〇今日の読書
『歌よみに与ふる書』 - 正岡子規
〇なぜ読むのか?
正岡子規の和歌について語るーというよりも斬るという風体かもしれないがーものを見つけた。歌よみに向けての指南書とでも言えるだろうか。
短歌好きとしては、子規先生から声をもらえるなんて、こんな喜びはないだろう。歌よみを目指すべく読んでみることにした。
青空文庫にあるので、ぜひ読んでほしい。
〇気に入った箇所
ここから始まるのだが、明治において既に和歌は廃れていて、『万葉集』から始まる和歌の文化は、鎌倉の頃に『金槐和歌集』を残した源実朝以来、まったく盛り上がっていないらしい。しかし、先生の実朝への評価は高く、とにかく第一流の歌人と推している。
歌詠みほどのんきな者はいないらしい。たしかにそうと思う。そして、歌詠みから言わせると、和歌ほどいいものはないという。たしかにそれもそうと思う。
和歌は世界を表現できる。和歌は自分を表現できる。和歌の調べに乗せると自然と美しさが漂う。そしてそこには文化の根底も感じ得る。それだけで和歌はいいものだと思うものである。他のなお善いものを知らないだけと言われれば、それはそうなのだけれども。
先生による和歌の添削講座
なるほど。理屈をこねると和歌の美しさをじゃましてしまうのか。
下の句を訳すと、私のためだけの秋じゃないのだけどね、だろうか。これだと分かり切ったことをわざわざ述べるなということになるのだろうか。せめて、私だけの秋なのよ、くらい言い切った方が、歯切れよく、むしろ感傷に浸れるのかもしれない。
これはさらに辛辣に斬られる。先生は嘘がきらいらしい。嘘なら嘘でもっと空想を膨らませてみろと言うところらしい。確かに、和歌を詠んで情景が浮かばないことには趣を感じようもない。とは言っても、古典を読もうとすると、現代とは文化背景が既に違っているから、想いを馳せるより他ないとも思いはする。
「露の音」「月の匂」「風の色」など、風情がありそうにも思うけれども、確かに言われてみれば、なんだそれとは言ってしまいたくなる。なるほど感性ならば、その感性に映るように届かせろということなのかもしれない。
今後の歌には再び現れぬようになんて言われてしまったので、ぱっと浮かんだ比喩表現はあらかた思い直さないといけなくなりそうだ。
先生による和歌の添削講座
次は、好きな歌を挙げる。
なるほど。必要な材料だけで充実していると言う。確かに一切の無駄が省かれていて、俳句的な印象を受ける。短歌をつくっていると、言葉を繋げる語を繕おうとすることがあるが、それは省けるものかもしれないということは考えてみるといいのだろう。
和歌の技術としては、上三句で切れる場合には尻が軽くなり、だれてしまいがちなので、それを補う術として、字余りを用いれるようだ。確かに上三句で完結している場合、その三句は俳句的な装いで、下二句を続けるのが蛇足に感じることがある。下二句は、八代竜王と八文字で字余りなのだけれど、その勢いのまま畳みかけられるということだろうか。雨やめ、たまへ、で結ぶところは、四三の調(二ニ三かな)ならではの不安定さが語勢を活かすらしい。ちなみに往々にして、三四の調で最後の句を締める方が落ち着きがいいらしい。
そして、この句の稚拙さ、シンプルさが、かえって作者の真心からの歌という、小手先で技術を用いて、理屈をこねるともいえるだろうか、つくられているわけではないということも感じられていいようだ。
やはり、西行の歌からは得るものが多いようだ。庵での寂しさを表す情景だろうが、その心情をはっきりとは語ってしまわず、語られた情景から心情を浮かべられるのがいいのだろう。
またもあれな、というのは、他にもいたらいいのになぁという嘆きというか願望を詠んでいる。先生の言う、「庵を並べむ」と「冬の」と置く斬新さを、まだ理解し得ていないのだけれど、そこに芭蕉は悟入したのだというからには、僕も理解し得る頃には和歌の悟りを開けるのかもしれない。
どうやら、客観的に読むことばかりが和歌ではないぞと読者より意見書をもらったらしい。ただ、それは誤解だと先生は反論を始める。
客観に重きを置けとは言っていない。すべての詩歌は感情をもとにする。感情をもととせず、理屈をもとにしてしまえば、それはもはや文学ではないだろう。言ってしまえば、それは辞書や説明書みたいなものになるのだろう。主観の中にも、感情と理屈があり、先生が気にかけるのは、理屈をこねてしまう部分である。和歌や俳句など文字数が限られるものは、どうしても主観からよりは客観の語が多くなる。そういう意味では、客観に重きを置くと言っても差支えはないと言う。
なるほど。和歌も俳句も基本的には、情景に感情を重ねるものだと思う。その感情は景色を見れば、自ずと伝わるものだから、情景を語ることを大切にするといいのだろう。そして、感情を語ろうとすればするほど、また理屈っぽくなってしまうのかもしれない。
和歌を詠むにあたって、積極的にあたらしい言葉は使っていくべきだと先生は言っている。和歌が腐敗してしまったのは、革新されてこなかったためで、その使われる用語の少なさが原因だということだ。
先生はたびたび和歌に文句をつけているが、それは和歌の幅を狭めようとしているのではなく、広げるためなのである。とは言っても、非文学的思想は入れないのである。それは散々と言ってきたが、理屈のことである。
今の時代に詠まれる現代短歌は、相当に幅が広げられたように思う。英語やカタカナ語が使われるのは当たり前だし、句読点や空白、記号や絵文字のようなものまで使われるようになった。そこにあらゆる自由さを込められるところに短歌の美点がある。ただ、器用さや目新しさだけに注力して、理屈をこまねくようなことだけは避けたいものである。
縁語を使うのはあまりよくないらしい。縁語とは、掛詞とか連想させる言葉のことである。縁語が使われているのを詠むと、その着想の面白さと発見の驚きもあるが、駄洒落と言ってしまえば、確かに駄洒落である。最初に詠むときは目新しくていいけれど、何度も詠むとすると、その新鮮さは失われてしまうのかなと思うでもない。先生はこれでは下品なので、縁語をうまく使うよりかは、直接に表す方が上品なのだと教えてくれる。
現代的なものを歌に入れる時、殺風景になってしまいがちなのである。まず、見ている景色が殺風景なのであるからそうであろう。その場合には、傍に風流なものを置く、もしくは引いて情景を見てみるといいようだ。たしかに、目の前に汽車を見ていると、文明的だけれど、遠目に景色の中に汽車を入れてみると、それはまた絵になる。
〇終わりに
正岡子規は俳句の人と思っていたけど、そっちが専門だろうけど、和歌にもこれだけ熱量を持っていたのかとは驚いた。
文学への熱は俳句にも和歌にも小説にも通づる所があるのだろう。
短歌を作れるようになりたいなと思って読み始めてみた。
おかげで短歌の詠み方というか、気を付けるべきことを知ることができた。ただ、こんなに斬られるのなら、今後簡単には短歌を詠めないなとも思ってしまう。が、それは逆にどう詠んだところで、どうせ斬られるのだから、開き直って詠みたいように詠めばいいということのようにも思う。
和歌に想いを馳せたいと思う。自分の言葉で想いを綴りたいと思う。
万葉から脈々と継がれる和歌の葉脈を感じつつ、ここに小さくも花を咲かせてみたいかなというくらいには、和歌への情熱が芽生えている。