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シン・エヴァンゲリオン劇場版:||

「涙で救えるのは、自分だけだ」
劇中でのシンジ君のこの台詞が、心の底に残った。

深い苦悩と絶望の果て。
生きていくのが辛すぎて、何もする気が起きない。
自分以外は皆いい歳をした大人になってしまった。
取り残された孤独感と不安感。

主人公にとって不幸だったのは、碇ゲンドウという最悪の男が実の父親であり、戦いに向いていないと本人も分かっていながら他に選択肢がなかったことだ。
しかも、自分の選択で人類そのものが滅びかけ、地球は人も住めないくらい荒廃してしまう。
物語を外から見ている方はイライラするだろうが、心を病まない方がおかしいくらいだったのだ。


絶大な権力を持ち、実力行使もためらわない親に、子供が対峙するのは骨が折れる。
しかも妄執に取りつかれた親に対して対話と説得を試みることは、とてつもなく重いプレッシャーがのしかかる。

私自身を振り返ってみれば、それができたのは40代も後半になってからだ。
シンジ君のような10代半ばの少年には、荷が重いと言わざるを得ない。


人の親になってみると分かるが、子供というのは厄介なものだ。
下手なごまかしが効かない。
直視したくない自分の欠点が見えてしまう。
放っておいてくれないし、責任を放棄もできない。

そういう意味で見ると、子供との対話を最初から放棄したゲンドウという男は、親として未熟極まりない。
だが、昭和という時代は、こういう身勝手で居丈高な男親は珍しくなかった。
仕事さえしていれば、家のなかで家長としてふんぞり返っていられたのだ。


新世紀エヴァンゲリオンが世に出た1995年という年は、災厄の年だった。
オウム真理教事件、阪神淡路大震災、そしてバブル経済が崩壊し、金融破綻が現実のものとなった。誰もが明るい未来を信じることができなくなった。

世紀末の喧騒を経て、2000年代はエヴァの影響を受けたセカイ系と称される作品群が次々と登場した。新海誠や細田守、麻枝准、谷川流といった作家らが世に出て、様々な作品をリリースし、ひとつのジャンルとなった。


そこまで流行ったセカイ系の物語だが、幾原邦彦の「輪るピングドラム」がまとめて叩き潰した。
https://www.youtube.com/watch?v=4kf0KiakfjM

オウム真理教事件という重いモチーフを、登場人物たちのコミカルな日常を織り交ぜながら寓話的な表現で見事に文芸的な高みにまで昇華した稀有な作品だ。

生身で体感する現実世界の持つ重みや痛みは、空想で描いた物語より遥かに強度がある。
東日本大震災があった2011年という年に、この「輪るピングドラム」が放映されたのは象徴的だ。ここで物語表現におけるひとつの時代が終わったのだ。


「現実にあった出来事」は、物語を構成する世界観に深いアンカーを打ち込み、強靭な基礎を形成する。どんなにぶっ飛んだ設定や破綻した人格がそこで暴れても、世界観が根底から揺らぐことはなくなる。

例えば「この世界の片隅に」という作品では、片渕監督は当時の街並み、天気や気温、空襲の記録、商店に並ぶ品揃えに至るまで徹底して調べ上げたという。
https://konosekai.jp/


つまりエヴァンゲリオンというセカイ系SF作品は、言うなればもうとっくに歴史的使命を終えていた。すでに時代遅れとすら言える代物となっていたのだ。
四半世紀も経つと、作品を取り巻く時代背景や世相も変わる。

世代も一巡した。
シンジ君に共感していた若い世代は、もうすっかり中高年になってしまった。
下手するとゲンドウよりも年上になってしまって、かつてのような陰謀論じみた世界観には、もうのめり込めなくなってきたのだ。

なにせ現実の世界の方が、より混沌としていて先が見えない。
1年後にどうなっているか誰も分からないし、退屈な日常に飽きるなんてそれこそ贅沢だ。明日が今日より良い日となる保証なんて、どこにもないのだ。


テクノロジーが進歩しても、ヒトは賢くはならなかった。
ネットであらゆる情報にアクセスできても、デマやフェイクニュースに踊らされる人が絶えない。
そして大人の世界が、虚飾と欲望の穢れに満ちたどうしようもない世界であることも、すでに子供たちは知ってしまっている。

だから最後のシーンでは、現実の世界を見せるしかなかった。
ここが、お前たちの生きていく世界。
その汚さに絶望するのも、美しさを見出して感動することも、見る人の心次第だということを示しながら。

#シン・エヴァンゲリオン劇場版

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