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言葉が未来をつくっていく。

今日は自分の中にいろんな思いや感情が溢れています。ちょうど1年ほど前から参加しているコミュニティで知り合った方の訃報を聞きました。突然のことで、まさかという思いと、誰かの旅立ちの知らせを聞くたびに、生と死とは常に隣り合わせ、すぐ身近なところにあるものだと気づかされます。

雑然かつ煩忙とした日常の中で、生も死もその実感が薄れてしまいがちですが、誰かの死に直面する時、その他に例のない静けさに心の底から畏れの気持ちが湧いてきます。亡くなった祖父や祖母を前にした時に感じた、あの静けさ。それまで当たり前にあったはずなのに、もう感じることのできない気配や、物音、息づかいや生きている身体から無意識に発せられる音、そして声と言葉。

二度と聞くことのないその命の音たちを思い、ただ祈りながら、生かされている自分はまだいろんな音を発し、自らの心の内を言葉で紡ぐことができる。生まれる言葉があることは、生きていられるということなんだと、つい何気なく、時に分別なく言葉を発してしまう自分を、悔い改めたい気持ちにもなります。

そんな状況と同時に、言葉を届けることを仕事にしている人たちの対談イベントの動画を見直していました。誰に届けるのか、何を使って届けるのか、世の中の変化と共に、自分達のしてきた仕事を振り返りながら、これからの未来を見据えて語る様に、ああ、今生きている、ここに言葉がある、そんな気持ちにもなりました。

国語の力、その根本にあるのは言葉です。どうして自分はそこまで言葉にこだわっているのか、ふだんあまり深く自分に問うことはありませんでした。ただ好きである、その程度の認識でしたが、今日のことを通して、言葉があるということは、今がありその先につながる未来があるということ、それこそが人間が今生きているという証なんだと実感し、だからこそ私は言葉を大事にしたいんだということを改めて思いました。

どんな言葉を紡ぐのか、誰に、どんな表情で、どうやって伝えるのか。考えることも、実際に発することも、生きているからこそできること。そして、誰かが誠実に紡いだ言葉を、しっかりと受け取ること。今を生きる者同士、心を開いて言葉を交わすこと。そのすべてがかけがえのない、大切な営みであるんだとしみじみと感じています。

そして、言葉は遺ります。死を迎え身体は失くなってしまっても、大切な人との思い出、その人が発したたくさんの言葉、思い、メッセージが、いろんな人の心の中に遺って、また新たな人へと言葉を通して伝わり、受け継がれていく。これはきっと人間にしかできないことです。そんな言葉というものを、もっとたくさんの人と分かち合い、悲しみや辛さも、今生きていられることの大きな喜びや幸せの1つとして大切に味わっていきたい。

私の言葉を読んでくださって、ありがとうございます。今もどこかに、あなたの言葉を楽しみに待つ人がいます。あなたのどんな言葉で、そしてみんなのどんな言葉と、今を、明日を、未来をつくっていきたいですか?

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