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学ぶことで,私たちは自由になると同時に不自由にもなる

私は,子どもの発達について研究している。広い意味で,「発達」とは学びの蓄積だといえる。ことばを話せなかったあの子がいつの間にか流暢に母語を話すようになったり,ごはんをわし掴みで握りつぶしていたあの子が気がつけばお箸を器用に使いこなすようになったりする。ことばを話さない子どもも,意図を伝えるための自分なりのやり方を見つけたり,相変わらず手づかみ食べのままという場合でも,ちょっと握り具合を調整できるようになったりする。

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これらの例からわかるように,学ぶことで私たちは変化する。あることを学ぶ前の私と,学んだ後の私は同じではない。では,学ぶことで私たちはどのように変化するのか。

某大学で教職課程科目を担当するようになってから,「学ぶ」という行為そのものについて学び,考えることが増えた。このnote記事では,まとまりを欠いた面があることをことわりつつ,学ぶことについての現時点での自分の考えを言語化しておきたい。

※本記事には,漫画『ブルーピリオド』『チェンソーマン』からの引用があります。ストーリーの詳細がわかるようなネタバレにはなっていませんが,念のためご留意ください。


学びは頭や心の「もやもや」を晴らす

何かを学んだことで,頭にかかっていた霧がパッと晴れるような瞬間がある。「そういうことか!」「わかったぞ!」というように,学ぶことで対象への理解が深まり,今まで気づかなかったことが一気に意味あるものとして浮かび上がってくる。まるで推理小説を読んでいるときのように,興奮が止まらない。幼少期も含めれば,多くの人はこうした学びの快感に一度はあてられたことがあると思う。以下のツイートは,この過程を明快に表現している。

どのような事柄にせよ,何かについて学ぶと,その「何か」が以前よりもはっきりと見えるようになる。学びの前後で,対象の見え方ががらっと変わってしまうことも少なくない。対象の捉え方が変化すると,その対象に関連する体験や,記憶への残り方,対象から想起される他のイメージも変化する。

絵画にまったく興味のなかった高校生が,あるきっかけから美大受験を目指すようになるという漫画『ブルーピリオド』でも,学ぶことによって対象の捉え方が変わる様子が丁寧に描かれている。美大受験に難色を示している母親を説得するために,母の絵を描いてプレゼントすることにした主人公の八虎は,以下のように心情を吐露する。

その絵 最初は母の日に描く似顔絵みたいに描けば 話通しやすいかなと思ってさ… けど描いているうちに気づいたんだよ 
熱いお湯で食器を洗うから母さんの手はささくれてるとか 買い物の荷物は重いから意外と腕に筋肉がついてるとか
…そうやって描いているとだんだん思い出してくるんだよ 食事はいつも肉と魚が1日おきだよなあとか 一番盛り付けの悪いおかずはいつも母さんが食べてるなあとか
この人本当に家族のことしか考えてないんだって
絵を描いてなかったらこんなことにも気づけなかった ごめんね…
(山口つばさ『ブルーピリオド』2巻, 5筆目)

学ぶことで,今までまったく意識していなかったことに注意が向くようになったり,今までとは違った見方で対象と向き合うことができるようになったりする。さらには,新たに学んだことによって,自分がこれまで囚われていた固定観念が可視化され,その呪縛から解放されたと感じる場合さえある。このように,学ぶことで,私たちはこれまでの物事の捉え方から,あるいは,これまでの自分の価値観から「自由」になる


学びは頭や心をかえって「もやもや」させる

一方で,対象がよりはっきりと見えるようになったために,かえって身動きが取りづらくなったと感じることもあるだろう。特に,学ぶ事柄が今後の行動の意思決定に関わるとき,たとえば,学ぶことが自分のなかにある何らかの規範に修正を迫るときに,このような感覚を抱きやすいのではないか。

漫画『チェンソーマン』の主人公デンジは,親の借金を背負わされ,その日の食事もままならないといった貧困の中にあったが,ある事件をきっかけにデビルハンターという職業に就き,人並みの生活を手に入れる。ところが,さまざまな経験を積むうちに,次第にこう感じるようになる。

昔は死なねえ為に必要な事だけ考えてりゃよかったんですけど 今は考えなきゃいけない事が一万個くらいある感じでダル…疲れます
(藤本タツキ『チェンソーマン』10巻, 81話)

このように,学びには自分をかえって制限するような側面もある。今まで気づかなかったことに目が向くようになったために,新しく学んだことが新しい呪縛になって,自分を「不自由」にしてしまう。ときには,「知らなければ良かった」と後悔することさえあるかもしれない。

これまでもっていた規範に修正を迫るような学びの最たる例は,多様な属性をもつ人々について学ぶことだろう。私が担当している講義には,「学び手の多様性」というテーマでセクシュアルマイノリティについて学ぶ回がある。この回では,毎年外部講師を招いてショートレクチャーをしてもらっているのだが,講義後のレポート課題でも,学ぶことで身動きがとりづらくなることを正直に綴った受講生からのコメントがいくつか寄せられた。

LGBTだとカムアウトされたとき、普通にしておいてくれるのが一番だと講師の先生は言っていたが、「普通」はどこまで許されるのだろう。みんなが日頃どういう会話で盛り上がるのかわからないが、多くの学生が盛り上がる話のひとつは、やっぱり恋愛の話題だと思う。そういう話はLGBTの人たちの前では避けるべきなのか、聞いてもよいものなのか。判断するのはとても難しい。
(筆者注:上記コメントは,受講生から掲載許諾を得た上で,さらに内容を大まかに要約したものである)

学ぶことは,対象の捉え方を変える。すると,今まで何気なく言葉にしてきたこと,振舞ってきたことの意味合いも変わってくる。この学生にとって,セクシュアルマイノリティについて学ぶことは,無邪気に恋愛話に花を咲かせることをとても難しいことに変えてしまった。語弊を恐れずに言うなら,学ぶことは,この学生からある種の快適な生活や日々の楽しみを奪ってしまったのかもしれない。


増えてしまった「もやもや」は,誰かがずっと引き受けてくれていたもの

このように,学ぶことで,私たちは自由になるだけでなく不自由にもなる。対象の捉え方が変わり,物事が以前よりもよく見えるようになることが,一方では頭や心をすっきりさせ,他方では「もやもや」を増幅させる……。新しい眼鏡をかけることで視界がクリアになり,よく見えるようになったと喜んでいたら,次第に車酔いのような症状に見舞われて具合が悪くなってしまった。そんな感覚に近いかもしれない。

しかし,学ぶことが私たちにもたらす「不自由」は,必ずしもネガティブなものではないと私は考えている。ここでは,セクシュアルマイノリティや障害といった社会的マイノリティについての学びに的を絞って,そのことについて考えてみようと思う。

学ぶことで不自由になったと感じるのは,その対象について今まで特に気に留めていなかった,つまり,対象の存在を無視していたのに,もはや無視できなくなってしまったという認識の変化に起因している。けれども,社会的マイノリティの場合,そのような人々は,学び手が意識するよりも以前から存在していたことを忘れてはならないだろう。

確かに,セクシュアルマイノリティについて学ぶことで,かの学生は不自由を被ることになった。特に言葉を選ぶことなく恋愛話に興じる自由を失ってしまった。それは事実だと思う。

では,ここで対象化されたセクシュアルマイノリティの当事者にとっては,恋愛話とはどういう行為なのだろう。時と場合にもよるだろうが,恐らく,彼ら/彼女らの多くにとって,恋愛話とはほとんど常に不自由なものとしてあり続けてきたのではないだろうか。先の学生のコメントに対する外部講師からの返答の中にも,セクシュアルマイノリティの当事者が日常的に抱えているであろう不自由さ,つまり,いろいろなことに気を遣ったり,耐え忍んだりしてきであろう様子がうかがえる記述がある。

LGBT含むセクシュアル・マイノリティへの配慮として、特定の○○と喋るときは気をつけるというよりも、周縁化する人を極力作らない考え方や、それにもとづく言語表現が、全員にとってのスタンダードになってほしい、という意味合いが近いです。

具体的に、セクシュアリティに関連したところで言うと、相手の見た目などから、パートナーの性を決めつけないという考え方がスタンダードになってほしいなあと思います。その一歩として、授業でもふれたかもしれないのですが、ジェンダー中立的な表現がもっと普及して欲しいですよね…(「彼女」「彼氏」ではなく、「パートナー」「好きな人」とか…)

学校場面で言うと、ワークのところでお話したように、見た目から、相手の性を決めつけて、「さん/くん」で呼び分けたりとかせずに、呼んでほしい名前を、クラス開きのときに聞いておくと、セクシュアリティに関連する悩みを持っている人でなくても、たとえば自分の名前や付けられやすいアダ名にコンプレックスがある場合などにも、安心しやすいかもしれないです。
(筆者注:外部講師から許諾を得た上で一部抜粋した)

確かに,学ぶことは,学び手を不自由にするかもしれない。しかし,このような社会的マイノリティ (ジェンダーに限らず,障害や貧困,文化や言語の問題も含まれる) に関わる事柄の場合は特に,その不自由を恒常的かつ集中的に引き受けてきた人々がいるということを忘れてはいけない。学ぶことでかえって「もやもや」が増えてしまったと感じるのは,今までその事柄を「気にせずにすんでいた」からで,別の誰かが代わりにその不自由をずっと持っていてくれたということだと思う。

このように考えると,社会的マイノリティについて学ぶことは,社会における不自由の分散につながるといえるかもしれない。特定の誰かがずっと肩代わりしてくれていた濃度が大きい「不自由」を再分配して,みんなで少しずつ引き受け合う。そうすることで,社会は今までよりも少しだけ,より多くの人にとって生きやすくなるのではないか。個人内の変化だけでなく,こうして社会的な視点から学びの不自由さを捉えてみると,そのポジティブな側面が見えてくるように思われる。

ちなみに,「マイノリティにやさしい社会は,みんなにやさしい社会になる」という視点はすでに別のnote記事で書いたので,よかったら読んでみてほしい。


「もやもや」を分かち合うことで生まれる新しい自由

学ぶことでかえって不自由さが増してしまったと感じるとき,その面倒さや居心地の悪さと向き合い続けるのにはそれなりのエネルギーがいる。できるなら「なかったこと」にしてやりすごしてしまいたい。蓋をしておきたい。そう思うこともあるだろうし,自分自身が疲弊しているときには,実際にそうした方が良い場合もあるだろう。

それでもなお,学びに伴う不自由さのいくらかを引き受け,持ちつづけることが,重要な価値を生むこともある。

先の外部講師に,この記事の草稿を読んでもらった。読後のコメントには,不自由であるからこそ抱くことのできる希望もあるということが端的に示されていた。

自分の体験だと、フェミニズムやジェンダー、セクシュアリティの考え方にふれるようになって、今まで気に留めなかった身の回りの言動が、逐一(自分でも面倒なぐらい 苦笑)気になるようになったことが、ふと連想されました。
ですが、その分、同じようにその不自由さを分かち合える人に、以前よりも深い信頼を置けるようになったような気もします。
(筆者注:外部講師から許諾を得た上で一部抜粋した)

互いに不自由さを抱えていると知ることは,その相手への信頼を深めうる。「あなたはそういう不自由を抱えていたのか」「それなら,私が抱えている不自由にも耳を貸してくれるかもしれない」というように,相手への信頼は対話の土台を整えてくれる。不自由さを他者と分かち合い,対話を重ねるうちに,「解像度が上がる」こととは少し違う種類の,新しい自由が得られる場合もある

『ブルーピリオド』の主人公八虎は,美術について学ぶなかで,絵画という対象をより分析的に,細かく捉えることができるようになっていく。「この絵のテーマは何か」「なぜ絵画という表現手段でなければならなかったのか」という視点で絵画を鑑賞するようになるが,その一方で,「ただ上手いだけではダメだ」と自分を縛るようにもなっていく。しかし,美術館に足を運び,抱えている不自由さを美術仲間に打ち明けるなかで,新たな気づきを得る。

上手い絵にも意味がある… 上手さが何かを産むこともあるのか…
(山口つばさ『ブルーピリオド』9巻, 35筆目)

『チェンソーマン』のデンジも,自分で考えながら生きることを放棄し,他者に人生の選択の一切を委ねそうになるが,新しい情報に触れ,自分のしんどさを同僚と分かち合うなかで,「自分がやりたいこと」に意識が向くようになっていく。そして,何でも人任せにするのではなく,主体的に自分の行動を選択しながら生きることを決意する。

ホントは毎朝ぁあ ステーキとかっ 食いてえんですっ!
(藤本タツキ『チェンソーマン』11巻, 93話)

八虎とデンジに共通するのは,不自由さを持ち歩き続けたこと,そして,自分が抱えている不自由を, (性質は異なるかもしれないが) 同じく不自由を抱えている他者と分かち合ったことだ。

学ぶことで不自由さを感じる状況というのは,いうなれば,度数のきつい単一の眼鏡でしか対象を見ることができない状態だといえるだろう。これに対して,不自由さの先にある新しい自由とは,度数や見え方が異なるほかの眼鏡をかけるという選択肢が増えたことだといえる。学ぶということは,このように自由と不自由の両極を行きつ戻りつしながら,対象の見え方やそれに伴う自分の行動のスタイルを絶えず更新していく作業なのではないか。


終わりに

不自由さをくぐった先にあるこうした学びは,いつも成立するとは限らない。けれども,不自由さを流さずに持ち歩いていれば,その形はいつか大きく変わるかもしれない。

セクシュアルマイノリティについて学んだ先の学生は,学んだ事柄を自分の価値観や経験と照らし合わせることで生まれた,どうにも取り扱いづらい「差異」や「違和感」を,放り捨ててしまわずにちゃんと持ち続けることを選んだ。その選択がいつか,信頼できる他者とつながり,対話による新たな学びにつながることを願っている (きっと,その芽はすでに出ている。抱えた不自由を共有してくれたおかげで,私はこの記事を書く決心がついたし,外部講師との対話も深まったのだ)。学びに対するこの学生の真摯な姿勢を,私はとても尊敬している。

学びによる自由と不自由の往還は,教育のなかでいくらか実践できるかもしれない。この学生のように,私自身,学ぶことで生まれた「不自由さ」と丁寧に向き合える学び手でありたいし (いつも成功するわけではまったくないけれど),そういった「不自由さ」を大事にし,分かち合うことのできる学び手を育てられるような,そういう教育者になりたいと思う。



見出し画像:photo by すしぱく

謝辞
本記事執筆にあたり示唆に富むコメントを寄せてくださった町田奈緒士氏,谷川嘉浩氏,そして,担当講義を受講してくれた学生のみなさんに感謝申し上げます。

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