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誰かの「当たり前」を更新し続ける人になりたいはあちゅう

松浦弥太郎さんの「伝わるちから」

の解説を書かせていただきました。

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●誰かの「当たり前」を更新し続ける人になりたいはあちゅう

疲れている時に、文字は体の中になかなか入ってきてくれない。毎日数冊ずつ本を読む活字中毒者の私でも精神的、あるいは肉体的に疲れきった状況では本が読めなくなるのだ。目で文字の並びは追えていても、メッセージが体の中に響いてこないし、小説なら登場人物の名前と設定が頭の中でごちゃごちゃになってストーリーを見失ってしまう。雑念が次から次へと浮かんで、本を「読む」ことは出来ず、ただ眺めているだけになってしまう。

本というのは消化するのに結構な集中力と体力が必要なメディアだと思う。読書は作者との対話、あるいは自分自身との対話と例えられることもあるけれど、人と真剣に向き合うには元気が必要だ。だから本と真剣に向き合おうとすると、頭と体が疲れていない時のほうがいい。

けれど、松浦さんの本は疲れている時でもスラスラと読めてしまう。そして、読んでいると言葉が驚くほど心の中に染みてくる。クタクタになって仕事から帰ってきた時だって、松浦さんの文章を体が欲する時がある。

そして、心の感じるままに読み進めると、松浦さんが文章に込めたメッセージは体に溶け込んでいくし、同時に文章に包まれていくような温かさを感じる。体の中のぽかんとあいていた部分に──しかも穴があいていたことに自分でも気づいていなかった部分に──スッキリとおさまって、何かを満たしてくれる。一言でまとめると、松浦さんの文章には人を癒す力があるのだ。その力は絶大で、マイナスをゼロにしてくれるのではなく、マイナスからプラスまで一気にもっていってくれるくらいの威力がある。

松浦さんの書くもので、漢字だらけでカクカクしたものを見たことがない。文章を読もうとせずに文字並びを、まるで絵を眺めるかのようにして見てみると、ひらがな、カタカナ、漢字がバランスよく並び、やわらかい印象を受ける。ところが、やわらかいものだと信じて読み進めていたら歯ごたえを感じたり、時にはカツンと芯のある部分にもあたるから面白い。アクセントがちゃんと効いているから、一冊を通して飽きることがないのだ。そして読後は、温かいお粥をお腹にいれた時のような満足感と幸福感がしばらく続く。

心が満たされると同時に、何かをやってみたくもなる。例えば、大事な人に手紙を書いたり、ノートを開いて一日を振り返ってみたり、シャツにアイロンをかけたり。特別なことではなく、日常の基本的なことを丁寧にやり直したくなる。それはつまり、松浦さんの本に、人間らしさを思い出させてくれる効果もあるということだろう。

私と松浦さんの出会いは何年も前にさかのぼる。とはいっても、まだ実際にご本人にお会いしたことはない。会いたいとはいつも思っているけれど、無理に会うこともないとお互いにわかっていて、距離がじわじわと近づくのを楽しんでいるような感じだ。こんなことを言ったら厚かましいかもしれないし、そんな風に思っているのは私だけかもしれないけれど、松浦さんご本人とは必要な時に絶対に会えるという安心感が、なぜかある。

だから私はこの本の多くの読者さんと同じように、松浦さんとは「作家」と「読者」という関係で、それ以上になったことはないのだ。読者の皆さんと一つだけ違うのは、松浦さんも私の本を読んでくれているということだ。読むだけではなくて、書評を書いてくださったこともあって、それは私の人生で「書いていく」ことに向き合う時にいつも大きな励みになっている。だけど、やっぱりお互いに「作家」「読者」以上の存在には、まだなっていないから、この関係を不思議にも思う。

会ったこともない松浦さんの姿を私は細かくイメージ出来る。きっとなめらかで厚みのある手をしているんだろうな、とか、パリっとしたシャツを着ていて、いつも清潔なハンカチを持っているんだろうな、とか。もしかして、実際に会ったら想像とはまるで違うのかもしれないけれど、私の頭の中ではもう松浦さんは出来上がっているので、実際に会う時は実物の松浦さんをまっすぐに見るのではなくて、頭の中ですでに出来ていたイメージと実物とを照らし合わせての答え合わせの時間になると思う。

こんな不思議な関係は、「本」以外では成り立たない。本にはそうやって、作者をすごく近くて親しい人に思わせてくれる効果があると思う。好きな本の作者に対しては、私の理解者だ、という気持ちになってくるし、すでに親しくて心が通じ合っているような感覚さえ持ってしまう。

松浦さんが描く、松浦さんの人生に登場したあらゆる人物に対してまで、私は勝手に親密さを感じている。松浦さんが本の中で書いている体験が、まるで自分の体験のように思ってしまうこともある。

そんな風に思えるのは全て松浦さんの魔法のような文章のおかげだ。  こう言ったら失礼に聞こえてしまうかもしれないけれど、松浦さんの本の中には、すごく変わったことは出てこない。変わったことというのは、例えば、アメリカの映画のように、いきなり爆弾が爆発したり、誰かが誘拐されたり、銃でばんばん撃ったりするような、実際に見たことがない刺激物は出てこない、という意味だ。扱われている題材はいつも身近で自分の日常にも起こりうること。それなのに、どんどん読みたくなる。松浦さんはささいなことの中に特別を見つける天才だ。日常から丁寧に掘り起こされたエピソードを読んでいると、普通に思える人たちも実は一人一人特別で、生きていたら同じ一日は一度だってないという、当たり前だけど大事なことを思い出す。ひるがえって、普通に思える自分の人生に、見落としている「特別」はないだろうか、と考えさせられる。

一体どうしたら松浦さんのような文章が書けるのだろう。  僭越ながら同じ「書くこと」を仕事にしている者として、松浦さんの魔法のような文章の作り方にはとても興味がある。けれど、この本を読んで少しだけ、そのレシピが分かった気がする。

「料理で覚えるべきことは、技や知識ではなく、愛情の表現です」(「人の『気』を見る」17ページ)という料理家のウー・ウェンさんの言葉は、そのまま松浦さんの文章にも当てはまる法則なんじゃないだろうか。  本書の冒頭でも、松浦さんは文章を書く際に心がけていることとして、「大切な人を思い浮かべて手紙を書くように。大好きな人にラブレターを書くように」(「はじめに」4ページ)と書いている。そして、

手紙の目的とは、相手に喜んでもらうこと。嬉しくなってもらうこと。返事を書きやすいように。正直に、親切に。そして最後に、あたまをできるだけ働かせず、こころをたっぷりと働かせること

とも。  私が持った疑問への答えまで、松浦さんは全部本の中に書いてくれていた。どこまで親切なんだろう。頭ではなく心を働かせて書くことが、心に届く文章を書くための一番のコツ。それは基本的で、昔から知っているはずのことであっても、実際にやってみようとすると、とても難しい。おまけに、繰り返し繰り返し、自分に言い聞かせていなければ、忘れてしまう。

ところで、私がネットなどでうんざりしてしまう本の感想は「当たり前のことが書かれている」というけなし方だ。以前、とある本のレビュー欄で見つけた言葉だけれど、本を扱うにあたって、こんなに浅はかなレビューはないと思う。なぜならほとんどの本というのは当たり前のことをどう伝えるかで成り立っているからだ。この世の真理というのは限られていて、求道者はみんな似たような考え方にたどり着く。だからこそ、ある意味当たり前である真理をどんな風に伝えられるかというのが作家の腕の見せ所だし、繰り返し繰り返し、「当たり前だけど忘れがち」なことに、ご自身のエピソードを添えて、新鮮な角度で私たちに伝え続けてくれる松浦さんの力量たるや、端倪すべからざるものがある。  

私も、誰かの当たり前を更新し続けられる文章を書いていきたい。

(はあちゅう/ブロガー・作家)

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松浦弥太郎「伝わるちから」
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●これまでに書いた解説は、noteで無料公開中です。

・川内有緒さんの「パリの国連で、夢を食う。」解説

夢を叶えた先にあるもの
https://note.mu/ha_chu/n/n3a3e670b87be

・桂 望実 さんの「ハタラクオトメ」解説

「会社」には一体何があるのだろうか
https://note.mu/ha_chu/n/n19809bdfd043

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