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逆さの神牛のお話【羽黒山小話】
牛と聞くと何を思い浮かべますか?牛は現代では家畜や牧場のような牧歌的なイメージが強いと思います。そんな牛と羽黒山にまつわるお話があります。
逆さの神牛
羽黒山には、神が騎乗するものとして神聖視されて神社に奉納されるような神馬・・・ではなく、神牛がいました。
この神牛は死んでもすぐにうまれかわると信じられており、神牛の絵札を門口やいろりのちかくにさかさに張っておくと、火難をまぬがれるという。
なぜ、「さかさ」なのでしょうか。この神牛は燃え移った火に転がり、背中で火を消したとされています。そのため、「火難をまぬがれる」ということで、牛が火を消した際の格好になるように貼っておき、火災防止のお守りにする習慣があります。
神牛は本当にいた
牛が背中で火を消すなんて本当?と思うかもしれませんが、神牛自体は本当にいました。写真(絵はがき)が残されています。
![](https://assets.st-note.com/img/1662101202250-3mFmXtfR9g.png)
牛は随神門前の神牛舎で飼われ、昭和36年(1961年)まで牛が飼われていましたが、この写真の牛の死後は飼わなくなりました。
神牛は羽黒山大堂(現在の三神合祭殿)を建立したときに、用材の運搬に奉仕した牛を、長く境内に飼っていたのがはじまりだといわれています。
慶長4年(1609年)9月29日、スペイン人のドン・ロドリコが指揮するサンフランシスコ号がフィリピンからメキシコへの帰路、台風に遭遇し千葉県御宿町の沖で座礁した。
町の漁民は乗組員を救助し献身的に介護し、幕府の命で犠牲者は寺に埋葬した。乗組員は翌年8月三浦按針が建造したガレオン船で浦賀より出航し、10月無事メキシコに到着した。このとき海岸に牛が漂流した。これまで見たことのない白と黒のマダラ模様(在来種は黒か茶色の単色)で眼光鋭い牡牛だった。漁民は大多喜城に運んだが判断が付かず江戸へ連れて行くと、幕府は日光の輪王寺へ運ぶよう沙汰した。街道を歩く斑牛を見た旅人は異様な光景に道を開けた。日光では出羽国の羽黒山へ連れて行くよう指示し、斑牛は再び長い旅を強いられた。
「白と黒のマダラ模様(在来種は黒か茶色の単色)」となっており、つまり絵はがきの写真の牛(ホルスタイン種)と一致します。同種の牛とみられます。
![](https://assets.st-note.com/img/1664678873465-ltVf1Hpu3U.jpg?width=800)
神牛の所以
神牛は、フェーン現象(湿潤な空気が山を越えて反対側に吹き下りたときに、風下側で吹く乾燥した高温の風のために付近の気温が上昇すること)の予知を行うことができました。
また、火消しの効果が羽黒山以外にも話が広まっていきます。
この牛には特殊な才能があって、春になるとフェーン現象で大火になることがしばしばあったが、この斑牛は前兆を感じて猛々しく暴れて人々に知らせた。牛の死後、牛の絵を版木にして摺り、お札として参拝者に配り人気を集めた。江戸では大火が多く悩みの種であったが、荘内藩の江戸屋敷では東西南北に牛札を貼ると、大火の火柱はこの場所を避けるように去ったことから評判になり、「火伏牛」の名で呼ばれるようになった。
羽黒山の神牛は「火伏牛」と江戸で呼ばれていたようです。羽黒だけでなく、当時の庄内藩を通じて、江戸にも火難避けの話は広がっていました。
まとめ
火を消す神牛のエピソードはまるで伝説のような逸話ですが、神牛とされる牛自体が本当にいたことを考えると、羽黒山で飼われた牛を神聖化して、神牛を神牛たらしめることとしてエピソードがささやかれるようになったのでしょうか。または白と黒のマダラ模様という、当時は日本人にとっては珍しかった種の神牛について想像を膨らませたのかもしれません。
のほほんとした印象がある牛ですが、火を消すこの神牛について、あなたはどのような印象を持ちましたか?