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『歌よみに与ふる書』 - 正岡子規


今日の読書こそ、真の学問である。
吉田松陰


〇今日の読書

『歌よみに与ふる書』 - 正岡子規


〇なぜ読むのか?

正岡子規の和歌について語るーというよりも斬るという風体かもしれないがーものを見つけた。歌よみに向けての指南書とでも言えるだろうか。

短歌好きとしては、子規先生から声をもらえるなんて、こんな喜びはないだろう。歌よみを目指すべく読んでみることにした。

青空文庫にあるので、ぜひ読んでほしい。


〇気に入った箇所


 仰せのごとく近来和歌は一向に振い申さず候。正直に申し候えば『万葉』以来、実朝以来、一向に振い申さず候。実朝という人は三十にも足らでいざこれからというところにてあえなき最期を遂げられまことに残念致し候。あの人をして今十年も活かしておいたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ申さず候。とにかくに第一流の歌人と存候。

ここから始まるのだが、明治において既に和歌は廃れていて、『万葉集』から始まる和歌の文化は、鎌倉の頃に『金槐和歌集』を残した源実朝以来、まったく盛り上がっていないらしい。しかし、先生の実朝への評価は高く、とにかく第一流の歌人と推している。


 歌よみのごとく馬鹿なのんきなものはまたとこれ無く候。歌よみのいうことを聞き候えば、和歌ほど善きものは他になき由いつでも誇り申候えども、歌よみは歌よりほかのものは何も知らぬゆえに歌が一番善きように自惚れ候次第にこれ有り候。

歌詠みほどのんきな者はいないらしい。たしかにそうと思う。そして、歌詠みから言わせると、和歌ほどいいものはないという。たしかにそれもそうと思う。
和歌は世界を表現できる。和歌は自分を表現できる。和歌の調べに乗せると自然と美しさが漂う。そしてそこには文化の根底も感じ得る。それだけで和歌はいいものだと思うものである。他のなお善いものを知らないだけと言われれば、それはそうなのだけれども。


先生による和歌の添削講座

月みれば ちぢにものこそ 悲しけれ わが身一つの 秋にはあらねど 

大江千里『古今集』

 という歌は最も人の賞する歌なり。上三句はすらりとして難なけれども、下二句は理屈なり蛇足なりと存候。歌は感情を述ぶるものなるに理屈を述ぶるは歌を知らぬゆえにや候らん。この歌下二句が理屈なることは消極的に言いたるにても知れ可申、もし「我身一つの秋と思ふ」と詠むならば感情的なれども、秋ではないがと当り前のことをいわば理屈に陥り申候。

なるほど。理屈をこねると和歌の美しさをじゃましてしまうのか。
下の句を訳すと、私のためだけの秋じゃないのだけどね、だろうか。これだと分かり切ったことをわざわざ述べるなということになるのだろうか。せめて、私だけの秋なのよ、くらい言い切った方が、歯切れよく、むしろ感傷に浸れるのかもしれない。


心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花

凡河内躬恒『古今集』

 この躬恒の歌「百人一首」にあれば誰も口ずさみ候えども、一文半文のねうちもこれ無く駄歌に御座候。この歌は嘘の趣向なり、初霜が置いたくらいで白菊が見えなくなる気遣これ無く候。趣向嘘なれば趣も糸瓜もこれ有り申さず、けだしそれはつまらぬ嘘なるからにつまらぬにて、上手な嘘は面白く候。
例えば「鵲のわたせる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」面白く候。躬恒のは瑣細なことをやたらに仰山に述べたのみなれば無趣味なれども、家持のは全くないことを空想で現わしてみせたるゆえ面白く被感候。嘘を詠むなら全くないこととてつもなき嘘を詠むべし、しからざればありのままに正直に詠むが宜しく候。雀が舌剪られたとか狸が婆に化けたなどの嘘は面白く候。今朝は霜がふって白菊が見えんなどと真面目らしく人を欺く仰山的の嘘は極めて殺風景に御座候。
「露の落つる音」とか「梅の月が匂ふ」とかいうことをいうて楽む歌よみが多く候えども、これらも面白からぬ嘘に候。すべて嘘というものは一、二度は善けれど、たびたび詠まれては面白き嘘も面白からず相成申候。まして面白からぬ嘘はいうまでもなく候。「露の音」「月の匂」「風の色」などはもはや十分なれば今後の歌には再び現れぬよう致したく候。「花の匂」などいうも大方は嘘なり、桜などには格別の匂はこれ無く、「梅の匂」でも『古今』以後の歌よみの詠むように匂い申さず候。

これはさらに辛辣に斬られる。先生は嘘がきらいらしい。嘘なら嘘でもっと空想を膨らませてみろと言うところらしい。確かに、和歌を詠んで情景が浮かばないことには趣を感じようもない。とは言っても、古典を読もうとすると、現代とは文化背景が既に違っているから、想いを馳せるより他ないとも思いはする。
「露の音」「月の匂」「風の色」など、風情がありそうにも思うけれども、確かに言われてみれば、なんだそれとは言ってしまいたくなる。なるほど感性ならば、その感性に映るように届かせろということなのかもしれない。
今後の歌には再び現れぬようになんて言われてしまったので、ぱっと浮かんだ比喩表現はあらかた思い直さないといけなくなりそうだ。


先生による和歌の添削講座
次は、好きな歌を挙げる。

もののふの 矢並つくろふ 籠手の上に 霰たばしる 那須の篠原 

源実朝『金槐和歌集』

 普通に歌は「なり」、「けり」、「らん」、「かな」、「けれ」などのごとき助辞をもって斡旋せらるるにて名詞の少きが常なるに、この歌に限りては名詞極めて多く「てにをは」は「の」の字三、「に」の字一、二個の動詞も現在になり(動詞の最短き形)居候。かくのごとく必要なる材料をもって充実したる歌は実に少く候。

なるほど。必要な材料だけで充実していると言う。確かに一切の無駄が省かれていて、俳句的な印象を受ける。短歌をつくっていると、言葉を繋げる語を繕おうとすることがあるが、それは省けるものかもしれないということは考えてみるといいのだろう。


時により 過ぐれば民の 嘆きなり 八大竜王 雨やめたまえ 

源実朝『金槐和歌集』

 というがあり、恐らくは世人の好まざるところと存候えども、こは生の好きで好きでたまらぬ歌に御座候。かくのごとく勢強き恐ろしき歌はまたとこれ有り間敷、八大竜王を叱咤するところ竜王も懾伏致すべき勢相現れ申候。八大竜王と八字の漢語を用いたるところ「雨やめたまへ」と四三の調を用いたるところ皆この歌の勢を強めたるところにて候。初三句は極めて拙き句なれどもその一直線に言い下して拙きところかえってその真率偽りなきを示して祈晴の歌などには最も適当致居候。実朝はもとより善き歌作らんとてこれを作りしにもあらざるべく、ただ真心より詠み出でたらんがなかなかに善き歌とは相成り候いしやらん。ここらは手のさきの器用を弄し言葉のあやつりにのみ拘る歌よみどもの思い至らぬ場所に候。
三句切のことはなお他日つまびらかに可申候えども三句切の歌にぶっつかり候ゆえ一言致置候。三句切の歌詠むべからずなどいうは守株の論にて論ずるに足らず候えども三句切の歌は尻軽くなるの弊これ有り候。この弊を救うために下二句の内を字余りにすることしばしばこれ有り、この歌もその一にて(前に挙げたる大江千里の「月見れば」の歌もこの例。なおそのほかにも数え尽すべからず)候。この歌のごとく下を字余りにする時は三句切にしたる方かえって勢強く相成申候。取りも直さずこの歌は三句切の必要を示したるものに有之候。

和歌の技術としては、上三句で切れる場合には尻が軽くなり、だれてしまいがちなので、それを補う術として、字余りを用いれるようだ。確かに上三句で完結している場合、その三句は俳句的な装いで、下二句を続けるのが蛇足に感じることがある。下二句は、八代竜王と八文字で字余りなのだけれど、その勢いのまま畳みかけられるということだろうか。雨やめ、たまへ、で結ぶところは、四三の調(二ニ三かな)ならではの不安定さが語勢を活かすらしい。ちなみに往々にして、三四の調で最後の句を締める方が落ち着きがいいらしい。
そして、この句の稚拙さ、シンプルさが、かえって作者の真心からの歌という、小手先で技術を用いて、理屈をこねるともいえるだろうか、つくられているわけではないということも感じられていいようだ。


寂しさに 堪へたる人の またもあれな 庵をならべむ 冬の山里

西行『新古今和歌集』

 西行の心はこの歌に現れ居候。「心なき身にも哀れは知られけり」などいう露骨的の歌が世にもてはやされてこの歌などはかえって知る人少きも口惜く候。「庵を並べん」というがごとき斬新にして趣味ある趣向は西行ならでは得言わざるべく特に「冬の」と置きたるもまた尋常歌よみの手段にあらずと存候。後年芭蕉が新に俳諧を興せしも寂は「庵を並べむ」などより悟入し季の結び方は「冬の山里」などより悟入したるに非ざるかと思われ候。

やはり、西行の歌からは得るものが多いようだ。庵での寂しさを表す情景だろうが、その心情をはっきりとは語ってしまわず、語られた情景から心情を浮かべられるのがいいのだろう。
またもあれな、というのは、他にもいたらいいのになぁという嘆きというか願望を詠んでいる。先生の言う、「庵を並べむ」と「冬の」と置く斬新さを、まだ理解し得ていないのだけれど、そこに芭蕉は悟入したのだというからには、僕も理解し得る頃には和歌の悟りを開けるのかもしれない。



 御書面を見るに愚意を誤解致され候。初めに「客観的景色に重きを措きて詠むべし」とあり、次に「客観的にのみ詠むべきものとも思われず」云々とあるはいかに。
生は客観的にのみ歌を詠めと申したる事はこれ無く候。客観に重きを置けと申したる事もなけれどこの方は愚意に近きやう覚え候。
詩歌に限らず総ての文学が感情を本とする事は古今東西相違あるべくもこれ無く、もし感情を本とせずして理窟を本としたる者あらばそれは歌にても文学にてもあるまじく候。
客観主観感情理窟の語につきて、あるいは愚意を誤解被致いたされをるにや。全く客観的に詠みし歌なりとも感情を本としたるは言をまたず。例へば橋の袂たもとに柳が一本風に吹かれてゐるといふことを、そのまま歌にせんにはその歌は客観的なれども、元もとこの歌を作るといふはこの客観的景色を美なりと思ひし結果なれば、感情に本づく事は勿論にて、ただうつくしいとか、綺麗とか、うれしいとか、楽しいとかいふ語を著くると著けぬとの相違に候。また主観的と申す内にも感情と理窟との区別これ有り、生が排斥するは主観中の理窟の部分にして、感情の部分にはこれ無く候。
感情的主観の歌は客観の歌と比して、この主客両観の相違の点より優劣をいふべきにあらず、されば生は客観に重きを置く者にても無之候。
但し和歌俳句の如き短き者には主観的佳句よりも客観的佳句多しと信じをり候へば、客観に重きを置くといふも此処の事を意味すると見れば差支えこれ無く候。

どうやら、客観的に読むことばかりが和歌ではないぞと読者より意見書をもらったらしい。ただ、それは誤解だと先生は反論を始める。
客観に重きを置けとは言っていない。すべての詩歌は感情をもとにする。感情をもととせず、理屈をもとにしてしまえば、それはもはや文学ではないだろう。言ってしまえば、それは辞書や説明書みたいなものになるのだろう。主観の中にも、感情と理屈があり、先生が気にかけるのは、理屈をこねてしまう部分である。和歌や俳句など文字数が限られるものは、どうしても主観からよりは客観の語が多くなる。そういう意味では、客観に重きを置くと言っても差支えはないと言う。

なるほど。和歌も俳句も基本的には、情景に感情を重ねるものだと思う。その感情は景色を見れば、自ずと伝わるものだから、情景を語ることを大切にするといいのだろう。そして、感情を語ろうとすればするほど、また理屈っぽくなってしまうのかもしれない。


生は和歌につきても旧思想を破壊して新思想を注文するの考にて、したがって用語は雅語、俗語、漢語、洋語、必要次第用うるつもりに候。

この腐敗と申すは趣向の変化せざるが原因にて、また趣向の変化せざるは用語の少きが原因と被存候。ゆえに趣向の変化を望まば是非とも用語の区域を広くせざるべからず、用語多くなれば従って趣向も変化可致候。ある人が生を目して和歌の区域を狭くする者と申し候は誤解にて、少しにても広くするが生の目的に御座候。とはいえいかに区域を広くするとも非文学的思想は容れ申さず、非文学的思想とは理屈のことにこれ有り候。

外国の語も用いよ外国に行わるる文学思想も取れよと申すことにつきて日本文学を破壊するものと思惟する人もこれ有りげに候えども、それはすでに根本において誤り居候。たとい漢語の詩を作るとも洋語の詩を作るとも、はたサンスクリットの詩を作るとも日本人が作りたる上は日本の文学に相違これ無く候。

愚考は古人のいうた通りに言わんとするにてもなく、しきたりに倣わんとするにてもなくただ自己が美と感じたる趣味をなるべく善く分るように現すが本来の主意に御座候。ゆえに俗語を用いたる方その美感を現すに適せりと思わば雅語を捨てて俗語を用い可申、また古来のしきたりの通りに詠むこともこれ有り候えど、それはしきたりなるがゆえにそれを守りたるにてはこれ無く、その方が美感を現すに適せるがためにこれを用いたるまでに候。

和歌を詠むにあたって、積極的にあたらしい言葉は使っていくべきだと先生は言っている。和歌が腐敗してしまったのは、革新されてこなかったためで、その使われる用語の少なさが原因だということだ。
先生はたびたび和歌に文句をつけているが、それは和歌の幅を狭めようとしているのではなく、広げるためなのである。とは言っても、非文学的思想は入れないのである。それは散々と言ってきたが、理屈のことである。
今の時代に詠まれる現代短歌は、相当に幅が広げられたように思う。英語やカタカナ語が使われるのは当たり前だし、句読点や空白、記号や絵文字のようなものまで使われるようになった。そこにあらゆる自由さを込められるところに短歌の美点がある。ただ、器用さや目新しさだけに注力して、理屈をこまねくようなことだけは避けたいものである。


 縁語を多く用うるは和歌の弊なり、縁語も場合によりては善けれど普通には縁語かけ合せなどあればそれがために歌の趣を損ずるものに候。よし言いおおせたりとてこの種の美は美の中の下等なるものと存候。むやみに縁語を入れたがる歌よみはむやみに地口駄洒落を並べたがる半可通と同じく御当人は大得意なれども側より見れば品の悪きこと夥しく候。縁語に巧を弄せんよりは真率に言いながしたるがよほど上品に相見え申候。

縁語を使うのはあまりよくないらしい。縁語とは、掛詞とか連想させる言葉のことである。縁語が使われているのを詠むと、その着想の面白さと発見の驚きもあるが、駄洒落と言ってしまえば、確かに駄洒落である。最初に詠むときは目新しくていいけれど、何度も詠むとすると、その新鮮さは失われてしまうのかなと思うでもない。先生はこれでは下品なので、縁語をうまく使うよりかは、直接に表す方が上品なのだと教えてくれる。


 新奇なる事を詠めといふと、汽車、鉄道などいふいはゆる文明の器械を持ち出す人あれど大いに量見が間違ひをり候。文明の器械は多く不風流なる者にて歌に入りがたく候へども、もしこれを詠まんとならば他に趣味ある者を配合するの外これ無く候。それを何の配合物もなく「レールの上に風が吹く」などとやられては殺風景の極に候。せめてはレールの傍にすみれが咲いてゐるとか、または汽車の過ぎた後でけしが散るとか、すすきがそよぐとか言ふやうに、他物を配合すればいくらか見よくなるべく候。また殺風景なる者は遠望する方よろしく候。菜の花の向ふに汽車が見ゆるとか、夏草の野末を汽車が走るとかするが如きも、殺風景を消す一手段かと存候。

現代的なものを歌に入れる時、殺風景になってしまいがちなのである。まず、見ている景色が殺風景なのであるからそうであろう。その場合には、傍に風流なものを置く、もしくは引いて情景を見てみるといいようだ。たしかに、目の前に汽車を見ていると、文明的だけれど、遠目に景色の中に汽車を入れてみると、それはまた絵になる。


〇終わりに

正岡子規は俳句の人と思っていたけど、そっちが専門だろうけど、和歌にもこれだけ熱量を持っていたのかとは驚いた。
文学への熱は俳句にも和歌にも小説にも通づる所があるのだろう。

短歌を作れるようになりたいなと思って読み始めてみた。
おかげで短歌の詠み方というか、気を付けるべきことを知ることができた。ただ、こんなに斬られるのなら、今後簡単には短歌を詠めないなとも思ってしまう。が、それは逆にどう詠んだところで、どうせ斬られるのだから、開き直って詠みたいように詠めばいいということのようにも思う。

和歌に想いを馳せたいと思う。自分の言葉で想いを綴りたいと思う。

万葉から脈々と継がれる和歌の葉脈を感じつつ、ここに小さくも花を咲かせてみたいかなというくらいには、和歌への情熱が芽生えている。



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