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疑ってみる、信じてみる、共感してみる。

玄関の呼び鈴がなった。
土曜日の午前中、息子は囲碁教室、妻は息子のお迎えで出かけたばかりだ。寝床で数冊の本を乱読していたボクは、インターフォンの受話器をとった。

「私は◯◯地区に住む□□という者で、聖書の言葉をひとつお届けに参りました」
中年の女性の品の良い声だった。こうした訪問は数年に一度にある。
身近な人でそうした信仰をもつ人がいて、でもボクはどこか疑念を持ってその人の言動をとらえているところがある。そんな思いが重なりボクはこう答えた。

「あぁ〜、おはようございます。そうですか。私は日蓮宗です(実際は違うけど……. 方便として)。今はお話をお聞きする時間がとれないんです。ごめんなさいね。どうぞ良い一日をお過ごしください。」

そう伝えると、インターフォン越しの女性は
「あぁ、そうなんでいらっしゃいますね。それでは失礼いたします」
そう応えて、わが家の前を後にしていった。

ボクが日蓮宗という言葉を口にしたワケは、数ヶ月前に『日蓮の手紙』https://amzn.asia/d/jjoqIJp
という本に触れたことがあり、日蓮という人柄になんとなく共感を覚えた記憶があったからだ。

インターフォン越しのその女性とは、会ったこともない人で、顔も知らない。そしてボクは、その人の暮らしや人生や信仰に触れることをやんわりと放棄してみた。ボクの応えを聞くと、その女性は、それ以上、ボクの日常や人生に介入することをすんなりとあきらめてくれたようだった。

ただそこには、ふたりの人間が何かを求めている姿があり、その観点からならば、人間同士の共感を何かしら分かち合った瞬間が、そこにはあったのかもしれない。

哲学との出会い。

世の中にリモートワークといった言葉が実体験として浸透しはじめてきた頃、ボクはどこか鬱屈としはじめていた。そんな時、日経新聞の文化欄のNextストーリーというコーナーで「哲学者が考えていること」という記事を見つけた。そこでは日本人で活躍する若手の哲学者が紹介されていて、國分功一郎・東浩紀・萱野稔人・小川仁志・千葉雅也という5人の人間から人類に対する疑念が提言されていた。

ボクにとって「哲学」というものにふれたのは、大学の一般教養の中でプラトンの「洞窟の比喩」というイデア論を聞いたことが印象的なくらいで、あとは難解なイメージばかりがあった。けれど、新聞記事に見つけた5人の若き哲学者たちからボクに突きつけられた疑念の断片は、『えっ!?そんなことが哲学なの!?」というどれも実践的でアクティブな挑戦を意味するように感じられて静かな興奮をおぼえた。

その後、この5人の著作をボクはむさぼる様に読むことになる(どこまで理解が及んでいるかはさておき)。

信仰に関する体験、ひとつ、ふたつ。

幼いボクは、近所にあった教会という場所に、母親に連れられて行ったことがあった。その時の記憶といえば、大きな広間に置かれた移動式黒板があり、カラフルなチョークを渡されたボクは、板面いっぱいにブラキオザウルス(大型草食恐竜)を描いて、とっても悦にいっていた。

一方で、実家は臨済宗の檀家でもあったので、テレビアニメの『一休さん』(一休禅師がモデル)が大好きで、父親が仏壇で何やら唱えている呪文(般若心経だったのだと思う)を不思議な気持ちで見ていた記憶がある。

そういえば、大学生の頃、キャンパスの近くに教会があり、来日していた若い宣教師の卵の青年達と遊び仲間になったことがあった。多分、最初のきっかけは、英会話サークルのゲストスピーカーとして数人のアメリカ人の若い男女が遊びにきてくれたのだったと思う。それがきっかけで、その後にボクはアメリカでホームステイする機会が得られた。その時、友人の宣教師が信仰との出会いについて語ってくれ、無信仰であった彼が大きな交通事故で急死に一生を得た経験が転機になったと聴いて、ボクは「アメリカ人の人がすべてクリスチャンでもないんだ」と素朴な知見を得たことが印象に残っている。

これ以外にも、信仰に関する体験というのは、日常的にあるんだなぁ、と思い出されてくるものだと気がついた。

答えがないから、見つからないから、面白い。(のかも)

ここしばらく(数年前〜最近半年の間くらい)、ボクの心を思い悩ませてきたことは、職場や家庭やその他の『人間関係』に他ならない。

そんな中でボクができた唯一のことと言えば、「誠実に、ただ誠実に、落ち込む」ということだけだった。

そこに拡がる心象風景は、まるで深い深い海の中で、光も届かない中で、じっと、そしてゆったりと、時に激しい感情の流れに翻弄されながら、徐々に徐々にゆっくりと水面に浮かんでゆく様な日々を過ごしてきた。

四十代後半ともなり、冴えないサラリーマンであり、何者にもなれずに過ごしてきた自分への忸怩たる想いと、何者にもならなかった自由な享楽に耽溺していた自分とに気がつく。

答えを探し続けて、随分と長い間、心の旅を過ごしてきた気がするけれど、それらしき光を見つけられた様な瞬間を重ねながら、人間という生き物や在り方に対して次々と新しい疑念は、ボクの中に現れ続けている。

(終)

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