本を読む意味

「本を読みなさい」は日本の大人の常套句ですが、「なぜ本を読むべきなのか」を説明してくれる人はほとんどいません。なされる数少ない説明にしても、ほとんどが「心が豊かになるから」っていうものな気がします。ただ、今の時代の子供はきっと、「テレビゲームだったらサッカーのスターになれるし、街だって作れるよ!本よりもゲームの方が、想像が叶えられる気がするんだよ!」って返すと思います。これを言われてしまうと、なかなか言い返せません。

さて、私は最近ずっと「本を読む意味」っていうのを考えていたのですが、この前、大学の先生が「ああなるほど」って思える意見を言っていたので紹介します。

それは、「論理的に書かれた文章を読み、論理的な思考を行い、そして論理的な文章を書くことができるようにするための訓練」というものでした。先生曰く、「最近は、ネットや新聞しか読まないっていう人が多いですが、それらの文章は、全てとは言わないけれど論理的思考度外視のものが結構混ざっているのです」と。

たしかに、新聞とかネットの文章、特にネットニュースとかはスピード重視ですよね。これらのプラットホームには、「後1日遅かったら、後1分遅かったらタイムリーじゃなくなって、読んでもらえなくなってしまう」ような文章が溢れています。そうなると、やはり度外視されてしまうのは論理的かどうか、です。僕も、特にインターネットでは、一読すれば気付く誤字や、何を言いたいのかわからない文章をまあまあ多い頻度で見つける気がします。

やはりインターネットニュースなどの粗い文章ばかり読んでいると、綺麗な魚の骨みたいな1本の筋が通った論理的な文章を読まないわけです。つまり、綺麗に論理が組み立てられた文章に対して無知なわけですよ。もちろん、生まれつき論理的な思考力を持っていて、かつ、論理的な文章を書くことができる表現力を持ち合わせた、いわゆる文章を書くセンスがある人っているのかもしれませんが、稀だと思います。やはり、論理的な文章を書く力っていうのはその1本の筋の組み立てを、文を読んで学び(時には感動し)、論理的に思考を積み重ねた上で、さあ書くぞと苦心して自ら実践することを積み重ねると手に入るものだと思うのです。そう考えると、本を読む意味は確かに、「論理的な思考と表現のための最適な訓練」なのかもしれません。

本って、きちんと校正されていますよね。最近は紛い物みたいな、紙質の悪い本も増えていて、あの類は疑わしいものですが。しかし、大抵の本というのは、筆者と編集者の何度にも渡る校正の結晶だと思うのです。

論理的な文章を書くことができる必要があるのかということは、あまり詳しく論じませんが、やはり様々な場面でそれが必要になるからだと思います。大学の卒業論文や、会社の企画書、何かに関しての意見書など、論理的でなければ突っぱねられてもおかしくない文章はやはり人生で何度も書くことになると思うのです。

さて、「本を読む意味は、インターネットの文章を読むだけでは得られないことにあるのだ」などと論じてきましたが、これをインターネットのプラットホームにて行なっているのがなかなかアイロニーに富んでいますよね。まあ、「最近、本読んでないなあ」って人が、昔好きだった一冊を読んでみるとか、話題作を読んでみるとか、そういうことの一端をこの文章が担うことができたらいいな、と私は思っています。ちなみに私は最近、鷲田清一先生と山極寿一先生という、京大卒の2人の研究者による対談本『都市と野生の思考』や、ヘッセの『春の嵐』を、ふむふむなるほどこういう意味か、と噛み砕きながら読みました。今はクンデラの『存在の耐えられない軽さ』と格闘していますが、こちらは長くなりそうです。

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