「本を読まない」の正体。

しばらくぶりの更新です。「書かねばならない」と「本当に書きたいのか」のはざまでひとしきり葛藤しておりました。自分にとって心地よいタイミングを待っていたら、ちゃんとやってきたというところです。

今日は読書について書きます。私は今は本を読むのがものすごく好きですが、子どもの頃は全く本を読もうとしない子どもでした。興味もほとんどありませんでした。なので、本当に「本を読まない」という状態も、何となく感覚でわかっているつもりです。何か本を薦められると、困ってしまうくらいでした。

よく本を読むようになって、本によって広がる世界が無限にあるということを体験をもって知ったので、過去の自分を忘れて、人と話すときもついつい本を話題にあげてしまうのですが、「この本、知ってます?」という声かけを心のどこかで恐れている人に、ときどき出会うことがあります。「本、、、読まないんですよね」と申し訳なさそうに苦笑いして答えるその人は、本当に「本を読まない」人なのでしょうか?

「本を読まない」と自分で言う人の大半は、本当に「本を読まない」人ではないと私は思っています。ただ読書に対してちょっとした苦手意識があったり、興味はあって買ってみたものの、最後まで読み切れずに置いてある本が少しずつ積みあがっていくうちに、そんな自分に嫌気がさしてしまった人たちなのではないでしょうか。そんな人たちに出会うとき、私は「積読(つんどく)も読書です」と声をかけています。

そう思っている人は私だけではなく、このことを一冊の本にして書いている方もいるくらいです。1冊の本を最後まで読み切れることだけがすばらしいのではなく、そのとき読んだ1節、たとえ1文であっても、そこに書かれているメッセージを、自分に必要なタイミングで受け取れればそれで良いと思うのです。そんな私のデスクの周りにはついつい本が積み上がってしまいますし、気にせず新たな本を迎えて積み上げ続けてもいます。でも、不思議なことにちょうど必要なタイミングで、今読めて良かったと思える本がなぜか積み上がった本の山の一番上にあったりするのです(いつも同じ本が上にあるわけでもなく、ときどき整理したり、不意に雪崩を起こしたりして順番がランダムに入れ替わります)。

そんな話をすると、それまで何かに怯えていた人が「そうなんですね!それでもいいんですね!」と何か新たな発見でもしたように、声を弾ませてくれることがあります。何か本は読み切ってこそ価値がある、というような意識がいつの間にか根付いてしまっているようですが、そこは読み手が自分自身のそのときの状況や好みなどに合わせて自由に読書のスタイルを選ぶことで、より読書の裾野や可能性が広がっていくはずだと思います。

そうすると、もっと人は本と仲良くなれますし、本を通して新たな人とのつながりをつくっていくこともできます。何人かで同じ本を同じタイミングで読むというのもさまざまな発見があり、とても面白いです。池上彰さんが『社会に出るあなたに伝えたい なぜ、読解力が必要なのか』という本を出されましたが、その中でご自身がリベラルアーツを教えている理系の大学の学生たちと読書会の場を設け、不条理文学を読む機会をつくったことが書かれていました。理系の学生がなかなか自ら手にとらないような本を、あえて場をつくってみんなで読むという取り組みは、単なる読書を越えて、本を読むことを通してどれだけ自分の世界を広げることができるか、ということを改めて学生たちに意識させたことでしょう。

そういうきっかけがあれば、「本を読まない」と言っていた人の多くは、その心の奥に横たわっている苦手意識や自信のなさを手放し、自分らしく読書を楽しめる人に戻っていけるはずです。子どもの頃に、学校の国語の授業のペースについていけずについた苦手意識が、大人になっても読書への苦手意識となって残っていることもあります。でも、それはそれ、これはこれ、なのです。自分が心地よいと感じるペースで、少しずつ、そこに何が書かれているか、自分はどんなメッセージを受け取ることができるのか、本から「よみ」とる力をつけていくことができれば、本を通して、自分の世界が限りなく広がっていくのを改めて感じることができるでしょう。これまでのように自分の行動のフィールドを広げることが難しくなってしまった今だからこそ、改めて、読書の面白さや可能性を広く伝えていきたいと思っています。

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