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ルワンダに起こった悲劇と奇跡



「高い木を切れ」

この合言葉から虐殺が始まる。

30年前、アフリカのルワンダで起こった悲劇。わずか100日間で、100万人もの命が奪われた。だが、「100」という数字の背後には、抽象化された一人ひとりの命、一人ひとりの物語がある。それを、私は実際に現地を訪れたからこそ強く感じた。

そこで見聞きしたこと、感じたことは、言葉にするのも憚られるほどの凄惨なものであり、この1年間、筆を執ることをためらってきた。
しかし、最近ルワンダ虐殺を題材にした映画を観る機会があり、現地を訪れた日本人として、この出来事を伝える責務を感じた。そのため、今回、この文章を執筆することを決意した。

ルワンダ虐殺という歴史的事実を知らない人には、この事実を知る義務がある。そして、すでに知っている人には、私が現地で感じた感情を共有し、共に考えていただけたら幸いだ。


ルワンダ虐殺という悲劇。その時、そこで何が起こったのか


ルワンダ虐殺は、長年の民族間の対立と外部からの干渉が複雑に絡み合って生まれた悲劇だ。ルワンダには、フツ族とツチ族という二つの主要な民族が存在していた。もともと彼らは同じ言語を話し、同じ土地で共存していたが、ベルギーの植民地支配が彼らの関係を大きく変えた。

ベルギー当局は、ツチ族を「優れた人種」として優遇し、フツ族を支配される側に位置づけた。1933年には民族を区別するための身分証が導入され、この時から両者の間に深い溝が生まれた。この不平等な扱いにより、フツ族の間に長年の不満が蓄積し、独立後にはツチ族への報復が始まった。

民族を示す身分証明書。※今は使われていない

1994年4月6日、大統領ジュベナール・ハビャリマナが乗る飛行機が撃墜されたことで緊張が一気に爆発し、フツ族の過激派によるツチ族に対する大量虐殺が開始された。
ツチの人々は「ニェンジ(=ゴキブリ)」と呼ばれ、隣人からナタで襲われ、時にHIVを意図的に感染させられることもあった。
結果、わずか100日間で100万人の命が奪われるという未曾有の悲劇を、この小国にもたらした。

オーナーが命懸けで、1000人以上の避難民を匿った有名なホテル

現地で見た傷跡


私は、その悲劇を学ぶため、ルワンダ各地に点在する約20箇所の記念碑を訪れた。中でもムランビの記念碑は、忘れることができない場所だ。鼻を突くような匂い、山のように積まれた誰のものかも分からない遺骨、ボロボロになった小さな服。すべてが、当時の惨劇を物語っていた。


涙ながらに案内をしてくれた女性には、心から感謝している。彼女は、両親をこの虐殺で失った当事者であり、最もここに居たくない人の1人であるはずだ。しかし彼女は、「ここで起こった悲劇を伝えたいという一心で、この記念碑の管理に携わっている」と真っ直ぐ自分の目を見て語ってくれた。彼女の言葉に、私は多くの言葉は返せなかった。

記念館には被害者の遺骨や衣服が無造作に残っている

ルワンダの奇跡、そして美しきルワンダ


しかし、ルワンダの歴史は負の遺産だけでは終わらない。ルワンダは今や「奇跡の国」と呼ばれている。破壊し尽くされた国は、たった数十年で復興し、女性の社会進出が進み、インフラも整備された。国民が一致団結し、どん底から奇跡の復興を遂げた。

特に注目すべきは「ガチャチャ」と呼ばれる伝統的な裁判だ。地域共同体で被害者が加害者を裁き、彼らは隣人を許し合い、新たな一歩を共に歩み始めた。
それ故かはわからないが、私が訪れたアフリカ11カ国の中では、最も差別を感じなかった国がルワンダだった。この地では、悲劇が遺恨として残りつつも、人々が立ち直り、美しい未来を築くための希望が見えた。それが、現代の私が見たルワンダの姿だ。

首都キガリでは、高いビルや綺麗な道も整い始めている。



虐殺を止められなかった、あるいは止めなかった国連。
人は、友人だった隣人を殺し、またその相手を許すことができる。
しかし、その当事者はサイコパスな殺人鬼でもなければ、マザーテレサのような聖人でもない。普通の人々が起こした惨劇と奇跡である。これは、構造的な問題であり私たち全てに再現し得る現実である。
次の当事者はあなたかもしれない。だから私たちは歴史を、学ぶのだ。


そのための一歩として、以下の作品を手に取ってほしい。
- 『ホテルルワンダ』
- 『平和の木々』
- 『ルワンダの涙』


「高い木」は、斬り尽くされることなく、今は平和の木としてルワンダに希望を与えている。私たち若い世代は、この平和の木を次の世代のために育て、守り続ける必要がある。

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