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『劇場版 鬼滅の刃』に学ぶ日本型ガバナンスの課題

年末に、劇場版「鬼滅の刃~無限列車編」を観てきました。ストーリー、映像、音楽、演技いずれをとっても非常に高いクオリティで、歴代最高興行収入を達成したのも納得の素晴らしい作品でした。

他方で、鑑賞後、ずっと引っかかっていた点がありました。それは、主人公達が所属する「鬼殺隊」のガバナンスの在り方に関するものです。私には、この「鬼殺隊」という組織に、典型的な日本型ガバナンスの問題点が詰め込まれているように思えてならず、この点をきちんと批判的に検証することこそが、今の社会に必要だと感じています。そこで、本記事では、「鬼殺隊」の何が問題だったのかを書いていきたいと思います。

◆ 本記事は、映画の核心部分に関するネタバレを含んでいますので、未鑑賞の方はご注意下さい。
◆ 本記事は、映画自体ではなく、映画に出てくる「鬼殺隊」のガバナンスを批判的に評価するものです。鬼滅の刃は素晴らしい作品だと思いますし、いくら「鬼殺隊」のガバナンスがグズグズであっても、作品自体の価値は一ミリも損なわれないと考えています。
◆ 筆者は、まだテレビアニメと映画しか観ておらず、その先の原作は追えていません。もしかすると、本記事で指摘する問題点は、その後のストーリーの中で改善されるのかも知れません。

1.無限列車事件の結果

まずは、無限列車事件の結果を振り返りたいと思います(以下、早速ネタバレです)。





鬼殺隊にとってプラス要素は〇、マイナス要素は×としています。

〇 列車の乗客200名は全員無事
 主人公グループは全員生存
 敵方主力の一人である「下弦の壱(魘夢)」死亡
× 味方主力の一人である「煉獄杏寿郎」死亡
× 敵方主力の一人である「上弦の参(猗窩座)」逃亡

失った主力は味方、敵方1名ずつで、人間側は乗客200名の生存を確保しているので、決して悪い結果ではないようにも思えます。

しかし、この結果はいくつもの幸運が重なった奇跡的なもので、一歩間違えば、乗客乗員が全滅していても全くおかしくない状況でした。その上、鬼殺隊は、主力隊士である煉獄さんを失っています。煉獄さんは、猗窩座をして「至高の領域に近い」と言わしめる実力者で、事実、乗客200名を救うことができたのは、煉獄さんというカリスマの活躍によるところが大きいといえます。人間側はその絶大なカリスマを失うという、取返しのつかない損害を負ったのです。

そして、「鬼殺隊」のガバナンスがしっかりしていれば、この尊い犠牲は避けられたのではないか?というのが、本記事の問題意識です。

それでは、具体的に何が問題だったのかを見ていきたいと思います。

2.リスク分析の甘さ

本作戦では、現場にどのようなリスクがあるかが、適切に分析されていませんでした。作戦の発端は、40名前後の乗客が無限列車で行方不明になっているという情報です。行方不明者の数からは、敵方に相当な戦力があることが見込まれます。それに対して鬼殺隊が派遣したのは、柱1名と新人隊士3名(+禰豆子)のみ。その直前の那田蜘蛛山事件では、敵方主力1名(下弦の伍:累)とその家族を討伐するために、柱2名を含む多数の隊士が派遣されていることを考えると、無限列車に派遣された戦力は相当手薄であったと言わざるをえません。事前のリスク分析の甘さが、本件の失敗の発端といえます。

3.目標設定の不明確さ

このようなメンバー選定からすると、本作戦の本来の目標は、敵の撃破ではなく、行方不明事件の原因を把握することにあったとも考えられます。いわゆる偵察任務です。

しかし、実際には、無限列車に敵方主力の魘夢(エンム)が乗車しており、煉獄さんと主人公パーティーは戦闘に巻き込まれてしまいます。もっとも、既に多数の行方不明者が出ている列車に乗っていれば、そこで敵との戦闘に巻き込まれることは、十分に想定できることでした。そのため、鬼殺隊は、敵とやむを得ず戦闘に入った際の対処についても計画し、適切なバックアップ態勢を整えておくべきだったといえます。しかし事前にそのような準備はなく、主人公達は偵察任務レベルの編成で、なし崩し的に敵との戦闘に突入していきます。炭次郎の驚異的な精神力やその他のメンバーの劇的な活躍によって、なんとかその危機を乗り越えることができましたが、一歩間違えれば、乗客もろとも全滅していた「重大インシデント」であったといえるでしょう。

こうした不十分なリスク分析と曖昧な目標設定の中、煉獄さんと炭次郎たちは苦戦しつつも、なんとか魘夢を撃破します。しかしその後、誰にも予測し得なかったことが起こります。上弦の参、猗窩座(アカザ)の登場です。

4.環境変化への対応の失敗

誰にも予想し得ないことが起きるのがこの世の中です。まして、文字通り神出鬼没の「鬼」を相手にする場合は、常に「想定外」が起きることを「想定」していなければいけません。こうした意識をもっていれば、猗窩座が登場したとき、直接の戦闘に参加していない主人公パーティーの誰かは、直ちに本部に報告することができたはずです。そのために、彼等には「鎹鴉(かすがいガラス)」という情報伝達ツールがあります。しかし残念ながら、このカラスが状況報告を行ったのは、すべてが終わった後でした。本来、カラスの役割は、訃報を伝達することではなく、危機を伝達することであるはずです。

また、エンディングで明らかになることですが、このとき他の柱たちは、特に作戦に赴くでもなく、街中をぷらぷらしていました。このうち誰か一人でも、無限列車後方に予備戦力として配置されていて、煉獄さんの危機の一報を受けて直ちに出動できていれば、今回の作戦の結果は全く違うものになっていたかも知れません。

5.ステークホルダーとの協調不足

本作品中の鬼は、日々多くの人命を奪っている凶悪な存在であり、本来であれば人類が結束して立ち向かうべきリスクであるといえます。

無限列車だけをみても、既に40名余が行方不明になっているとのことで、鬼殺隊としては、これが鬼の所業と思われることを鉄道会社(国鉄?)に連絡し、列車の運行を止めるとか、警備体制を強化するとかいった要請を行うべきでした。鬼殺隊は、鬼討伐という点では専門家かも知れませんが、鬼のリスクレベルは少数精鋭の専門家で対処できる範囲を超えており、ステークホルダー(この場合は、鉄道会社、乗客、周辺住民等)を巻き込んで対処する必要があったと考えられます。「鬼」といっても普通の人は信じないとか、かえって混乱を呼ぶとかいった理由をつけて、専門家だけで対処するという不透明なやり方は、社会全体で対応すべき問題に取り組む際には不適切と考えられます。

6.事後評価の欠如

結果として、煉獄さんと主人公パーティの激烈な奮闘により、乗客200名の命は救われ、魘夢も撃退できました。他方、煉獄さんは亡くなり、煉獄さんが命を賭してあと一歩のところまで追い詰めた猗窩座は、無傷状態に戻りまんまと逃げおおせてしまいました。こうした結果は、上記のようなガバナンスをきちんと行っていれば回避できた可能性があり、鬼殺隊としてはこれを大いに反省して今後の体制改善につなげてくべきでした。しかし、映画の中で、今回の作戦の問題点が検証された形跡はありません。責任者のお館様は、事件の顛末を聞いてこう言います。

「寂しくはないよ。私ももう長くは生きられない。近いうちに杏寿郎や皆のいる・・・黄泉の国へ行くだろうから。」

・・・これはいわゆる「腹を切って詫びればよい」という悪しき思考であり、リーダーとしては失格であると言わざるを得ません。責任者が退場したところで、尊い犠牲は将来に活かされず、同じ過ちが繰り返されることに変わりはないのです。組織のリーダーにとって必要なのは、きちんと今回の犠牲の原因を検証し、再発防止措置を講じることだったのではないでしょうか。

7.不確実な世界に生きる我々への教訓

数々のガバナンスの甘さによって生じた煉獄さんの悲劇は、物語の舞台である大正時代だけでなく、不確実性の高い現代を生きる我々にとって重要な教訓といえると思います。

予測不能で強力な「鬼」は、我々を取り巻く様々なリスク(新型コロナウィルス、サイバー攻撃、大規模システムダウン、気候変動等)に置き換えることができるでしょう。

このようなリスクに対処するためには、場当たり的な判断や経験値に頼るのではなく、しっかりとしたガバナンスが必要になります。それはすなわち、以下のようなことです。

①自身を取り巻く環境・リスクを適切に分析すること
②それを踏まえて目標設定を行い、戦略を立案・実行すること
③常に状況をモニタリングして、異常や外部状況の変化があれば直ちに報告し、目標や戦略を練り直すこと
④透明性をもって様々なステークホルダーを巻き込むこと
⑤結果が出たら、その成否にかかわらず、課題を批判的に検討し、今後のオペレーションの改善につなげていくこと

こうしたガバナンス態勢を整備することなく、英雄のカリスマ性に頼り、その死を美談として終わらせるような社会は、いつまで経っても「課題解決社会」にはなり得ないと思います。

煉獄さんの死から我々が受け取るべきメッセージは、強さや美しさの本当の意味だけではなく、「鬼」のような困難なリスクに直面する我々の社会における、適切なガバナンスの必要性だったのではないでしょうか。

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