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走れフリーランス主婦


先週、事件が起きた。夫が夜に社外の方々との会食があるにもかかわらず、スウェットで会社に行ってしまったのだ。

朝、出勤した夫からLINEが届いた。「今日夕飯いらない。会食だったの忘れてた~服装やばい」。


わたしは衝撃を受ける。ふつう、社外の偉い人たちとの会食という緊張に緊張を重ねるようなシチュエーションが待っていれば、前日からもっとそわそわするものではないか。朝も迷わずスーツを着て、質問や話題を三つ四つ考えて、それでも足りない気がして、ゆううつな面持ちで家を出るというものではないか。


しかし夫は違う。気の抜けたスウェットで(夫の会社ふだんは服装なんでもOK)、寝ぼけたゆるふわな顔をして、いつもと変わらない出勤をした。出勤してスケジュールを確認するまで、会食の存在を忘れていたのである。


メンタルの格が違う。まねしたい気もするし、わたしがまねしたらこの家は終わりだという気もする。


これは、まずい状況である。今でこそ、わたしは自由気ままなフリーランス主婦であるが、かつては何年間もジャケットを着て会社員をしていた身。会食や接待にラフな格好で行ってはならないことは、身をもって知っている。夫にTPOを守らせなければならない。


フリーランス主婦は大慌てした。必ず、このスーツを夫に届けなければならないと決意した。フリーランス主婦には夫の会社までの道がわからぬ。フリーランス主婦はリビングの住人である。鼻歌を歌い、毎日昼寝をして暮らしてきた。けれどもTPOに対しては、人一倍に敏感であった。

ふだん開けることのない夫のクローゼットを開ける。スーツと、ワイシャツと、ネクタイがずらりとならんでいる。わたしの中の柳原可奈子が目を覚ます。どれが一番夫に合うだろう。印象がよく、今日の会食にふさわしいのはどの組み合わせだろう。使命感が止まらない。サイズが合わなかったらどうしようと思う。よく考えるとすべて夫の服なのでサイズはどれも合う。落ち着こう。


これかなあというものをみつくろい、夫にLINEで写メを送り、了承を得る。


走れ!フリーランス主婦!(車)


夕方。ナビを頼りに会社の近くに着く。夫がのそのそと歩いてくる。まったくのんきなものである。

「これ!はい!」
「ほーい、ありがと〜」


いやもっと感激しろ。本来なら泣きながら抱擁をするシーン。こちらはメロスを全身全霊で演じ切ったのだから、あなたはセリヌンティウスになりきれ。と思ったが、この設定はすべてわたしの妄想なので大人しく車を運転して家に帰った。夫から「これでしっかりおいしいもん食べてくるわあ」とLINEがきていた。どっと疲れた。


おわり

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