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Dragonfly

〜はじめに〜

 なにかを”考える”ときは、
 A. 全体を細かく分けて、部分を注視して考える
 ∀. 部分を集め合わせて、全体を俯瞰して考える
 この2つの方法があります。それぞれを科学/学問 = 知の世界では、
 🌳 微分思考… 素粒子理論
 ⛰ 積分思考… 複雑系
と、できます。次にこれを”行う”とき、身体を使った行動/実践 = 行の世界で言い換えてみると、
 絵画/映画の鑑賞・学問の研究 ...視覚だけ使う👁
 楽器の演奏・調理/建築の作業 ...五感すべてを使う👫
と、なります。まとめてみると、

👁 視覚だけ… 微分思考… 部分注視 A… 知 🌳
👫 五感すべて… 積分思考… 全体俯瞰 ∀… 行 ⛰

 図にすると、

です。
 現代の科学 = 知の探究は”微分思考”の方を重点的にやってきました。対象のものを細かく分けて、1つ1つを正確に解明していくことをやってきたのです。だから”積分思考”の方、つまり全体俯瞰の視点がいまいち発達していないことになります。
 これは「五感を使っていない」ことになるのですが、これがまさに現代の欠点なのです。学問で積分思考をしないことは、五感を使わないことと同義… であれば、五感すべてを使うことは積分思考をすることと同義 と、言うことができますね。

 👫 五感すべてを使う = 積分思考 ⛰

 それでは、積分思考を練習していきましょう。






【確率 probability】
偶然起こる現象に対する頻度のこと。
どのような現象でも確率を持つとはいえない。

Kim Waters - You Are Not Alone


 あなたたちはぬくぬくとした部屋で資料を読み漁り、頭の中でしか人間を知ろうとしていない。それでは本当の『生』の理解には辿り着かない。研究室を飛び出し、人間にまみれてこそ研究を深めるべきだ。                 〜若手の人類学者たち〜

『はじめての人類学』 奥野克巳


実存と真理

3枚のコイン

 人は様々なことを取り違えます。よくあるのは、相手のことを言っているつもりで、実は自分のことを言っていたりです。自分と他人、主観と客観を取り違えることはあります。他にも、哲学者のホワイトヘッドは具体と抽象を取り違えること、ニーチェは原因と結果を取り違えることを指摘しています。

 これらを”色”で表すために、光と色の三原色を2つとも使うと、たとえば赤の反対の色は青ではなくシアンになります。”真反対の色”ってことです。

 同様に考えると、緑の反対はマゼンダで、青の反対はイエローとなります。
 🟥 赤 ↔︎ シアン 🐬
 🟩 緑 ↔︎ マゼンダ 🍇
 🟦 青 ↔︎ イエロー 🌙
ですね。
 これを主観と客観、具体と抽象、原因と結果の”取り違え”に当てはめると、

 このようになります。
 次に、これらを”3枚のコイン”に見たてて、表と裏の出方を考えると2の3乗で8通りの出方になりますね。ちなみにこれって、数学の『確率』の分野では”順列”と”組み合わせ”のどっちになりましたっけ? どっちがどっちか忘れちゃったんですよね。まぁそれはともかく、やってみると、

と、おもしろいことに”正”は1/8しかないことになり、7/8は”誤”、実に90%弱が間違いなのです。
「それを間違うのはバカな奴だけだ」
なんて声も聞こえてきそうですが、本当に間違えるのはバカな奴”だけ”でしょうか。というのも、ホワイトヘッドやニーチェが言っているってことは、二人の周りにいる人が具体/抽象・原因/結果を取り違えるから、そう言っている… と推察できますね。二人とも偉大な哲学者でありバカではないことは誰もが知っているでしょう。そんな二人の周りにいる人たちも、当然バカではありません。それなのに二人は、
「人は具体/抽象・原因/結果を取り違える」
と言っているのです。

 であれば、常人である一般人がこれらを取り違えていてもなんら不思議ではありません。見ての通り”正”の確率が低すぎるので、どれか1つはいつも間違っているなんてことも考えられますね。自分では現実を正確に捉えているつもりでも、実際には間違っているのです。
 解剖学者の養老孟司さんが著書の中で「自分が正しいと思っても、50%だと考えておくべきだ」という主旨のことを述べていたのは、このことだったのではないかと考えます。

 繰り返しますが、3つとも正しい確率があまりにも低すぎるのですよ。だから、どれかは抜けていると考えておく方がいいのです。もしかしたら公務員試験やSPIテストなんかは、こういうことを前提に作られているのかもしれませんね。

 2つの試験の欠点は”知”については測れるのですが、”行”については測れないことです。現場において、実践をやったことがない人が考えたものはまったく役に立たないことがあるのは、知について正解しているだけであって、行については不正解だからです。さらに、そのことを教えようとしても聞かない、あるいは遮断されていてはどうにもできませんよね。

 私の経験上、世の中には3枚のコインを取り違えている人がいます。(←自分も含め)
 発達障害やグレーゾーン、人格障害の人などは特にその傾向が強いかもしれません。どうにか症状を改善・緩和したいのですが、専門医でないとそれはできませんし、専門医にかかるのにも費用が要ります。

 ただの思いつきですが、スマホの『アプリゲーム』で練習ができたらいいかもと考えました。厚労省・文科省、あるいは自治体が作るのです。簡単にスマホに入れられて、ゲームとして遊んでいるだけで、症状が改善・緩和されていく… もうありますかね? 調べていませんけど、あったらいいな〜と思います。確かコロナ禍のときに『COCOA』というアプリがあったので、作るだけなら比較的簡単なのかもしれませんから。
「どんなゲームに?」
と突っ込まれても答えられないので、突っ込まないように。

… まぁ… 3枚のコインを〜… 6つの色を使って〜… 時系列を〜… などなどです。クワッ!(←何も作ってない)

 ちなみに『3枚のコイン』は当初、抽象代数の『クラインの四元群』をモチーフにしようと考えたのですが、作っていくうちに「コインの方が判りやすいよな〜」と思ったので、こうしました。集合論で言うなら、
 主観と客観 = 対偶
 具体と抽象 = 裏
 原因と結果 = 逆
とかですかね〜、多分。

 さて、
🟥 主観と客観 🐬
 b. 自分がバカ
 d. 他人がバカ
🟩 具体と抽象 🍇
 a. 人間なら、猿である
 e. 猿なら、人間である
🟦 原因と結果 🌙
 p. 嘘をつくから、叱られる
 q. 叱られるから、嘘をつく

『現実』に起こっていることを、見極めてください。

記号と変換

(参考サイト:
https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=63317?site=nli)

 ”記号”は意味を持つことで実体と結びつきます。日本語のひらがなや英語のアルファベットは、それ単体では意味を成しません。「あ」と言われても何のことか判りませんし、「A」と言われても何のことか判りません。だから単体のままではただの”記号”なのです。その記号同士をくっつけて意味のある言葉とすることで、実体と結びつきます。たとえば『🔥』← これを表そうとしたら、
 🇯🇵 … ほのお(炎)
 🇺🇸 … FIRE
と、なります。
 このとき、違う記号を使っているのに意味は同じことが大事なのです。ひらがな/漢字とアルファベットは違う記号です。それなのに同じ意味になるのです。『💧』← これなら、
 🇯🇵 … みず(水)
 🇺🇸 … WATER
と、違う記号が同じ意味を表すのです。

 さてここで、この考え方をもっと広げてみました。
 数学の『集合論』は、様々な”記号”を使っています。基本的なものを示すと、
【⊂ ⊃】
 A⊂B... AはBに含まれる。AはBの部分集合である。
 A⊃B... AはBを含む。AはBを部分集合として含む。
【∩ ∪】
 A∩B... AとBの共通集合(又は積集合)
 A∪B... AとBの合併集合(又は和集合)
【∅】
 ∅ 空集合(集合を構成する要素がない)
などです。

 記号の種類が多くて覚えるだけでも大変ですが、この記号を”漢字”に変換してみます。
 ⊂ = ← AはBの部
 
⊃ = ← AはBを
 ∩ = ← AとBの通集合
 ∪ = ← AとBの併集合
(∅ = 空)
 そうすると『A⊂B』の表記は『A分B』となりますね。同じように他のものも変えていくと、
 A⊂B → A分B
 
A⊃B → A含B
 
A∩B → A共B
 
A∪B → A合B
と、表記できます。さらにA/Bも変えて、
 A = 阿
 B = 吽
とするなら、
 A分B → 阿分吽
 
A含B → 阿含吽
 
A共B → 阿共吽
 
A合B → 阿合吽
です。
 ここまでくると『漢文』のようなものになりましたね。

 集合論の”記号”は慣れないと複雑に見えるけど、”記号”を漢字に変換するとちょっと簡単に感じませんか? さらに、アルファベットまで漢字にすると、ほとんど『漢文』のように見えますね。漢字にすると簡単に感じるのは意味が判るからです。
 集合論の「⊃」などの記号を覚える場合、
 1. 記号を覚える
 2. 記号の意味を覚える
と、覚えなくてはいけないことが2つあります。しかし、漢字はすでに覚えていて意味も判るので、覚える段階を飛ばすことができるのですよ。だから簡単に感じるのです。
 集合論では”図”が出てきますので、
A⊂B → A分B → 阿分吽
A⊃B → A含B → 阿含吽
 この2つを表すと、

 こんな感じになりますね。
 さらに、集合論でよくある”全体集合U”や”部分集合A”は、
 U = 全
 A = 此
と、することで、

 このようにできますね。
 右にある『U – A = ...』は、”全”から”此”を引いた残りの部分だけを表すものです。『A』の上に『ー』があるように、『此』の上に『ー』をつけています。集合論を変換した場合は、こういう付け足しもありです。だいたい、漢文についている”ド点”だか”レ点”だか”ミ点”だかも、日本人が読みやすいように後から付け足したものですからね。当時の日本人が、
「そのままだと読みにくいから、読みやすいように変えてやろう!」
と考えて作られたのですよ。
 だったら集合論も日本人が読みやすいように変えればいいのです。現代の日本人は”素直”なのがダメなのです。ガンガン変えましょう。

 英語だって、日本語にすると”語順が逆”になったりするじゃないですか。それと同じことです。たとえば『A⊃B』を漢文から逆に辿っていくと、

阿含吽 → A含B → A⊃B → A includes B → AはBを含む

ですね。
 人類学者のレヴィ=ストロースは著書の中で、

「構造」とは、要素と要素間との関係とそれからなる全体であって、この関係は、一連の”変形過程”を通じて不変の特性を保持する。

人類学者 レヴィ=ストロース

と言っています。
 この言葉にある「要素」「関係」「全体」を今回の集合論と漢文で言えば、

 こういうことです。
 ”変形過程”というのが、記号を漢字に変換することですね。記号を漢字に変えたとしても、構造は不変であり、特性は保持されたままです。

 この変換と似たようなことで、数学の積分で使われる”インテグラル ”という記号がありますよね。アルファベットの『S』を縦に引き伸ばしたような形をしているのですが、これは漢字の『区』に変えてもいいかもしれません。というか、漢字の『区』の方が意味を表していると感じるのです。デカルト座標のx^2と1/xの2つと並べてみると、

 すごく似ていると思いませんか? 中にある『メ』なんかまさにそれに見えるのですよ。
 積分をするときのインテグラルと並べてみると、

 『区』の方が「何を求めているのか?」が一目で判る気がするんですけどね〜。

 集合論は”理系の座標系”にあるので、『構造』を取り出し、それを”文系の座標系”に変換しました。これが『変換学(metamorphosology)』です。詳しくは知りませんが、射影幾何学の”位相変換”とか抽象代数学の”同型写像”と同じようなものかもですね。

形態と構造

 集合論の記号を漢字に変換して漢文のようにすると、集合論と漢文の両者に”共通の構造”のようなものが見えてきます。

 この変換を言い換えると、
『理系の集合論と文系の漢文を”積分”したら、同じ構造があった』
となります。それぞれの形を集めて = ”積分”してみると、共通の構造が見えてくるのです。
 ここまで考えたところで「もしかしてこれって”逆”かな?」とも感じました。”逆”とは、
 A.『集合論』を『漢文』に変換すると、同じ”構造”が見つかる。
 ∀. 脳内に”構造”があり、『集合論』や『漢文』として表出される。
 さっきの画像をひっくり返してみると、

 こうなります。
 頭の中に”構造”が先にあり、それぞれの形に分かれて表される。さっきとは”逆”の思考回路ですね。
 ☆ 集合論 + 漢文 = 構造 (収束)
 ★ 構造 = 集合論 + 漢文 (発散)
 あなたには☆と★、どちらが現実に見えますか?

 ではここで、この2つを合わせてみましょう。自然に倣って『木』のようにくっつけてみると、

 こうなりますね。イメージを図にしようとして何も思い浮かばないときは、大抵”自然”をモチーフにすれば上手くいきます。だって人間より”先”に生まれているんだから。
 知ってのとおり、木は根から栄養を吸収し、枝葉から光を取り込んで光合成をするので、それも合わせてみると、

 まぁ、絵心が無いことは大目に見てください。
 栄養吸収と光合成のことを考えると、どちらの方向にも収束と発散は起きていますね。だから、先ほどの☆と★はどちらも正解なのでしょう。

 ところで、会社の構造が”ピラミッド型”になっているところが多いですが、これがあんまり好きじゃないんですよね。というのもピラミッド型だと、図の途中まで、”幹”までの下半分しか表していないことになるからです。これだと根からの栄養は受け取れますが、光合成のエネルギーが受け取れません。下から上への流ればかりで、上から下への流れがないのです。
 思考の構造が図のようになっているなら、会社の構造も同じような形になっていることが自然だと思いますけどね〜。まぁピラミッドが好きな人間だからしょうがないのかもです。

 むしろ、木の形が自然 = 完全 だとすると、下半分しか表していないピラミッドの形は不完全なので、その形の会社は不完全な状態で経営していることになりますよね。そりゃあ、いろんなことが”詰んで”いっても納得できるというものです。早いとこ”完全な状態”にした方がいいですよ。そっちの方が売上も上がるかもしれませんしね、”完全”なので。
 下の根から得た栄養で幹・枝が上に伸びて成長するように、枝葉で光合成をしたエネルギーも下の根まで運ぶことで、より深く広く根を伸ばしていけるのです。結果、倒れない木に成長します。国も会社も同じことですよ。

 そして、光合成をすることは日の光を浴びること、即ち、外に出ることなのです。上層は会社の一番上にいるので、太陽には一番近いはずなんですけど、日の光は浴びないんですかね。

 さて、次はこの図をもっと簡単にして、先述の『3枚のコイン』を合わせると、

 木の代わりに『砂時計』にしています。でも意味は同じです。
 3枚のコインの裏表が全部揃っていると、上下の流れは滞ることなくスムーズに流れていくでしょう。しかし、何かの理由でコインがひっくり返っていると、流れは止まってしまいます。色の”横”の並びが左から順に、
 ☆『赤・緑・青』もしくは『青・緑・赤』
 ★『シアン・マゼンダ・イエロー』もしくは『イエロー・マゼンダ・シアン』
と、並んでいなければいけません。
 これのどこかがひっくり返ってしまうとダメです。たとえば主観と客観のコインがひっくり返っているなら、

 上半分と下半分のどちらかが、色が揃わなくなってしまうのです。

 他のコインでも同じですので、コインがひっくり返らないように気をつけてくださいね。

 章の最初、集合論と漢文は”具体”で、構造は”抽象”でした。が、それをひっくり返してみると、構造が”基礎”になり、集合論と漢文は”応用”になりました。人はついつい判りやすい”具体”や高度な”応用”ばかりに目がいって、判りにくい”抽象”や地味な”基礎”を疎かにしますが、それは構造をなくすこと、捨てることと同義なのです。

 世の中のほとんどの問題や課題は、基礎が抜けているから起こっていると考えます。




〜Interlude〜

Eric Clapton - Hey Hey

(幼少期の『鏡像段階』を脱してない人は
少なくとも2枚はコインが裏返っとるかもね)

鏡は”左右”と”前後”がひっくり返りますからね。

(3枚のコインをどれがどれでもええから
前後 ...α
左右 ...β
上下 ...γ
としたら、鏡像段階におる人は2枚が裏なんよな)

だから現実を正確に捉えられないのは当たり前なのです。

(人類学でも、隣り村同士やと
神話の結末が”あべこべ”になっとったりするみたい
人間の判断がいかに”恣意的”なのかってことよ)

あべこべ = 視点の相転移 です。
本文でも言いましたけど、”知”についてはペーパーテストで
調べられるのですが、”行”が難しいんですよ。

(実践テストやと『その時だけやる』みたいになるしな
”その時”なんてどうでもよくて
”いつも”やってるかが大事やのに)

 A. 知⭕️ 行⭕️ ←健常者
 B. 知⭕️ 行❌ ←グレー
 C. 知❌ 行⭕️ ←グレー
 D. 知❌ 行❌ ←障害者
ペーパーテストだけだとBも合格したり、
実践テストでも”その時”だけやるCも合格しますね。
SPIテストだと発達障害までは見破れないんでしょうね。

(というか、発達障害の東大生がおるなら
SPIみたいな『試験(紙)』は楽勝で突破できるんやないの)

”知”に有利な社会にした結果でしょうね〜。
社会を”知”に有利に作った結果、自分に跳ね返ってきてるのです。

(だから知も行もどっちも対等に評価せんとあかんのよな)

欧米人ってバランスを取るのが下手なんですよ。
必ずどっちかが抜けてしまう。

(アメリカはどっちかしかないからな〜
アメリカ”そのもの”が、色では”半分”しかない国なんやけど)

アメリカは赤と青と、中間のマゼンダ(?)の国です。
それだとイエロー・緑・シアンが抜けるので、国旗で探してみると、

アフリカのルワンダが近い色でした。

(争いが絶えないなら、”逆”の国を見てみるのもええで)

日本も、理系と文系の争いをいいかげんやめてほしいものです。

(そのために集合論と漢文をつなげたんよな
対象の”構造”を取り出して変換する… 養老変換
これが『変換学(metamorphosology)』やで〜🎶)

知の基礎(国語/算数)が抜けると、上に積み上がっていかないのと同じように、
行の基礎(皿洗い)が抜けると、上に積み上げていくことはできないのですよ。

(基礎 = 抽象 = 構造 やからな
それらが抜けたら、そりゃ何もできんわな)

人類学者のフランツ・ボアズが『文化相対主義』というものを提唱しました。
これは「”文化”とは絶対的な何かではなく、相対的なものである」との主張です。

(この”文化”って部分を”学問”に変えて読んでみーや)

これからの時代は『積分思考』のことをもっと考えた方がいいでしょうね。
専門家より万能家、”万能”って呼び方が嫌なら『兼門家』でもいいです。

(万能家って言われると”すべて80点以上”みたいなイメージになるけど
兼門家やと”すべて60点以上”くらいのイメージになる)

 知と行の兼門家
 文と理の兼門家
これらは”中間”にこそ必要ですよ。

(頭しか使わん文と理は、どっちも外に出ることが大事よ
イギリスの人類学者マリノフスキは『参与観察』って手法で
研究をやったんやけど、それをやるべきやな)

参与観察とは、自分で実践してみるってことです。
紙の上ばかり見るんじゃなくて、自分の五感を使うことです。

(マリノフスキはこれによって、いろんな要素が相互に結びついて
大きな全体を作りあげとることに気づいたのや)

『下手の考え、休むに似たり』とも言いますからね。

(いろんなことをやることが自分の才能を開花させるかもしらんし)

才能や能力を上げるためにいろんなことを”犠牲”にする人がいますが、
それってもしかしたら”逆”かもしれませんよ。

(才能を開花させるために、あらゆることを犠牲にする ...A
あらゆることを犠牲にするから、才能が開花できない ...∀
現実に起こっとるのは、どっちやろね?)

本来、”犠牲”と”才能”の2つは関係ないのですよ。
テレビか漫画で見たんですか?
何かを犠牲にしなきゃできないってことは、まだその時ではないってことです。

(犠牲にしなきゃいけない = その時ではない
”競争社会”やから急ぐのも判るけどな)

ノーベル賞を受賞した日本の物理学者 朝永振一郎さんも、

科学研究のためなら他のことはすべて犠牲にするようなことは自分にはできない

物理学者 朝永振一郎

と言っていました。

(「それは天才だから〜」って思った?
だから、それが”逆”なのかもしれんで って話よ)

A. 天才だから、他のことを犠牲にしなくてもできた
∀. 他のことを犠牲にしなかったから、天才になった
現実は、どちらでしょうか。

(人は簡単に事実を誤認する
天動説と地動説のようにね)

後半は今作っている草稿の『逆雷(サカライ)』からの抜粋です。

(だいぶ前に書いたんやけど、noteの記事には載せてなかったからな)

”違う”ものから”同じ”ものを取り出すことをいくつか述べてみました。

(理系と文系ってわけやないけどね
「抽象的に考える」ってことを大げさに捉えとる人がおるからな
日常の中にもたくさんあるんやで)

”難しい”のではなく、
難しい言い方をしているだけ”なことがありますからね〜。

(それじゃあ、いってみよ〜♬)




【共通】
2つ以上のものの、どれにも当てはまること。

Kenny G - Champagne


 自分が強くなるために師匠を殺そうってな結論出す奴にあたしが奥義伝承すると思うかい? かといって、悩みもしないでやれませんってな毒気のない奴も同じ位嫌いだがね。

『幽遊白書』 幻海


違う ∞ 同じ

天界 = 地上

 昔、地上と天界の 2 つは”違う世界”として認識されとったのや。太陽・月・星のある天界は完璧な世界で、人間の住む地上とは別のものやと考えられとった。けど、ガリレオが月を観察してみると地上と同じ『山』とか『谷』があることが判って、天界と地上は同じってことに気づいたのや。 それまでは、
 【天界 地上】
やったのに、山とか地上と同じものが見つかったから、
 【天界 = 地上】
に変わったんや。天界にある月は地上とは”違う”はずやのに、地上と”同じ”ものが見つかった。

『違うものから、同じものが見つかる』

 これがすごく大事なことで、人間の思考法の抽象とか帰納につながっていくんや。たとえば身近なものやと、
 1. 枝豆
 2. 大豆
 3. もやし
 この 3 つは違う食べ物やのに、植物として見たら同じものになるのや。3 つの成長の順番は、
 1. 枝豆 → 2. 大豆 → 3. もやし
となっとる。これは、
 p. 違う食べ物が、同じ植物に帰結される とも言えるけど、
 q. 同じ植物から、違う食べ物が生まれる とも言える。

 別の言い方をすると、
 p. 違う食べ物から、同じ植物が結ばれる → 収束 = 抽象 = 帰納 = 一般 = 同類
 q. 同じ植物から、違う食べ物が生まれる → 発散 = 具体 = 演繹 = 特殊 = 異種
となるね。p は時間を”逆行”して考えた場合で、q は時間を”順行”にして考えた場合と分けることもできる。

 話を戻して、今は『違うものから、同じものが見つかる』ことを考えとるから p の方やな。この 3 つは、

となる。こうやって違うものから同じものを見つけることを抽象とか帰納って言うんやで。

 数年前から政府が数学を推しとるやん。数学は抽象の学問なんや。だから数学を学べば抽象の思考が鍛えられると考えとるんやろな。でも、数学って一般的には”嫌いな学問”になっとるやん。んで、嫌いになる原因の1 つに『微分』がある。微分って確かにややこしいというか小賢しいというか、解りにくいところがあるよな。微分の説明聞いても、
「... 変化の割合を求めて... 」
「... 導関数を求める... 」
「... 微分係数を求め... 」
とか言われて、
「結局、一体何を求めてるんや❓❓❓」
ってなるやん。だから、ちょっと別の言い方をしてみたらどうやろ と考えて思いついたのが、微分は、

【違うものから同じものを導き出すこと】

と、してみたんや。さっきやったことと同じやな。3 つの違う食べ物から同じ植物にたどり着いたのと同じや。微分といえば”重力加速度”やけど、この加速度は『一定』なんよな。

   《速度》   《加速度》
1秒後... 9.8m/s...... 9.8m/s^2
2秒後... 19.6m/s...... 9.8m/s^2
3秒後... 29.4m/s...... 9.8m/s^2
(参考サイト… https://keisan.casio.jp/exec/system/1204505721

図にすると、

 時間が経つごとに速度が変わっていくから、当然 3 つの速度は違うやん。

9.8 → 19.6 → 29.4
(枝豆 → 大豆 → もやし)

となっとる。けど、加速度は同じ 9.8m/s^2 なんや。
 9.8 – 0 = 9.8
 19.6 – 9.8 = 9.8
 29.4 – 19.6 = 9.8
 同じだけ増えていっとるやろ。

 枝豆・大豆・もやしの 3 つを『食べ物』として見たときは違うものやったけど、『植物』として見たときは同じものになった...ってことは、
 9.8m/s・19.6m/s・29.4m/s の 3 つを『速度』として見たときは違うものやったけど、『加速度』として見たときは同じものになった。

と、まとめることができるのや。
 ちなみに枝豆・ 大豆・もやしの 3 つを食べ物の分類 = 肉・魚・野菜・果物・穀物で分けるなら、
 1. 枝豆 → 野菜
 2. 大豆 → 穀物
 3. もやし → 野菜
となる。大豆だけ穀物で他の 2 つは野菜に分類されるのや。まとめると、

植物
↗  ↖
野菜   穀物
↗ ↑      ↖
1. 枝豆 3.もやし     2. 大豆

って感じや。
 速度と加速度は、

 距離 ÷ 時間 = 速度(km/h、m/s)... 距離を時間で割る
 速度 ÷ 時間 = 加速度(m/s^2)...... 速度を時間で割る

 距離と速度の 2 つは違うものやけど、同じように時間で割ることをしとるのや。だから、個人的には微分ってのは、割合の割合、比率の比率、%の% って思っとるけどね。合っとるかどうかは知らん。でもまだ、いまいち”つかめてない感”はある。『映像』にしたいんやけどな。数式だけやと計算はできるけど絵(像)が描けないんや。

 じゃあ、次は『像』について〜。

計算 ≠ 認識

『電卓は像を認識しない』

 計算には電卓が便利やけど、電卓は”数値の計算”をしとるだけで”像”を結んどるわけやないのよね。一つの辺が 2cm の正方形の面積を求めるとき、電卓に 2 × 2 って入れるとすぐに4 って答えは出てくる。でも電卓は数値の計算をしただけであって、平面という”像”を認識してるわけやないのや。
 これとまったく同じことが人間にも起こる。よく日本の教育は『丸暗記』って言われるやん。公式を覚えてそれに数字を当てはめて、あとは計算するだけってやつや。計算するだけやから、それは電卓と同じことをしてると言えるやん。”像”なんか結ばなくていいわけよ。数値が表すものが平面だとは認識しなくてもいいことになる。

 こういうのを【本末転倒】って言うんやで。

 日本は『漢字』を使うやろ。漢字ってのは絵、つまり”像”なんや。その漢字を使ってるってことは、日本人は物事を”絵で捉える= 像で認識する”と言ってもええやん。物事を像で認識することが日常になっとるのに、数学って学問の中に入った途端、いきなり、
「像は要らない、計算だけしろ」
みたいな教え方をしとる。そりゃ数学が解らない人だらけになるわ って話よね。ヒトを教育するとき、

 a. 像を認識する”人間”を育てる
 α. 数値の計算をする”機械”を造る

 この 2 つのうち、どっちをやろうとしているのか? ってのが気になるわな。教育ってものの本来の目的は前者やろ。像を認識することは人間が生きていく上で必要な空間把握能力とか、芸術の創造にも役立っとると考えるで。

 ちなみに『コンピュータ』って言葉は今では電子機器のことを指すけど、昔は”計算する人”って意味やったのや。『計算手』って訳される。文字通り”計算だけする人”よね。電卓が無かった時代は必要な職業やったけど、電卓のある今はもう必要ない職業なんやで。日本の教育は子どもたちを計算手にすることを目的にしとるように見えるね。
「いつまでやってんだ?」
って話よ。こういうのを『手段が目的になる』って言うんや。

 手段... 微分
 目的... 違うものから同じものを導き出すこと

 本来はこの構図のはずやのに、計算ばかりを優先する教え方やから、手段である微分を会得することが『目的化』しとるんや。いやいや、微分は手段であって目的ではないのよ。やっぱり本末転倒よね。

同化 ≠ 同類

 違うものから同じものを見つけたあと、それらは同類だからといって”同じ扱い”にしようとすることがある。けどこれは絶対にやったらあかんのや。同じ扱いにすることは、違うもの同士を同じものに変えることになるやん。そんなことはできるわけがないのよね。だって”違う”んやから。
 α. トンボ
 β. セミ
 γ. 蝶

 この 3 つは違う昆虫だけど同じ昆虫なんや。んで、この言い方をすると”混乱”する人もおるやろ。最初に「違う昆虫」って言ってんのに、後では「同じ昆虫」って言っとるからな。これは、最初の方は”違う種”ってことで、後の方は”同じ類”って言っとるのや。

『違う昆虫』 だけど 『同じ昆虫』
↙        ↘
種”について       ”類”について

 こんな感じ。んで、種と類の2 つは、
 上層... 類
 下層... 種
となるんや。

『河川』には本流と支流の 2 つがあるやろ。本流は 1 つやけど支流はいくつもに分かれとる。それと同じことよね。本流が”類”で、支流が”種”になる。でも、川を見たら判るけど本流と支流は”別の川”なんよな。もちろん支流同士も”別の川”よね。別の川なんやから当然、同じものに変えるなんてことはできんのや。地下にある『水脈』も同じよね。
 トンボもセミも蝶も同じ昆虫(類)やけど違う昆虫(種)やから、トンボをセミに変えたり、 蝶をトンボに変えたりはできん。つまり、
 a. 違う種を、同じ類にまとめる... 同類... 可
 α. 違う種を、同じ種に変える... 同化... 不可
ってことや。

  同類にまとめることは”上層”であればできる。けど、それを”下層”でやろうとすると同じ種に変えることになってしまうから、同類ではなく同化になってしまう。そんなことができるわけがないんやで。トンボもセミも蝶も”違う昆虫”なんやから。
 もし違う昆虫同士の同化を強制すれば単細胞生物になったり、混合生物の『キメラ』になる。日本でいえば『鵺(ぬえ)』になるかね。どちらも”歪(いびつ)”な生き物やな。同類と同化を履き違えると”ぐちゃぐちゃ”になってしまうで。トンボたちを同化しようとしても、幼虫の頃から住んどるところも食べとるものも違う。

 α. トンボ... ヤゴ... 水生... 肉食(ボウフラ、ミジンコ、メダカなど)
 β. セミ... 幼虫... 土中... 樹液
 γ. 蝶... 青虫... 葉上... 葉っぱ

 同じ昆虫(類)やのに、違う昆虫(種)やろ。昆虫は他にもテントウムシ、カブトムシ、バッタ、カマキリ、ミツバチ... と、無数におる。同化できるわけないね。
 さて、ここでは上下の2層で『類・種』に分けたけど本当は”分類学”は、上から順に『門・ 綱・目・科・属・種』ともっと細かく分かれとるのや。門の上には『界』もある。

 分類 = 分け方 ってものは、種で分ける、時系列で分ける、比率で分ける... と、いろんな分け方があるき、どの分け方をしとるのかを見極めんとあかんのや。というか、それを先に教えたれよとも思うしな。分類学って学問が、まったく関係のなさそうな数学の微分の説明に使えるってことや。

 こうやっていろんな学問同士をつなげていくことも、大事なことよ。

 違う速度から同じ加速度を見つけたことは『因数で括る』ってことにも通じる。

2x^2 + 4xy + 6x

 この数式は、
 2x^2 = 2x × x
 4xy=2x × 2y
 6x=2x × 3
と、分解することができる。ってことは 2x で括れる。2x のことは、2x^2 と 4xy と 6x の 3つに共通する因数やから『共通因数』と言う。

 2x^2 + 4xy + 6x = 2x(x + 2y + 3)

 違う数字の 2x^2 と 4xy と 6x の 3 つを、同じ因数 = 共通因数の 2x で括ったのや。

違うものから同じものを導き出すこと

 3つの違う速度から同じ加速度を見つけることや、3 つの違う食べ物から同じ植物を見つけることと同じことをやっとるのや。

 加速度ってのは、速度の『隠れた共通因数』ってことよ。

 ちなみに微分は、ボールを投げたときのような放物線にしか使えない、つまり『曲線にしか使えない』っていう性質がある。直線でカクカクと曲がるような軌道のものには使えない。ってことは、雷の軌道には使えないのや。

 微分思考は、物事を個別に分けて『具体』ばかりを見ることになってしまう。その反対の積分思考は、個別の物事を集めて『抽象』として、全体の動きを見ることになる。

 んで、積分思考を体感したいなら、五感を使えってことやで。




Ending.

Morgan Wallen - Whiskey Glasses

〜おわりに〜

おおよそまとまりましたかね〜。

(積分思考は”おおよそ”でええんや)

この辺の感覚が”いいかげん”なところが、
正確さを大事にする理系らしからぬのですよ。

(だから理系は積分思考を敬遠するんや
その中に真理があるかもしらんのにな)

敬遠するのに”抽象は好き”ってのが意味不明ですよ。
まだまだ”子ども”ってことですかね。
やれやれ…

(五感を使えばすぐ判るのにな)

複雑系がいまいち発展しないのは、おおよそ過ぎるからでしょうね。

(距離があり過ぎる
遠いのや。まぁ、だから”中間”の出番なんやけど)

令和からすれば、昭和も平成も”大人”のはずなんですけどね〜。

(どっちかしかやってないから”子ども”のままなんや
なんちゅうな世代なんやろ)

その世代に生まれたかったですね。
1つしかやらなくていいなんて、こんななことはありませんから。

(全体像が見えたなら、それぞれやることは決まっとるわな)

ですね〜♪
世の中には「漢文・古文をなくせ」なんて言う人がいますが、
集合論と共通する構造を持っているなら、
集合論を理解する手助けになるのです。

(教育ってのは”全体”的に見んとあかんのや
だから、同じ基礎、同じ抽象、同じ構造が大事になる)

”突き”という基礎を極めたから、必殺の『牙突』が生まれたんですよ。
その牙突には”型”がありましたね。

(突き… 基礎
牙突… 昇華
型分け… 応用
やで)

何かを捨てるほど、何かができなくなる

(この”因果”が判らんのやろな
猿には)

3枚のコインをすべて”表”にしなくてはいけません。
そのための”基礎”なのですよ。

(コインのアプリは診断にも治療にも使えるようにすればええな)

すべて表の状態が”自然”な状態なのです。
現代は人の手を入れ過ぎなんですよ。

(あらゆるものを人間の思い通りにしようとするよな
やっぱ老子の考え方が必要なんや)

孔子は老子に対し「龍のような人だ」と言っています。
老子は『無為自然』を大事にしましたね。

(昆虫が減っとるのは”不自然”やからやろ
トンボも減っとるんやろな〜)

トンボって『キョンシー(幽幻道士)』を連想しますよね。
おもしろい映画でした。

(キョンシーは”リンリン”が人気やったな
懐かしいね〜)

それはリンリンじゃなくて”テンテン”です。

(あれ、そうだったか
ずいぶん遠い記憶になってもうたな)

歳を取ったってことですよ。それでいいのです。

(動かないはずの”北極星”も、いつかはズレる

太陽系も天の川銀河の中を動いてますからね〜。

(動かないもの、変わらないものなんかないんよな)

あるとしたら『構造』です。
ここでいう構造は、人間の頭の中にある構造ですよ。

(でもそれが判れば、それを超えることもできる)

人間はそれをやろうとしてるように見えますね。
ニーチェに言わせるなら『超人』でしょうか。

(だから、構造を知りたいなら基礎をやれ
ってことなんや
そうやないと、結局同じことの繰り返しになってしまうからな)

自分では新しいつもりでも、とっくの昔に
他の人がやってたりしますから。

(歴史に敬意を払わない民族は必ず滅びる…
「レッスン4… 敬意を払え」)

ジャイロは「遠回りこそが俺の最短の道だった」
と言っていました。

(ってことは、近道ほど遠回りってことになる)

知の人も行の人も中途半端なんですよ〜。
文字通り半分しかやってないでしょう。

(あの時、置いてきた”残りの半分”をやる時がきたんや)

心配しなくても現代はそんな人しかいないので、
恥ずかしいことではないですよ。
そんな人しかいないので。

(まったく、いくつになっても世話の焼けるガキどもやで)

それではこの辺で。
ちゃんと”残りの半分”をやるんですよ〜。

(ほなまたな〜)




*参考書籍*
 ・はじめての人類学 奥野克巳 講談社現代新書
 ・心はすべて数学である 津田一郎 文春学藝ライブラリー
 ・龍の世界 池上正治 講談社学術文庫
 ・はじめての構造主義 橋爪大三郎 講談社現代新書


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