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大変動期(2023年創作懸賞募集応募作品)


1961年、東京神田美土代町のYMCA 英語学校で学んだ。

その学校では、例えば、大使館で働く方の奥様が、週に2、3回の間隔で、英会話を教えてくださった。

また、米国のフランシスカン修道院の修道士が、長い黒服に腰紐姿で、教壇に立った。

もちろん、授業中の布教活動は禁止されていた。

要は、1962年頃のその英語学校の教師は、全員外国人であった。  

仙台の田舎にある茅葺き屋根の家で育ったわたしは、その時始めて、外国人と、教室内にせよ、身近に接した。

卒業後、仙台の親元に戻り、事務職員になった。

働きながら、夜学のユネスコ英語学校で勉学を続けた。 

その語学学校の教師は米国人であった。  

当時、国立旧一期校と言われていた、東北大学の理学部、法学部、経済学部などの秀才も、夜学の同級生だった。

ある夜、英語で模擬裁判をする授業。

裁判官、弁護士、加害者、被害者、証人など、クラス内で役を決めて、実際に英語で演ずる授業だ。

当然、法学部の学生が先頭に立ち、教室を裁判所に見立てた。

わたしは無免許の酔っ払い運転に撥ねられた被害者役であった。 

証言のため立ち上がり、指定された席にうっかりスタスタと向かったところ、加害者側の弁護士から攻撃を受けた。

「そんなに普通に歩けるのに、 3,000万円の賠償金は多すぎる。」と、加害者を擁護した。 

慌てた私は、急にびっこを引き辛そうな顔をして歩き出した。

英語を学ぶ意義は体得したが、自己判断であれ、まだ緒に着いたばかりだ。

「本当の実力とは程遠い。」と、痛感していた。

英語学校は、社会人と学生が夜学の教室内で席を並べていた。

20代初めの男女が一堂に介すれば、淡い恋も生まれる。

大学生の中には、就職がすでに内定していて、東京に行く人もいた。

再度、わたしも、後追い気分もあり、東京に夜逃げ同様舞い戻った。

まぐれ当たりで、渋谷にある青短の英文科に入学し、卒業した。

不思議と英語一筋の道を歩み始めていた。

千葉県館山市近郊にある公立中学校で、英語教師の経験をした。

その後、外資系企業でバイリンガル秘書の仕事を、東京で見つけた。

ひょんなことから、日本を訪問中のテキサス州出身の御夫妻と、日、英の交換授業が始まった。 

その御夫婦の知人が、米国から出張で短期間日本を訪問中、ハイキングで出会った。

そのアメリカ人が帰国後、しばらくして、綺麗な絵葉書が届いた。

英作文の練習と思い、文通を続け、縁あってジャパンタイムズ社で仕事を得た彼は、再度来日、数ヶ月後、我々は結婚した。

ニューイングランド出身でジャーナリストである彼と、毎日会話をする状況になり、私の英語力強化にとても役立った。

でも、英語を本当に身につけるには長い年限が必要だ。 

幼児期から英語圏で日常生活を送っていた人は自然に英語力がつく。

私の場合、渡米は27歳後半だった。

カリフォルニア州サンディエゴ時代、主婦兼母親業のかたわら、州立大学に通った。

アジア研究科を専攻した。 

青短時代の単位が認められて、3年、4年を履修して卒業した。

1970年代、離婚ばやりの時代だけに、私が通った大学校内に、運良く託児所があった。

1歳の娘と教科書を、自動車免許とりたての運転で、高速道路を飛ばして、毎日大学に向かった。

念願の、大卒になる可能性が、私を前に押していた。

改めて、大学で自分の英語力不足を痛感した。 

しかも、幼児を抱えた身で、万が一、我が家も離婚騒動になったら、生活が成り立たない。

日本に、大邸宅に住む両親がいるわけでもない。

そのため、頭にはちまきをしめ、せめて四年生大学卒の資格を、米国で取る決心をしたのだ。

日本ほど、就職時の年齢制限はなかったが、1974年大学を無事卒業はしたが、米国の経済が停滞していた時期でもあり、就職先が容易に見つからなかった。

そうこうするうちに、娘は4歳、娘の教育にも力を入れ始めていた。

長く続いたベトナム戦争も1975年に終わった。

日本生活を実現した。 その理由は、娘の日本語教育と日本文化吸収のため。

また、私自身もはじめての海外生活が六年も続き、日本の全てに飢えていた。

私の希望を聞き入れてくれた夫が、共同通信海外部で職を得たので、翌年、我が家の3人は日本に移動した。

私は、神田外語学院の専任講師になり、日本全国から集まった18、19歳の学生に英語を教えた。

1学年20クラスもあり、A、B、C, D, Eと能力別クラスの編成であった。

上級クラスの卒業生が、神田外語学院の素晴らしさを、社会に知らせる暗黙の約束があったようだ。

学校側も教師陣も、優秀なクラスに特に力を入れて、英語教育に専念した。

英語力のついた卒業生の為、世界中にある日本大使館、領事館などの事務員として、推薦状をしたためた。

4年ほど英語学校で教えながら、私も学生に負けじと英語力を強化する努力を続けていた。

4年後、今度は夫が日米文化の狭間で苦しみに絶えている事に気づき、米国に再度住む事にした。

米国で働く機会を求めて、私はジャパンタイムズ紙の求人欄を、毎日調べていた。

ジョージア州のアトランタ郊外の新しい工業団地に、日本のH社が進出する事になった。

工場の工程で、綺麗な水をふんだんに使う必要があり、ジョージア州の水質の良さが選ばれた。  
その上、 当時ジョージア州は外資系企業誘致に力を入れていたので、日本企業もその工業団地に進出したのだ。

また、当時の日系企業は海外進出の際、労働組合組織がない地域に目をつけた。

社長、工場長、経理課長と若手の技師4人が日本から、まずは、会社側が準備したアトランタのホテルに滞在した。

我々家族も、会社側が提供した宿泊施設に落ち着いた。

神田外語学院で学生達と4年間、毎週20時間も英語を練習し続けてきた甲斐があった。

社長とアトランタにある、設計事務所、弁護士事務所、大学、水道局、州政府などとの交渉に同伴した。 南部訛りの英語にも少しずつ慣れ始めた。

企業経営には完全な素人であった。

けれど、社長より英語力だけは秀でていたので、通訳としては役立ち、毎日13時間以上働き続けた。 

ジョージア州に着いた時、私は38歳であった。

まだ体力もあり、 仕事をしながら学ぶ事も多く、張り切って仕事に全力を傾けた。

弁護士や大学のアドバイスに従い、 地元での雇用が始まり、課長一人と数人の係長をまず選別した。 全員白人であった。

米国の南部であるためか、 全員黒人が工員になった。

新採用の100人のため、大学の教室で仕事の手順や作業の訓練が行われた。

工場が稼働し始めた。

でも、私は中途採用の関係もあり、我が社の製品にさえ精通していなかった。

仕事の合間を見て、工員の横に並び、私も自主的に、ほんの少し工員さんの仕事をしてみた。

立ち仕事で、慣れない仕事であり、しかも手先の仕事であったので、2、3時間程度だけの経験であったが、身体中が痛んだ。

工員さん達の仕事も、楽でない事を実体験で学んだ。

夫が米国の首都にある新聞社勤務になり、私は社内通訳の仕事を断念して、家族揃ってワシントンD.C.近郊に引越した。

縁あって、国務省の言語課で同時通訳の試験を受け、同時通訳者として登録した。

国務省の試験はエスコート、逐次通訳、同時通訳と3段階あったが、 今までの経験が生きて、一番難しい同時通訳試験に合格した。

自己宣伝能力に欠けていたので、 試験に受かってからも、数ヶ月何処からも声がかからなかった。

のろまなわたしも、遅まきながらやっと気がついて、経歴書をしたため、地元の旅行社、日系企業支社などに送りはじめた。

一方、国務省の通訳試験合格者の身元調査が行われたようで、 半年後、やっと国務省からも契約通訳の仕事の声がかかった。

手始めの仕事はエスコートの仕事で、 例えば、
選ばれた日本の図書館司書と同行で、米国中を1ヶ月旅して、米国の司書と会談をした。

1ヶ月間、何処に行っても、基本的に似通った話題であったので、良い通訳の訓練になった。

わたしにとっても、米国を広く旅行できる素晴らしい機会であった。 

分野も幅広く、 オーケストラの指揮者、美術家、経済学者、政治家、考古学者、建築家など、学ぶ事の多い出張であった。

その上、首都であるワシントンD.C.には、全ての連邦政府機関がある。

労働省、通商代表部、その他の省庁等からも、通訳業務の問い合わせが来るようになった。

また、ワシントンD.C.近郊に、例えば、日本生産性本部の支所があり、所長から随分仕事を回していただいた。

米国の各州で開かれたマルコム ボールドリッチ品質管理受賞大会で仕事をした。

その後、50州のあちらこちらにある、受賞企業訪問時の通訳も勤めた。

米国のデミング博士が、統計的品質管理の重要さを提言、米国の各州で講演をした。

また、デミング博士は、来日して品質管理の講演会も開いた。

その結果、今まで以上に、日本の関係者は真剣に統計的品質管理に取り組み始めた。

経営学のズブの素人ではあったが、 専門家達の通訳として何度も参加、学ぶ事が多かった。

ワシントンD.C.にある日系旅行会社からも、仕事の声がかかり始めた。

ガイドも兼業する必要があり、ワシントンD.C.郊外に住み始めて、一年後から、ガイド用虎の巻を真剣に学び始めた。

わたし自身が、まだ、ワシントンD.C.を知らない状況であったので 健脚を利用してガイドブックを片手にやたらと観光して回った。

徐々に通訳を紹介するエイジェントとも繋がりができ、 ニューヨークやボストンへの出張回数も増えた。

ニューヨーク市へ出張した時は、ブロードウエイのミュージカルを満喫したり、ナイヤガラの滝見学も日本代表者と同行した。

民間からの通訳要請と政府機関からの依頼を比較すると、民間の方が料金が高かった。

少しづつ、民間企業、学界等からの依頼を優先するようになった。

テキサス州での仕事が入った。 フォートワース
の街では、まるでカーボーイの映画場面の中に自分が入ったような錯覚を覚えた。

その時は、日本側グループは食肉輸入業者で、大口牛肉の買い付けの可能性に関する話し合いが行われた。

米国側はテキサス州の大牧場主が対応した。 

会議室での話し合いの後、実際に牧場を見学する事になった。

途中で、牧場主は我らを伴って店に寄り、カーボーイハットを日本の代表団7人に進呈した。

もちろん、通訳の私にもくださった。 気前よく、カードで全員分の帽子代を支払った。 

当時の値段で 一つの帽子は90ドルだった。

牧場の入り口で 助手達が人数分の馬を準備して待っていてくれた。

わたしは、その時まで馬に乗った事も無かった。

広い牧場内の牛達は、自動車の音を極度に嫌うそうだ。 

そんな訳で、 乗馬姿で牧場内を見学する事になったのだ。

この場合、乗馬が初めてであっても、仕事上必要なので、乗らない訳にはいかなかった。

青空を背景に、牧場主は言った、「この馬はとても大人しいし、牧場内をゆっくり歩き回るだけだよ。」と。

私も馬に跨がった。 

初めは牧場主が話した通りその馬はゆっくり歩いてくれたが、 道端に生えている雑草に急に興味を示し、頭を下げた。

まるで滑り台みたいに、滑り落ちそうになり、馬にしがみついた。 馬は急に駆け出した。  

馬は乗る人により行動を変えると言う。 どうも、わたしは馬に馬鹿にされたようだ。

当然であるが、颯爽と乗馬姿の牧場主が説明を始めた。

「左手の後ろ側にある納屋は、冬用干し草貯蔵所だ。」と、片手を高々と上げ、左を向いて説明するカーボーイ姿の牧場主。

通訳のわたしは、片手を上げる事も出来ないし、頭を左に向けることさえできなかった。  

命懸けで、必死に馬に落とされないようにしがみついていた。 音声で通訳だけは何とか続けた。

広大な牧場を馬達は快適に走り回った。 私の顔色は蒼白であったが、 何とか仕事を続けた。

その夜、気前の良い牧場主は、サルーン(テキサス風居酒屋)に全員を招待してくれた。 

ビールで乾杯、血の滴るようなテキサス牛のステーキを食べまくった。 美味しかったです。

すると、サルーンの客達が夕食後立ち上がり、隣接するダンス場で、行儀良く間隔を空けて並んだ。

カーボーイハットと皮の長靴姿の男女が一堂に集まると、演奏家達が音楽を奏で、ラインダンスが始まった。

我らの牧場主は係の人に囁き、日本の代表団もラインダンスに参加する事になった。

通訳の出番だ。 簡単な踊り方の説明とデモンストレーションがあり、 日本人もラインダンスに参加した。

日本の代表団も私にとっても、ラインダンスは生まれて初めての経験だった。

いわゆる社交ダンスと違い、ラインダンスは一人一人バラバラに踊る。  

全員同じ動きをするのだが、 大女と大男達が私のすぐ側で、音楽に合わせて革製のブーツで足踏みをする。

万が一、踏まれたらひとたまりもない。 心臓が止まりそうなほど緊張した。

でも、テキサス風踊りを皆んなで楽しんだのは、今でも良い思い出だ。

他の機会に、アイオワ州に出張で出かけた。 肉牛解体工場内の見学と説明会の通訳業務であった。

屠殺され、皮を剥がされた肉牛が何千頭とぶら下がっている巨大な冷凍室の中に入った。

衛生管理の為、支給された医者が着るような白い制服を羽織り、そこでがたがた震えながら通訳業務を2時間ほど続けた。

その後、白い制服を脱いで、会議室に入り、質疑応答の時間に入った。

ある時、あの有名なフランスのニースでの国際会議の仕事の問い合わせ。

世界有数の多国籍企業が一堂に会する会議で、分科会の数も多い為、 珍しく同時に9人の日英通訳が雇われ、私もニースに飛んだ。

1日目の会議が終わった夜、エイジェントの事務員が、悲壮な顔をして、日英通訳を全員集めた。  
「客から苦情がでた。」と、彼女。

「誰であるか翌日の午前中に調べ上げ、苦情のでた通訳が特定できた段階で、即、解雇にする。」との事。

全員真っ青。 代わりの通訳者の手配は既に始めたが、到着は翌日の午後になるらしい。

お客から苦情のでた通訳は、「ビズネスクラスの往復航空料金、10日間の五つ星の高級ホテルの料金も支払う義務あり。」との事。

我が家は中産階級を何とかかろうじて保持している程度。

月賦で購入した2台の車代、銀行から借りて購入した家の支払い、娘の教育費その他、一番出費が重なる時期であった。

お給料目当てに、ニースまで飛んできたが、罰則の大金は払えそうもない。

当時、既に15年ほど、同時通訳業務で、世界を巡っていたが、このような事は初めてであった。

緊張に包まれたまま、会合は終了した。 

翌日から、わたしは他の同僚8人と、顔を合わせる機会を極力避ける事にした。  

意地悪をされると、精神的に影響を受けてしまい、仕事の成果にそのまま響いてしまう。

頭の中で閃いた。 

自分にあてがわれた通訳用ブースには、時間通りに入らねばならない。

ロビーを普通に横切れば、同僚と出会う確率が高くなる。

通訳業は一匹狼的な仕事で、初めて会った同僚がほとんどだ。

非常階段を利用する事にした。 

出来るだけ目立たないように、自分の職場に時間通り到着する為だ。

フランスのニースは避暑地としても有名で、海辺近くに沢山の豪華なホテルがならんでいる。

カナダ出身の数学博士が今回の問題児であった。

代理店が急に、9人も日英通訳を短期間に集める必要があった。

その上、最後の一人がどうしても見つからず、日本生まれのカナダに住んでいる数学博士を混入した。

仕事の半ばに、土日が入る贅沢な労働環境であった。 ニースの海辺を休日楽しんだ。

最終日の仕事が終わりほっとひと息をついた時、フランスの中年の婦人が私のブースに来た。

AIIC (国際通訳者連盟)への会員入会勧誘だった。

もちろん、喜んで受けた私。 米国の住所などを書いて手渡した。

運の良い事に、AIIC の会長と出会い、入会を勧められたのだ。

その後すぐ、自宅にフランス語で書かれた申込書が送られてきた。

運良く母方がフランス系だったので、夫はフランス語がわかる。

書類作成を夫に頼み送付した結果、わたしはAIICのメンバーになれた。

ヨーロッパでの通訳業務が、俄然、増えた。  

米国から行くヨーロッパでの通訳の場合は、航空券はビズネスクラスと決まっていた。

オランダのハーグで開かれた、国際特許庁の会議にも参加できた。 

ドイツ、フランス、旧ソ連であるロシア、ギリシャなどへも出張した。

南アフリカのケープタウンへの通訳要請もあり、人種隔離政策の現状をこの目で見た。

当時、アメリカと違って、ヨーロッパで通訳の仕事をすると、仕事の終了時に、職場の机上にチェック(給料)が置かれていた。  

その上、当時、私が参加した米国の同時通訳の職場は二人編成であった。  

15分毎に、かわりばんこに通訳をするのだ。

それに対して より歴史の長いヨーロッパの場合は、通訳業務への理解が深く、3人編成であった。 

通訳料金も米国より高かった。

話は変わるが、原子力発電所の使用済み燃料に関する日米会議が開かれた。  

ワシントンD.C.近郊には情報収集業務のため、主な日本企業の事務所があった。

当然、日本の電力会社も、ワシントンD.C.に支所を開いていた。

日本がまだ、経済第二の大国と言われたいた時期は、電力会社も割と大きな事務所を構えて、多い時は10人以上、日本から駐在員を派遣していた。

米国の原子力発電所内の事務所で会議終了後、実際に現場見学も含まれていた。

大きなプールの中に、使用済み燃料が詰まった長細い筒を沢山縦に並べて、水の底に沈めてあった。

その場所に入る時は、米国の電力会社が提供するいでたちに身を包み、その場で説明を受けた。

出る時も検査があり、ガイガー計量器で 放射能被曝が、安全である数値を示した時のみ、その場から出場できた。

米国での通訳業務の場合は、日本のように特化する事は殆ど不可能で、何でも熟す意気込みでないと収入を得る仕事として成り立たない。

省庁、学界、労働組合、経済界、教育界、水際開発、芸術振興関連など、声が掛かれば何でも受け、必死で事前の勉強に取り組んだ。  

受験勉強とあまり変わらないのだ。 でも、集中する事で、勿論、少しずつ実力もついてきた。

アーカンソー州にある、タイソン 食品(Tyson Foods )本社で通訳業務に携わった。

日本代表団と企業所有のジェット機に乗り、他州にある支所に移動中の事であった。

無数の鶏の卵を温める機械を見学したり、多数のひよこを本社の近くの農家に一時的に預けている場所も見学した。

本社に隣接する大々的な区分け大養鶏場も見学した。

「雌の鶏からは卵、それに対して、雄の鶏は成長すると鶏肉になり、スーパーなどに出荷される。」と言った説明が、まだ私の頭の中で踊っていた。

自由度を失った鶏達。 全て人間の管理下に置かれて、最大の利益を得るための企業秘密手法があるようだ。  

航空機の中で、運良く日本からのお客様達は会議が終わりホッとした関係もあり、居眠り状態であった。 

招待側と主賓達が寡黙である間は、通訳者の休憩時間にもなり、ありがたい。

ぽっかりと白い雲の浮かぶ青い空を、航空機は超スピードで飛び続けた。

すると急に、タイソン食品会社の職員が私の席にやって来た。 

私の横に座って、その人は言った。「お宅の義父が今お亡くなりになった。 」

「通訳業務契約条項に従い、この航空機が着陸次第、御主人の両親宅へ飛ぶように。」

「今、本社の職員が航空券の手続きもしている。」と、言うような趣旨の説明を受けた。

夫の父親は肝臓癌で自宅療養中であったが、こんなに早く急変するとは思わなかった。

大企業側の真摯な対応のお陰で、私は仕事半ばでありながら、予定を変更して、マサチューセッツ州に向かい、義父の葬儀に間に合った。

「通訳と、乞食は三日すると辞められない。」と言う、冗談があるぐらい、この分野に足を突っ込むと、抜け出し難い。

毎回違った専門家に会える上、しばしば場所も毎回違う。

国が違ったり、州が違ったり、兎に角、変化に富んでいる。

それ故、慣れる事が稀で、常に通訳業務は驚きの連続である場合が多い。 

幸運なことに、好奇心の強い私に良くマッチした仕事であった。

ある時、 真冬の仕事が舞い込んだ。 もともと寒さに弱い人間であるが、収入の可能性が目の前にぶら下がると、受けるのが自由業の宿命だ。

シカゴのミシガン通りに面した弁護士事務所が、その時の私の職場だ。 

北風が吹き荒れていた2月の朝7時45分過ぎに、弁護士事務所のある建物の前まで、雪道をゆっくり注意深く歩いて到着した。 

歩道から建物の入り口まで、 手すりがわりに頑丈そうなロープが張ってあった。 

寒さの為、道路が凍りついて、滑りやすい状態であたためだ。 

やっと建物内。 オーバーを脱がないと暑すぎるほどの暖房が効いていた。

若い頃は兎に角、当時、既に60代の初めであったが、極力訴訟に関わる通訳は、身体が持たないので、避けていた。

偶々、長年の常連客であり、過去に数度この関連の仕事をした関係もあり、受けたのだ。

四日間に及ぶ調書取りが終わった日の夕方、クタクタに疲れていた私は、ホテル近くの、高架鉄道の真下にある小さな古い中華料理店に入った。

弁護士事務所での仕事の報酬は良く、その面では嬉しかった。

けれど、何億万ドルが頭上にぶら下がっているような訴訟関連の仕事は緊張を伴うため、ボロ雑巾のようになってしまっていた。

店主が、中国酒の入っている小さなさかずきもどきを私の前に置いた。 

「奢りだよ。 飲めば疲れが取れるぞ。」と優しく言って、カウンターへ戻った。

いただいた中国の老酒を飲み、温かい中国料理を食べ、ホテルに帰りすぐに寝てしまった。

出発日の翌朝、目を覚ますと、不思議と仕事の疲れはすっかり消えてしまっていた。

若い頃、偶然、ひょんな事から英語の世界に首を突っ込んだ。  

何年経っても 自分で満足のできるような英語力がつかず、焦りながらも、何故か諦める事なく努力は続けていた。 

もう、海外生活が合計50年に近づこうとしている。

グローバル化が叫ばれ、歴史的に多種多様な問題があるにせよ 気がつけば、英語が完全な世界的言語だ。

ただ夢中になり他国の言語を習得すしようと努力し続けたのが私の人生でもあった。

半世紀近く、お給料を貰いながら 英語力を研磨し続け、今も実際続けている。

でも、幸いな事に「英語の為に努力を続けて良かった。」と、今は思える。

日本語と同様、他国の言語も、当然、その言語が使われている国の価値観、歴史等と切ってもきれない。

英語を学び続けた事は、少なくとも英語圏の価値観や、そのような国々の歴史もある程度、自然に学べたと思う。

しかも、現実に、「英語という言語を通して、世界を理解するよすがにもなっている。」と、自負している。

でも、75歳まで現役で働き続けられたわたしは幸運であった。

21世紀に入り、既に23年。

人工知能の爆発的進展で、多くの知的職業も、AI がより早く正確に出来る時代の到来だ。

と言う事は、通訳業務も、21世紀のこれからはAI が取って代わるのは、火を見るより明らかだ。

「それにしても、良い時期に通訳者だった。」と、私は胸を撫で下ろした。

イズラエルの歴史学者、ユバール ハラリ教授(Yuval Harari)は書籍「ホモ デウス」で、人工知能やナノテクノロジー等、人間を超える ホモ デウス(神)が近未来生み出される事に関する書物を出版して、世界中で話題になっている。

人工知能の父で、米国のジェオフリー ヒントン氏(Geoffrey Hinton)はグーグル社を辞め、 公の場で、AI の社会全般に及ぼす影響に関して、注意を促している。

米国の軍部も、最新技術であるAIを戦略、戦術に組み込む研究に力を注いでいる。

もちろん、中国も然りだ。

GPT-4の次に来る人工知能の研究(GTP-5, GTP-6、等)を6か月停止して、「世界の国々が、AIの対処法について話し合うべきだ。」と言う、大勢の専門家達の署名も出ている。

人類の終焉を予言する専門家が、増えているようだ。

にも関わらず、大国同士のAI技術競争は激化するばかり。

米国内だけでも、最高経営責任者サム オルトマン(Sam Altman)のGPT 4 (Open AI)や競合相手が出現している。

米国議会では、今後の人工知能対応に関して公聴会が開催され始めている。

専門家達は、「GPT 4 はすでに、AGI(Artificial General Intelligence)により近い。」と言う。

今後、AIと共に、どんな時代が出現するのだろう。

創作大賞2023 #エッセイ部門

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