修理工で、奥さんはジーパンを縫う仕事に従事していた。
共稼ぎで、 米国生活に溶け込む努力を、4年間必死で続けていたようだった。
すでに住宅を購入、親戚縁者をベトナムから呼び寄せ始めていた。
私はその時、日系企業に就職が決まっていたが、夫はジョージア州についてから、職探しを始める予定だった。
ラック氏曰く、「心配する事ないよ。 ここはアメリカだ。 絶対いい仕事を、あんたも見つけるさ。」と、我々を勇気づけてくれた。
なんだか、立場が反対になったような気がしたが、嬉しかった。
ラックさん達の家族は、 すっかりアメリカでの生活に馴染み始めていたようだった。
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