見出し画像

国宝・羽黒山五重塔ってどんな建物なの?①~歴史編~

 今年2023年5月上旬~2025年春頃にかけて屋根の改修工事が行われる、国宝・羽黒山五重塔。羽黒山の参拝・有名観光地の一つでもある羽黒山五重塔は、そもそもどんな建物なのでしょうか。

「五重塔」は何に使われるもの?

 まずは羽黒山五重塔だけでなく五重塔そのものは一体どういったものなのかに迫ります。五重塔はただの古い五階建てのような伝統的な建築方式の建物だけではなく、きちんと意味があります。
 五重塔は仏舎利塔であり、それは釈迦の舎利(しゃり:仏の火葬骨)を納めるために建立されるものです。「釈迦の舎利」ですので、つまり仏教の建物です。五重塔は元はインドのストゥーパ(八分舎利塔)に由来します。ストゥーパには舎利が納められているので仏教徒には最も神聖で貴重な場所として、その塔は立派に作って礼拝の対象としました。
 日本における五重塔は、多くは寺院の境内に置かれ、その勢力誇示の側面があったようです。仏教でこの世を形作る5つの要素「空」「風」「火」「水」「地」が五重塔の上層から順に表現され、それは卒塔婆(そとば)と同じで、仏教的な宇宙観を表しています。
 五重塔のてっぺんにある相輪は、9つの輪が重なっており、この「九輪」は五大如来と四大菩薩(注1)を表しているとのことです。

なぜ神社の境内に「五重塔」なのか

 五重塔は先述の通り、仏教の建物です。しかし羽黒山の石段や山頂をはじめ羽黒山五重塔がある部分は、現在出羽三山神社の境内です。では、現在なぜ神社の境内に五重塔があるのでしょうか?
 もともと羽黒山は神道と仏教の2つの信仰を折衷した神仏混淆(しんぶつこんこう)のお山でした。このとき、現在の出羽三山神社は当時羽黒山寂光寺(じゃっこうじ)であり、羽黒山五重塔は宝塔山瀧水寺(ほうとうざんりゅうすいじ)の大伽藍(だいがらん:寺の大きな建物)でした。五重塔は本堂、塔の周りにはたくさんの堂舎(どうしゃ)があったといいます。
 しかし、明治初期の神仏分離において、ほとんどの寺や仏像・その他仏教的建造物は廃仏毀釈運動により取り壊されてしまいました。羽黒山五重塔はその取り壊しを免れ(注2)、羽黒山寂光寺が出羽三山神社へと変わり、五重塔のある場所がその境内となった今も残っているのです。

宝塔山瀧水寺から出羽三山神社へ

 出羽三山神社にある五重塔は通称「羽黒山五重塔」と呼ばれますが、正式名称は「千憑社(ちよりしゃ)」です。これは五重塔のある場所が神社の境内になったので、五重塔を神社の末社とした為です。
 名前だけでなく、祀られているものも変わりました。宝塔山瀧水寺では五重塔に聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)・妙見菩薩(みょうけんぼさつ)・軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)(妙見菩薩と軍荼利明王は脇侍)の羽黒権現の本地仏三尊と、厨子(ずし)に入ったお前仏の三尊が祀られていました。現在では大国主命(おおくにぬしのみこと)が祀られており、かつてあった仏像は廃仏毀釈運動の際に荒澤寺に引き渡され、本尊は元三大師堂へ移動し(現在は不明)、お前仏は黄金堂に安置されています。
  羽黒修験の口伝によると聖観音菩薩は太陽、妙見菩薩は北極星、軍荼利明王は南十字星を示すとされています。五重塔には、南十字星(南)、太陽(東)、北極星(北)に仏様として配置されていたことになります。
 日が傾くと五重塔は訪れる人の前方に向かって影を倒します。それは、五重塔が東に向かって拝むように建てられているのであり、聖観音菩薩を祀っていることに関係しているようです。

霧の五重塔

そもそも羽黒山五重塔はいつ建てられたのか

 羽黒山五重塔の歴史は古く、平将門が創建したと伝えられています(注3)。しかしながら、現在私たちが見ている五重塔は室町時代に当時の羽黒山別当・武藤(大宝寺)政氏によって再建されたものです。
 その後、庄内が最上氏によって治められていた江戸時代初期には、最上義光(もがみよしあき)が五重塔の相輪や心柱(五重塔の中央に層を突き抜けて立っている柱)を取り換える修繕を行いました*¹。その後、庄内藩主・酒井忠真(さかいただざね)が初重(しょじゅう)の柱16本全部取り換えたと伝えられています*¹。
 羽黒山五重塔は1908年に重要文化財に指定され、1966年に国宝に指定されました。

ライトアップで照らされた羽黒山五重塔

脚注・参考文献

脚注
(注1) 五大如来は大日如来・薬師如来(阿閦如来)・宝生如来・阿弥陀如来(無量寿如来)・釈迦如来(不空成就如来)のことで、四大菩薩は普賢菩薩・観音菩薩・文殊菩薩・弥勒菩薩のことを指す。

(注2) 羽黒山の廃仏毀釈を進めたのは、出羽神社(出羽三山神社)の初代宮司に任命された西川須賀雄。かかる費用・時間的に五重塔を取り壊したり移転したりすることは現実的ではなかったとされる。

(注3) 五重塔の建立については諸説があるが、現在一般的に平将門の創建とみられる説が用いられることが多い。下記は平将門が創建とされる説に関する相違。
・慶長13年(1608年)に最上義光が修復した時の棟札の写しには、天慶年中(938~947年)に平将門が建立とある。*²
・『三山雅集』では承平年中(931~947年)に平将門が建立とある。*³
また、将門の娘・如蔵尼(にょぞうに)が将門が塔の建設中に戦没したことから遺志を継いで完成させたという説もある。

*¹『羽黒山中興覚書』,経堂院精海 著, 戸川安章 校註,1941
*²『神道体系 神社編32 出羽三山』,神道大系編纂会 編, 戸川安章 校註, 1982
*³『三山雅集』,東水 撰, 1710

参考文献
・『国宝の旅』,講談社 編,2001
・『国宝五重塔―その意匠に見る日本美―』,小田原敏之,2013
・『国宝への旅6』,日本放送協会 編,1987