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西村俊彦氏が朗読する、夏目漱石の「こころ、上、中、下」をホノルルで、2021年の7月に聞いた。

当時の大学生は、書生と言われていた時代、金銭的に余裕のある、農家の息子の中には、東京に出て勉学する者も多かった。

先生と呼ばれる、この本の主人公の一人は、いわゆる中年の男性で、奥さんとお手伝いさんとの三人暮らしだった。

作家夏目漱石も、50歳そこそこで、あの世に旅立ってしまう。 私はすでに夏目漱石より、28年も長生きしている事になる。

作品中で、先生と田舎から出て来た、資産家の息子である書生が、鎌倉の海岸で偶然知り合いになり、それから二人は徐々に接近する。

書生は高校の上級生であり、もうすぐ大学生になる。 先生は、十数年前に結婚、偶々、子供のない夫婦だった。

なぜか、 その書生は、 特に職業に付いていなくとも、生活のできる先生を、人生の師と仰ぎ、自宅を訪問、 夕食のご馳走になるまで、親しくなっていった。

小説の題が「心」とあるだけに、 書生は本能的にか、人間的に惹かれる先生の秘められた心の動きを分析、腑に落ちない部分に対して、常に疑問に感じていた。

一年以上交流が続き、 先生も若い頃、とある田舎から書生として、大都会である東京に出てきた事実を知る。

チフスのような感染病で、偶然、両親を矢継ぎ早やに、子供の頃無くした先生は、親戚の一人である、父の実弟である、叔父さんの世話を受けていた。

叔父は自分の娘と、まだ高校三年生であった書生の先生とを、結婚させようとした。 

子供の時から、親戚づきあいのあった、その女性と結婚する意思はなった。

あまりにも慣れ過ぎていて、恋愛感情が全然湧かなかったのだ。

叔父の思惑がはずれた途端、叔父とその家族は、先生を冷たく扱かい始めた。 

御両親が、先生に残された遺産も、叔父は誤魔化して、殆ど取ってしまった。

当座の、学生生活に困らない額の金銭だけは、なんとか受け取り、先生は東京に戻った。

父親が死ぬ前、自宅の資産を託していた叔父の裏切りに、若い先生は、すっかり人間不審に陥った。

「こころ、中」は主に、先生が親切にしている、若い書生の田舎に住む両親と、その息子である若い書生間の関係を、詳細に描写している。

日本的親子の情愛の記述が続く。  

書生の父親は腎臓病の持病があり、長年奥様と静かな生活をしていたが、年と共に、その病気が悪化する。

夏休み、冬休みなど、年に数回帰郷していたが、父親の病気が悪化したので、卒業直後、急遽、田舎の自宅に帰った。 

当時は、自宅で病人を看取るのが、ごく普通だった。

微細にわたり、 自宅での看護の状況、各家人の心境描写が綿密だ。 

当時の日本の家庭内の情景が、目に浮かぶような、素晴らしい書き方だ。

時代はこの小説より、現代よりの、1953年であるが、私の祖父も6か月近く、自宅で病床に伏していた。 祖母が全ての身の回りの世話をしていた。

再度、小説の中。 資産家の息子で、 兄と妹の3兄妹であったが、父の死後の遺産相続に関する問題を、なかなか言い出せないでいた。

当時の、日本の津々浦々で展開した、情景だったと思う。 

先生は、自分の過去の苦い経験から、この若い書生に、 父親が存命中に、遺産相続の件を、父親からはっきり聞き出すよう忠告する。

「こころ、下」は、東京の先生から、帰郷中のその書生宛に、分厚い手紙が届いた。

これは先生から、書生に当てた遺言的手紙で、自分の苦しい過去の秘密を、打ち明ける内容だった。 

時代は、明治天皇崩御の前後だった。 登場人物数も限られ、淡々と記述されているが、 当時の日本的風景が、目に浮かぶ小説である。 

望遠鏡で、広大な世界を見渡すのではなく、 顕微鏡で、自宅内の複雑な人間模様を、詳しく記述しているような小説だ。

長文の手紙の中で、 先生が書生時代、東京で、元軍人の未亡人の経営する、素人下宿屋の住人なったことについて、詳しく書いていた。

奥さんと呼ばれているその未亡人には、年頃の娘さんがいて、同じ屋根の下に長く住んでいるうちに、当時、書生であった先生は、その娘さんを主に精神的に好きになる。 

けれども、少年時代に受けた叔父の仕打ちから、社会全体に対する不信感が強く、時により、大家さんの本音は、何であるかと疑う時もあった。

でも、日々の生活で、信用できる人々であると思う事もあり、心が右へ 左へ 揺れ動いた。

この小説の最終段階で、同郷の学校時代からの、先生の幼馴染みであるk が登場する。 

元々は本願寺派のお寺の次男に生まれ、医者の家に養子に出された。  

養父母は、未来、K を医師にしたいと思い、東京に就学させるが、 本人のK は、宗教、哲学などにより惹かれてゆく。

考え方の違いなどで、養家と争いになり、すったもんだの末、実家に復籍すれど、 実母が亡くなっており、継母のいる実家とも、軋轢がおおい。

K は自活の為、勉学と仕事の両立に苦しみ、身体が衰弱してしまう。

友人として、みるに忍びず、K の生活費を浮かせる為、自分の下宿先に先生は、Kを連れてきてすまわせる。  

大家さんは、「そうしない方が良いよ。」とやんわり忠告するが、書生であった真面目な先生は、その忠告を無視した。

先生は、書生さんと一世代違うので、先生の若い時代のやり方や考え方と、今の書生さん達の考え方の違いも指摘している。

しかも、現代は、この変化がより急展開している、時代に突入している。 

先生やこの書生達のように、 良心の呵責に苦しむ時代は、この地上から消えたのであろうか。

話はずれるが、 ドイツの新進若手哲学者である、マーカス ガブリエル(Markus Gabriel)
は、今までの我欲に固まった資本主義から、もっと倫理的資本主義に、方向転換する必要性を説いている。  

資本主義的経済活動の中で、「もっと倫理(心)を重要視すべきである」という、意見のようだ。 

夏目漱石同様、ある意味で、心の置き方の重要性を、示唆している。

同じ屋根の下に住む内に、背の高いK は、大家さんの娘さんを好きになってしまう。  

先生も、以前から、そのお嬢さんを好きになっていた。  Kがやはり、「お嬢さんを好きになったようだ。」と、気づいてしまった。

先生は、急いで、K を出し抜いて、大家さんである奥さんに「お嬢さんをください」と、結婚を申し込んだ。

この小説の中に出てくる若い書生k は、結果的に、養家とも実家ともうまくゆかず、 同郷のよしみである先生に、下宿屋で好きになった女性もとられ、K は八方ふさがりになり、自殺してしまう。 

その事件が先生の良心を、長年苦しめることになり、最終的に厭世的気分になり、先生も何年も経ってから、自殺してしまう。 

問題は決して自殺では解決しない。 けれど、この小説の登場人物は、良心の咎めに苦しみ、神経衰弱気味になり、「八方塞がりである。」という、悲観的見方に落ち入ってしまったようだ。

いけしゃあしゃあと、生きている人々が多い世の中で、良心的で正直である分、この二人はそれぞれ、自分の心の処し方に関して、苦しんでしまう。  

先生も、叔父の仕打ちに、人間不信に陥るが、状況が変わると、今度は先生自身が、自分の友の信頼を裏切ってしまう。 

人間の心は昔から、「ころころ変わる」と、言われているが、 夏目漱石は「心」と言う小説で、淡々と人間の心の移ろいやすさについて、筆を進めていた。 

と同時に、人間社会の要は、結局、「人間の心」であると、訴えたかったのかもしれぬ。

21世紀は、 インターネットの時代、人間関係も日本米から外米的に、 拡散、分散、細胞レベルにまで、分割してしまう時代かもしれない。

人間は動物でありながら、貴重な心を保持している。 

改めて、文豪夏目漱石の、目の付け所の鋭さを感じた。 

その「心」こそが、人類の全ての明暗を決めてしまう、重要な要点なのだろう。

数日かけて、朗読を聞き、自分が今、ホノルルに住んでいることさえ忘れるほど 日本文学の世界に浸りきることができた。 ありがたい事だ。

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