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『という』ということ

SWITCH WHICH


 鏡というのは、私、子どものときからそれをみるのが好きで、それはべつに自分の顔に惚れ込んで(笑)ーギリシャ神話に出てくるナルシスみたいにーというわけではございません。ただその…

鏡の中の物理学 朝永振一郎 「はじめに」より


 書籍や記事は『文章』を書きます。子供でも理解しやすく、あまり頭を使わなくてもいい文章から、科学や哲学など、専門知識が必要な難解な文章まで、書く人によっていろんな表現方法で書かれています。
 『どんな文章を書くのか』は、書く人の経験や知識・性格などによる『主観的』なところが大きいのですが、『どんな人に向けて書くのか』は、読む人に合わせる必要があるので『客観的』なところも必要になります。これらのバランスの良い文章が理想ですが、そのバランスを取るのが難しいところです。

 いろんな書籍を読んでいると、『〜という・・・』という表現を見ることがあります。冒頭の文章は日本物理学界の重鎮、朝永振一郎さんの『鏡の中の物理学』からの引用ですが、理系の人が書く文章には『〜という・・・』という表現が頻出するように思います。まぁ私が単に偏った読書をしているだけなのかもしれませんが、例えば数学は『具体像の抽象化』をする学問ですので、うなずける部分もあると思います。

 そこで、ふと「どんなときにこの表現をしてるのかな〜」と思い、気がついたときに意識して読んでみたのですが、3つの意味に分けることができると思いました。

 A… 具体 ⇄ 抽象(『基本』と『応用』)
 B… 部分 ⇄ 全体(『ミクロ』と『マクロ』)
 C… 主観 ⇄ 客観(『私』と『公』)

 この3つです。
 私は言葉や文法の専門家ではありませんし、なんなら学生時代、一番苦手な教科は『国語』で、嫌いな宿題は『読書感想文』でした。ですので、A 〜 C は、自分が本を読んでいて「書く人は、こんなときに『という』という表現を使ってるな〜」と思ったことです。『文法的にはこういう意味ですよ』と言いたいわけではありません。

 上記の3つはどれも【視点の切り替え】ですね。視点を切り替えることで、物事をより深く正確に理解する、あるいは、読んでいる人により正しく伝えることができるようになります。

 3つのうち、どの切り替えをどんなときに使うのかは書きたい内容によりますし書き手の性格もありますので、人それぞれでいいと思いますが、大事なことは視点の切り替えを『している』ことだと思います。慣れた人からすればあまりにも自然にやっていることですので、『自分は視点の切り替えをしている』と自覚していない方も多いのではないでしょうか。

 少し話は逸れますが、人間の『脳神経』は最初から全てつながっているわけではありません。成長に伴い、知識や経験が増えていく中で少しずつつながっていきます。ですので、どこかがつながっていない人がいるのは自然なことです。全てつながるためには、それこそこの世で起きるあらゆる出来事を経験しなくてはなりませんので、物理的に不可能です。その不足を補うためにも『読書』をオススメします。当事者(著者)には遠く及びませんが、それでもほんのわずかな経験になると思います。
 単純に『人の話を聞く』でもかまいません。相手の話を聞くことで、自分とは違う脳のつながり(価値観)を知ることができますから、自分の成長になると思いますよ。

 そして、つながっている部分とつながっていない部分があるから、『個性』になり多種多様な価値観が生まれていくのでしょう。

 脳の2つの部分がつながっていることを表すものとして、有名なのは【共感覚】ですね。例をあげると『ドレミの音を聴いたときに、色が見える』ことです。ある実験では、【音と色】の共感覚を持つ人たちを調べた結果、おおよそ《虹色》の配列と一致するそうです。ドは赤、ミは緑、ソは青…などです。
 ただ、これは『おおよそ』なので、一致しない人たちも多くいます。あくまでアベレージを取ると《虹色》の配列の傾向が見えてくるだけです。ちなみに私は、ミはオレンジに、ラは朱色に見えますね。あ、いや、聴こえます…いや、見え…聴….つまりそういうことです。(ソクラテス)
 共感覚は、【音と色】の組み合わせだけではなく、【数字と色】だったり、【文字と音】だったりさまざまなタイプがあるそうですよ。脳のどことどこがつながっているのかは、人によって全然違うことが分かりますね。

 話を元に戻しますが、【視点の切り替え】をするときに脳の『つながり』が必要になってきます。つながっていなければ切り替えることなどできませんので、切り替えるときには必ず『つながり』を使っています。

 そして、『つながり』は〔未完成でも発現することがある〕のです。

 完全につながっていなくてもいいのですよ。完全にはつながっていないのですから、発現するものも完全ではありません。経験があると思いますが、「どう言ったらいいのか分からない」「うまい例えが出てこない」などです。
 これらは『その方向には向かっている(つながっている)んだけど、ピンポイントではどこか分からない状態』と言いますか、『トンネルがちゃんと抜けていない状態』と言いますか…。(←こういうのもそうですね)

 んで、こっから本題なんですが、『〜という・・・』という表現を使っている人は、脳の『どこかとどこかをつなげようとしている途中段階』かもしれないのです。つまり、《成長途中・発達段階》なんですね。
 成長途中ですので、もちろんうまくできなくて当然です。いきなり陸上選手並みの走り方をする赤ちゃんがいないのと同じですね。

 ここまでで言いたいことは、『〜という・・・』という表現を使う人がいたら、どんな【視点の切り替え】をしようとしているのか、切り替えによって脳のどことどこをつなげようとしているのか、もし導けることであればうまく導いてあげてください。ということです。

 身体は20歳くらいで成人になりますが、脳が成人になるのは30歳だと言っている学者もいます。30歳を越えても環境によって、脳は成長し続けるみたいです。つまり、20代の若者は、身体こそ成人になっていますが、脳はまだまだ成長途中なのです。
 30歳で脳が成人になるのであれば、20歳の人は単純に身体と比べて2/3の成長しかしていません。半分をちょっと過ぎたくらいですね。身体の年齢に換算するなら13~14歳(中学生)です。中学生ならば、そりゃミスだらけになると思いますし、うまく【視点の切り替え】ができなくても仕方ありませんね。

 大人には分からないような、意外な脳のつながりを持つ、つなげようとしている子どもたちがいますので、うまく導いてあげてください。



おわりに


 今まで、関東エリア最下位レベルの売上の店を『2位』にしたり、『前年比月間売上110%』や『過去最高売上』など、いわゆる『成果を上げる』ことはある程度経験してきました。まぁ「自分がやった」のか、「たまたまそのときそこにいただけ」なのかは賛否あると思いますし、そもそも成果は自分一人で上げるようなものではありません。周りの人たちの助力があってはじめて、なせることです。

 私が動くときは誰にも何も言うことなく勝手にやり始めるので、「何をしたのか分からない」人たちもたくさんいたでしょう。何をしてきたのかは、他の記事に書いていますので時間のある方は読んでみてください。

 会社にとって『成果を上げる』ことは大事なことです。そこを抜かしてはどこにも進めません。ただ、誤解を恐れずに言うと、私にとって成果はただの『副産物』に過ぎません。主たる目的ではないんですね。まぁだからダメなんでしょうが..笑
 成果を気にしていないわけではないんですよ。ただ、そこに意識がいき過ぎてしまうと、売り上げさえ上がれば他のことはどうでもいいなんて考え方をしてしまいがちです。人は『複数のことを同時に見る』ことは、なかなかできませんから。

 では、何を目的としているのか? それは『人の成長』です。中でも『若者(20代)』の成長を目的としています。ここで成果と成長を、2つの視点から見てみましょう。

 x… 成果が上がるから、人が成長する(原因→成果、結果→成長)
 y… 人が成長するから、成果が上がる(原因→成長、結果→成果)

 原因と結果が『逆転』していますね。【視点の切り替え】です。どちらが良いか悪いか、どちらが優れているか劣っているかという話がしたいわけではなく、どちらの視点からも見れるようになることが大切だと言いたいのです。

 そして私はxよりも、yの視点を好みます。もちろん、xから見ている人もいるでしょうが、私が、xの視点が好きではない理由は、正確な数字は忘れましたが、若い頃に「1日で数千万の売り上げを上げた」と喜ぶようなところにいたのですが、内容は『ぐちゃぐちゃ』だったからです。いやもう、ホントに『ぐちゃぐちゃ』でしたね。まったく人が育っていない。私が辞めた数年後、その店は潰れました。

 思うに、xの視点が有効なのは、自信のない人に『自信をつけさせる』ことや『短期的な売り上げ』を求める場合にのみ、効果があるのかもしれません。しかし、短期の売り上げは『人材の使い捨て』にもつながるので、やはり好きではありません。

 中長期の安定した売り上げを上げるためには、『人の成長』が必須です。乱暴な言い方になりますが、人が成長すれば成果なんざ勝手に上がると考えています。決して成果を軽んじているわけではなく、成果を上げるのは『人』ですので、その『人』を成長させることがなにより優先すべき課題だと考えているのです。土台ができていないところには何も建てられませんから。

 α… 鏡というのは、私、子どものときからそれを〜
 β… 鏡は、私、子どものときからそれを〜

 さて、朝永振一郎さんの文章はαです。『という』を入れないとβになります。βの形でも良さそうなのに、『という』を入れてαにすると、【客観】の色合いが強くなりますね。βだと【主観】に寄ってしまいます。
 《自分が知っている鏡》ではなく、《誰もが知っている鏡》になります。英語で表すなら『The mirror』と『A mirror』の違いでしょうか。TheよりもAの方が、より“一般的”な印象を与えますね。主観と客観の【視点の切り替え】です。

 自分では気づかない【視点の切り替え】を、知らず知らずのうちにしているかもしれません。そしてそのとき、脳の2つの部分がつながっていることを思い出してください。



ではではまた〜。
エンディングはこちら🎵 Da Alley · Hiram Bullock


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