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障害と自立と支援について。相模原障害者施設大量殺傷事件の死刑判決を受けて。


発達障がい診療とは何するの?(7)

これらの記事は自分のメンタルのために書いています。
相模原障害者施設大量殺傷事件の植松聖氏に死刑判決がでました。事件の背景を考えながら「障害」、「自立」、「支援」、そして「依存」と「支配」とは何か。それぞれの言葉の定義から、障害者の自立支援のあり方を考えてみたいと思います。
それは取りも直さず私たち自身の自立を考えることです。

障害とは支援の必要性、個人と社会の間にある

「障害」とは最近のICF(国際生活機能分類)などの考え方によると、個人と社会の間にあるものであるという社会モデルが主流です。
そのモデルに基づき、発達障害者支援法では発達障害は「発達障害及び社会的障壁により日常生活又は社会生活に制限を受けるもの」と定義されています。

これを逆からみると「障害」は支援の必要性で定義されるともいえます。

社会モデルでは誰が障害者になるかはその時と場合によって入れ替わります。ただ、多数派か少数派がいた場合に、大抵は少数派が障害状態になることが多いと思われます。

精神障害とは「メンタル面に支援が必要」、身体障害とは「身体面での支援が必要」、発達障害とは「発達するのに支援が必要」と読むこともできますね。

支援とは支え助けること

医療や福祉など、支援に関わる仕事をしている方は「支援」ということばを目にしない日はないでしょう。

辞書によると支援とは「支え助けること」ことだそうです。
英語だとケア、サポート、アドボカシー、エンパワメントなどの言葉がカバーする要素を含む言葉かとおもいます。

障害がある方は必要な支援を届けるためにも先程あげたような自助具や支援機器をまず十分にもちいて対話をすることを目標にします。しかし、そういった対話のために手立てをしてもらうために、また対話に至るために心理的な支援が必要な場合もあります。
対人援助はまさに対話がスタートでありゴールです。

支援は心理的支援、情報的支援、実際的支援の3つに分けて整理すると分かりやすいです。

もちろん、実際の現場ではそれぞれの支援は関係しあい、単独で完結することは少ないです。しかし、自分が受けようとしている、あるいはやろうとしている支援はどこに力点を置かれているものなのかを考えることは大切です。

さらに、それが自らと支援対象者の自立を志向しているものなのか、つまり支援者が実は一方的にクライエントに依存したり、依存させていないかというところに自覚的である必要があります。その理解のために支援者はバウンダリー(境界)の概念を理解して意識することが必須です。相手の自立を考えない一方的な支援は支配です。

こういったことに自覚的で、対話に基づく相互依存関係になるのなら健全なのですが、支配被支配の関係のまま身動きのとれない共依存関係におちいってしまう親子や夫婦、支援者と非支援者もしばしば目にします。

このように考えて整理すると自分に必要な支援、目の前の人に必要な支援、障害の種類別に必要な支援は何かが見えやすくなってくるのではないでしょうか。
そして支援の種類にミスマッチがあると、また自立を志向した支援でないと、ズレたものになることも分かるでしょう。

自立とは他の支配を受けず、判断し行動し責任をとること


「自立支援」という言葉があるように、支援には、よく自立ということがセットで語られます。
「自立」とは広辞苑によると「他の援助や支配を受けず、自分の力で判断したり身を立てたりすること。」とあります。

しかし、生きるということは、他者との関係性のなかに身をおくということですから、全く他人の援助を受けずに生まれ、生きられているという人はいません。だからこの定義の最初の部分はおかしいと私は思います。

他の援助を受けていないから自分は自立していると思っている人は、たまたま他者からうけた援助が見えにくい部分にあるだけです。

たとえば自分の口に入るものを考えてみてください。
太陽の光と水のもと手をかけて育った作物を収穫して輸送して、調理してという過程に多くの人が関わっています。そこが想像できると人は一人では生きていけないということが分かります。

また時間軸でみても、産まれたときにはだれでもケアを受けるだけの存在でしたし、いまたまたま元気な人も、病気や障害(支援の必要性で定義されます)となったり老いたりすると支援が必要な状況に陥ります。

自分だけは自立していると思い、障害者に差別的感情や優生思想から自由でない人は、身体性(自分との対話)や他者との対話にもとづく想像力、他者へのリスペクトが欠如しているのです。

自立した人とは、とりうる選択肢のなかから、自由に自分で判断して行動し、その結果まで引き受けることが出来る人のことです。

だから、私としては「他の援助」はのぞいた「他の支配を受けず、自分の力で判断したり身を立てたりすること。」という定義を採用したいところです。

生産性で人の価値を測り、身体性と対話を軽視した社会


 2016年7月、相模原の障害者施設で働いていた植松聖被告が19人の障害者を殺害するという凄惨な事件がおきました。先日、その事件の公判で被告に死刑判決がくだされました。

 彼は事件前、殺害計画を示しその許可を安倍首相にもとめる手紙を衆議院議長に託していました。その結果、精神障害を疑われ、措置入院となり、その後に事件を起こしているのですが、安倍首相は事件前も後も、この件に関して彼と直接対話に応じていないようです。

 生産性だけで人の価値をきめ、障害者は生きる価値がないという価値観。そういった価値観のもとに自分や他者を追い詰め、障害者を差別や虐待をしたり、殺人などのヘイトクライムに至る人こそ自立できていない人だと思います。
 
 歴史から学ばず、他者と対話をしない。死や老いや障害者は見えないところに隔離する。自然との関わりや身体性が軽んじる。学問や芸術をないがしろにする。その一方で子どもたちは親や学校教育そして社会からは一方的に目標を設定され、それをクリアできないと役立たずと一方的に断罪される。これはまさに洗脳の手法にほかなりません。

こういった体験と対話と想像力の欠如した人が再生産されています。
これを社会と教育の失敗と言わずして何と呼ぶのでしょう。

相模原の障害者大量殺人は第二次世界対戦時のナチスドイツのT4作戦と同様、体験と対話と想像力の欠如したの積み重ねの結果でしょう。
植松被告のように大量殺人というところまではいかなくても、日常にあふれる、いじめや差別、ハラスメントは同じベクトル上にあります。

この状況で新型コロナウィルスによる大混乱が重なってきます。

人々はコロナ禍で不安に怯え、暮らしに余裕がなくなってきています。福島の原発事故後と同様、もう考えるのに疲れたという人も増えています。
世界は第二次世界大戦前に似た、非常に危うい状態だと思います。

我が国では自立していない支配的な対話の出来ない人が権力を握っています。その状態で国民一人ひとりが考えて行動することを放棄し、一見頼りになりそうな強そうな人に依存すようになると、もう戦争は目前です。

自立した個人どおしが継続した対話を通じて合意をもとに物事を決めていく自由で民主的な社会を目指したいところですが、はたして間に合うでしょうか。

(つづき→実際的支援は幸福追求権と生存権の保証から

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