126. 下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ。〜小林一三〜
みなさんこんにちは。
今回は、阪神電鉄や宝塚歌劇団、阪急百貨店、東宝などの阪急阪神東宝グループの創始者である小林一三さんの格言について紹介します。
一三さんは、私鉄の経営モデルの原型を独自に作り上げた人でもあります。
小林一三とは
一三さんは、1873年に山梨県に生まれました。
名前の由来は一月三日に生まれたことから一三になったということです。
小林家は農業だけでなく、酒造や生糸などを手広く扱っていた。
母は甲州で一、二と言われた丹沢の家から父を迎えて一三を産みましたが、産後半年で病死し、父は実家に帰りました。
その後父は、酒造の家に婿入りし、4人の男子を設けました。
1888年には、福沢諭吉が塾長の慶應義塾に入学し、
在学中は演劇と文学に没頭しました。
一三の保証人である高橋義雄が自らO・ヘンリーの翻訳を手がけていたため、
保証人が先陣を切って文学の道を進んでいたため、一三もいきりたった。
高橋は時事新報の記者になった後三井銀行に入り、
一三は文学の道を諦められず都新聞の記者を目指しましたが、新聞社の内紛により入社できず、
高橋の取りなしにより三井銀行に入社しました。
34歳まで勤め、東京本店の調査課主任にまで昇進し、
日露戦争後終結後、三菱東京UFJ銀行を設立した岩下清周に誘われ、岩下が設立する証券会社の支配人になる話がありましたが、
恐慌になり設立の話は無くなりました。
一三さんは箕面有馬電気鉄道の話を聞き、電鉄事業は伸び代があるとして、銀行に株式を引き受けさせ、
1907年に箕面有馬電気軌道を設立しました。
この時、「大衆向け」住宅の発想があり、サラリーマンでも購入できるように、
割賦制度による分譲販売を行いました。
その後、動物園、宝塚新温泉、宝塚唱歌隊、宝塚歌劇団を立ち上げ、
沿線を阪急グループの聖地と言われるほどに育て上げました。
乗客が増えてきた頃、神戸方面へ路線を増やすのを機に阪神急行電鉄と改めました。
神戸本線を建設し、大阪・神戸間の移動客の増加とスピードアップにつながりました。
1920年には日本で初めてのターミナルデパートを設け、
梅田駅の1階に白木屋、2階に阪急直営店、2・3階に白木屋の成功から自社直営の「阪急マーケット」を経営しました。
1929年には「阪急百貨店」を開店させました。
下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ。
下足番(げそくばん)とは、人が脱いだ履き物を預かり、その番をしたり、
寄席や料亭などで客の下駄番をする人のことです。
つまりどんな仕事でも、誰もが驚くほど仕事を極めれば、
他の人が見た時に誰もそのまま放ってはおかないということです。
例えば、誰もができそうな下駄番でも、
誰が出そうだから用意しておこうだとか、
入ってくる人数によって準備したりなど、
気遣いを極めれば周りにも喜ばれる仕事になります。
そうやって、目の前の仕事を全力で極める人こそ、
周りに好かれる人であり、新しい仕事(や事業)を与えられる人でもあると思います。
そうやって、周りを見ながら仕事をどんどん進められる人は、
どんな仕事をしても認められると思います。
自分もそんな周りが喜ぶような仕事をしていきたいと思います。
最後に
今回は、阪神電鉄や宝塚歌劇団、阪急百貨店、東宝などの阪急阪神東宝グループの創始者である小林一三さんの格言について紹介してきました。
自身もどんな仕事も作り出してきており、その仕事も本気でこなしてきたからこそ、
新しい事業に出会えたのだと思います。
そしてこの格言、
仕事を与えられるというニュアンスを含んでいますが、
自分が目の前の仕事を本気でしているだけでなく、
周りの人も大事にしているからこそ、新しい仕事に巡り合えるというニュアンスも含んでいると思います。
自分の仕事だけでなく、
周りの人も大事にしてきたからこそ、
新しい仕事への道筋もひらけてきたんだろうなと思います。
僕もそんな、目の前の仕事を本気でしつつも、
周りの人も大切にできるような仕事をこれからもしていこうと思います。
それではまたどこかで。