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通訳業務

通訳業務

北米に1980年来住んでいるが、 1991年、珍しくアメリカの東海岸から、 韓国ソウルへ、出張する仕事が入った。 

普段は、韓国在住の日英通訳者又は、隣国である、日本在住日英通訳者が、活躍する縄張りである。 

その会合が、秋に開催されたためか、秋は通訳業が一番忙しい時期でもあるため、よりにも寄って、遠方である米国東海岸在住であった私に、お株が回って来た。

あるいは、通訳斡旋業者の内情で、偶々、私に白羽の矢があたった可能性もある。

シイラ ソウルホテルは、 韓国風宿泊施設と西洋のホテルがうまく調和しているような、おそらく韓国でしか見られない、歴史のある高級ホテルだった。  

ホテルから徒歩で行ける、南大門市場近辺を、闇雲に歩き回った。  漢方薬局、漢方薬卸売り屋、軒並み続く布地屋等、買い物客で賑わっていた。

市場では新鮮な野菜、果物類、肉類、魚類と全て揃っていて、韓国料理屋台もあり、熱気に溢れた市場を歩いていると、仕事中の緊張感が徐々に消えていった。

私の場合、 国際通訳業務を少しづつ増やしていったが、1981年に初めてから、十数年は、会議場後方に、スペイン語、フランス語、ロシア語、ドイツ語と日本語のブースが並んでいたものだ。  

私の経験では、1995年頃から、 韓国語通訳者のブースが追加され、若手韓国人通訳が、目を輝かせて参加した。 

国際会議通訳者の、生き残り法にも秘法があり、我々年齢的にも経験的にも、先輩でもあったので、知っている限り手伝った。

プログラムを確認して、講演者の控え室の場所を早く見定めておき、 できればスピーカーと、事前に打ち合わせる時間を持つ事。 

日本人が舞台上で演説する場合は、多くの場合、既に原稿を準備している場合が多い。 万が一、上手くそれが手に入れば、事前に速読して置くので、通訳は楽である。  

と言っても、なかなか講演者は、原稿のゼロックスをとる事を許さない。 要点を口頭で聞いておくだけでも、通訳者の心が落ち着く。  

なかには、スピーチ原稿を、胸のポケットに忍び込ませているのに、 通訳者には、「原稿は無い。」と、素気無い人もいる。 

ところが、その方が壇上に上がると、おもむろに原稿を背広の内ポケットから出して、 読み始めたりする場合もあるのだ。

講演者は、自分の出番がある日は、 他者と事前に会いたがらない場合も多い。何処か静かな所で、控えている場合もある。  

日本の偉い方が出張講演するような場合、 お付きの人がいる場合が多い。  本人が見つからない場合、 お付きの人を探し出し、 その方から原稿の写しを頂くか、話の内容の説明を少しでも受けられるよう工夫する。

準備の良い代表団は、日本語と英語の原稿を、既に、通訳者用に準備している場合もある。 それらを上手く手に入れることができれば、 当然であるが、成功率は格段に上がる。 

バフェスタイルの昼食時は、遠慮無く先に食べさせていただき、 いち早く午後の部の準備に取り掛かる事、 そして勿論、手洗いの場所を確認しておくこと。 

ブースの中での私語は、必ずマイクの電源を切ってあるかを確認してから、話し合う事。 
長い通訳経験の中で、苦い失敗もあったため、学んだ事を伝授したのだ。

国際会議で使われた、年限の長い言語の通訳者には、先輩が多い。 スペイン語系の通訳は、勿論若手もいるが、年季を積んだ70代もいれば、中には80代で活躍中の人もいる。

21世紀に入って暫くして、中国語ブースが追加された。 初めは、北京語ブースのみであったが、 人口の多い大国である中国の事、 講演者、会場内の参加者構成によって、 北京語と広東語のブースも並んだ。  中国からの参加者数も多く、会場の雰囲気も変わり始めた。


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