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中学生の時だった。  父が家族全員を、海の家に1ヶ月近く、滞在させる手続きを取ってくれた。 1956年の夏であった。 

兄の死後、私が中学1年生になる頃、大阪府豊中市から、父の家族(奥さんと二人の異母妹達)も、仙台で生活を始めていた時だった。 

当時すでに、祖父はあの世に旅立ってしまっていたが、93歳まで生き抜く祖母は、同じ家に住んでいた。

中学2年生の夏休みだったので、高校受験準備のため、夏季講習があり、私は夏の家のあった深沼海岸から、バスで40分ぐらいかけて、我が中学校に毎日通った。

海辺の側の家を借りたので、朝5時頃、海辺に出て、小型漁船が浜辺に帰ってくる時、長い丈夫そうな綱を、地元の人々と一緒に引っ張る手伝いをした。  

御褒美には、5、6センチほどの小魚を五匹近く貰えた。

そのような経験は、私にとって、生まれて初めての経験だったので、65年も前の出来事であるにもかかわらず、昨日の事のように、鮮明に覚えている。  

夏季講習に出た以外は、毎日海辺で遊んでいた。 砂浜を裸足で歩き回る快感にひたっていた。 

波の音、足を撫でて行く小波、青空、すべてが、私の心を踊らせた。

当時の経験が、海の好きな私を作り上げたようだ。 祖父母と生活していた時とは、違う経験が増えたのだ。  

父に感謝する事を、とんと忘れていたが、子供達に良い経験を積ませようと、彼なりに努力していた事も、多々あったのだと、遅まきながら、今頃、海を見ながら反省している。

夜学のユネスコ英語学校時代、当時、私は社会人で日通に勤務していたが、夜は英語を勉強、地域の大学生がクラスメートであった。  

そんなある日曜日の晴れた初秋、蒲生海岸に有志みんなで遊びに行った。  小型テープレコーダーを持参した級友が、フォーク ダンスの音楽をかけ、我々は輪になって踊った。

波の音、海風が肌を撫でて行き、真っ青な空に白い雲。 心は幸せ感に満たされた。

私は20歳。 夕方帰りは、魚屋の6男坊で、東北大学理学部の四年生のZと、並んで歩いた。

砂浜から、バス停までの長い道のりを、ゆっくり歩きながら、おしゃべりを楽しんだ。 「東京の大企業に就職が内定している。」と、彼は話してくれた。

皆んな金欠病ではあったが、一日中海辺でふざけあい、持ち寄りでお昼を食べ、踊ったり、走ったり、水遊びをしたり、「人生は暗いもの」と、勝手に決め付けていた私に、明るい光を与えてくれた瞬間だった。  

今は毎日海を見ている。 海は心が弱りかけるのを、防いでくれる不思議な力がある。 

海を見ながら、瞑想するのは、最高の時の流れだ。 

時々、瞑想のつもりが、妄想に転じてしまう時もあるが。

地球の表面の70パーセントは海である。  人間の体も、水分が占める部分が多い。大人は60~65%、高齢者でも、50~55%は水分で成り立っているようだ。 

現役時代は、のんびりと毎日海ばかり見ている余裕はなかった。

文明の機器、携帯電話さえ保持していれば、この21世紀、どこからでも、世界の何処とも繋がる可能性を、秘めている。 

海と空、視界が広大に広がるありがたさ。 波を見ながら、5千年前も、「波は打ち返していた。」と一人で納得する。 

人間の生命の短さを、再確認してしまう時間でもある。 

鳥が飛んでくる。 人間より、とても短い鳥の命。 でも、餌を見つけると、夢中で食べまくっている。 

綺麗な雌鳥を見ると、他の鳥の目など気にせず、雄鳥は、即座に、求愛行動を始める。 

自然から学ぶ事は多い.だから、海をいつまでも見ているのが大好きだ。 

人間の心も深大であれば良いのだが、 普段は目先の事に気を取られ、 「深呼吸をして、一息入れる余裕を失ってしまう。」ことがありすぎると、気がついた。


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