見出し画像

明日、死ぬかもしれない

コロナでステイホームを続ける中、私は思い出していた。

「明日、死ぬかもしれない」

10代の中頃、そんな妄想に取り憑かれて、毎日謎の何かに怯えながら暮らしていたことを。

「一歩でも外に出たら、交通事故に合うかもしれない。
 急に病気になるかもしれない」

これだけ見るとかなり中二病チック。この考えに私が取り憑かれることになったのは、まさに思春期、中3の終わりのことだった。

うちで飼っていた犬の胸に小さな腫瘍が見つかった。愛犬はまだ5歳。成犬だけど、キャッキャはしゃいで落ち着きがなくて、まだ子犬のようなところがかわいい犬だった。

獣医さんは、良性だから取らなくても大丈夫だと思うけれど、心配なら取りましょうかと言った。私たち家族は迷ったけれど、心配だから取ってもらおうかと、手術をすることに決めた。

うちにいないと寂しいから、どっちにしても預けないといけないスキーの時に手術にしようと、手術は家族でスキーに出かけてる間に行われることになった。

その日の晩には手術成功したとの連絡があり、私たちは安堵した。
しかしそこから一転、亡くなりましたと連絡があったのは、そこから半日も経たない翌朝、3月15日のことだった。

麻酔が効きすぎてしまったのか、理由はわからないけれど、たくさん血を吐いて、とにかく助けられなかったと医師は言った。
でも、出かける前にはあんなに元気だったのに。手術は成功したと昨晩聞いたばかりなのに。
医師の言葉を信じられなくて、なんで、なんでと母と妹と泣きじゃくった。

当然その日はスキーをする気になんかなれず、都合ですぐには戻れなかった父を残し、母と妹と3人で泣きながら、電車を乗り継ぎ何時間もかけて帰った。

病院で愛犬の亡骸を引き取り、動かなくなってしまった小さな身体を見つめては、火葬の日まで何度も何度も泣いた。学校や部活に忙殺されないことが呪わしい、卒業式後の春休みだった。

死を受け入れられない気持ちと、たくさんの後悔があった。
こんなことになるなら、手術なんてしなければよかった。
なんで、遠くに出かける時に手術にしてしまったんだろう。
こんなすぐに別れを迎えるなら、めんどくさがらずに毎日もっとたくさんお散歩してあげればよかった。

いくら後悔しても、愛犬は還らない。

真っ暗闇から抜けられず、明るい春の日差しも見えないまま、高校生活がスタートした。

高校受験に失敗して、本意でない第二希望の高校だったこともあり、高校生活へのワクワク感も持てないまま、毎日虚無感に苛まれていた。

友達と笑いあいながら歩いていても、急に友達が事故に遭う、自分が事故に遭う、みたいなろくでもない妄想がしばしばちらついていた。

不測の事態のみならず、他人の些細な言動や行動にも過敏になっていた。
中学時代の人間関係の問題が原因だったけれど、そのことも相まって、見えない何かにいつも怯えて、全てを悪い方悪い方で想像し、常に絶望の淵に立たされているような気分だった。

明日、自分は死ぬかもしれない。
明日、大切な誰かが死ぬかもしれない。
裏切られるかもしれない。酷い目に合うかもしれない。

恐れ、疑い、不信。

少なくとも一年は、この暗い淵から世界を見ていた。

ここから抜け出たきっかけは、特別大きな何かがあったわけではない。

毎日毎日最悪の未来を想像し続けて……でも、想像していたような暗い未来は、数ヶ月、一年を過ぎても訪れることはなかった。

毎日は、ただ平穏だった。

それで、ああ、なんかもう、絶望するのにも疲れたなと、ふと思ったのだった。

みんな、いつかは必ず死ぬ。
それがいつかはわからないし、どんな形でやってくるかもわからない。明日かもしれないけど、何十年後かもしれない。
幸いなことに、自分はまだ生きている。

人も、思うほど酷くなかった。
想像したような悪いことは、何も起こらなかった。

いつか、自分が想像さえしなかったような悪い未来が来る可能性もあるけれど、それは自分の力ではどうしようもないことだ。

自分の思考一つで、同じ景色でも、暗く沈んだようにも、明るい穏やかなものにも見える。
真っ黒なサングラスみたいな暗いフィルターをふと外してみたら、毎日の景色は別の世界のようだった。


思考習慣を変えることは、言葉で言うほど簡単じゃない。
いつも最悪の想像をするという私の習慣も、すぐにはなくならなかった。
自分の想像する最悪の未来を、可能性としては排除しないけれど、自分が想像しない多様な可能性の方が無限にあると、自分自信に言い聞かせ続けることで、私はどうにか次第に精神のバランスを取り戻していった。

時折襲い来る強い不安、暗い気持ちに、一歩も動けなくなって、ベッドの中で布団にくるまってずっと過ごしている日もあった。

誰かの思い、見えない未来、そうした形の見えないものを人は想像するから、すぐに不安になる。

今考えると、PMSだったのではという時もたびたびあったけれど、生理前の精神的な不調は何度か繰り返すうちに気づけるようになった。その時には、ただじっと1日2日落ち着くのを待つ。

そうでなくて不安に頭がおかしくなりそうな時は、
「妄想に殺されるな!」
と自分自身に言い聞かせる。

今も、大変なことが重なって疲れてきて、思考が悪い方に傾きかけると心の中で何度も呟く。
「妄想に殺されるな!」と。

四年前、母が癌になった。骨に転移して、もってあと半年と宣告された。57歳の誕生日だった。

絶対に何か治す方法はあるはずだと私は信じていたし、あらゆる手段を探すつもりだった。一方で、状況的には死の可能性を否定することもできない。

それで、母に聞いた。
「実際にあと半年しか生きられなかったとして、今のうちに何がしたい?」

死の可能性を突きつけられた人に、この問いかけをするのは酷かもしれない。でも、ただ死に怯えて最後の日を待ちながら日々を過ごすのではなく、死ぬかもしれないなら尚更、今やりたいことを精一杯やった方がいいと思った。

「娘たちと旅行がしたい」と母は答えた。
私も妹も、それなら行こうと乗り気で行き先を探していたが、結局のところ母は病院のことを気にしたり、次の結果が良かったらと先延ばし先延ばしにするうちに、ついに母娘3人での旅行は実現しないままとなってしまった。

明日の方が、今日より良くなる保証はない。
「もしxxxxだったらやろう」なんていうのは、楽観的すぎる。

「もしxxxxだったらどうしよう」
と起こるかわからないことを想像しすぎても、ただ立ち止まって何もしないまま時はすぎる。

起きてしまった事態を悔やんでも、時間は戻らない。
起こるかわからない未来を想像しすぎても、それは無為だ。
いつだって、今できることをするしかない。

「明日、死ぬかもしれない」と考えたら、一番大切なものはきっとすぐに見つかる。

後悔のない明日を迎えるために、私はただ、今を生きたい。

#自己紹介 #いま私にできること #ゆたかさって何だろう #人生 #生き方

この記事が参加している募集

自己紹介

人がより良く生きられる社会についていつも考えてます。 サポートいただけたら、思考の糧になる本の購入に当てさせていただきます。