広告とPRの違いから考える「私とは何か」

「私とは何か」
24歳の人間が語るには、少しナイーブすぎるテーマかもしれない。
社会人になって二年も経てば、仕事仕事仕事の日々の暮らしに忙殺され、「私っていったいなんなの?」なんて考えることは、まるで贅沢な悩みのように思える。
感性は摩耗し、哲学書は埃をかぶり、休日は好きだった映画を観る体力も残っていない。
だけど、悲観的なことばかりではない。
ぼくたちは、仕事という「社会と接続する言語」を得た。
ぼくたちは、「私」にまつわるものごとを社会との関係性のなかで語ることができるようになった。
今回の記事はそうした試みのひとつだ。

タイトルにもあるように、今回は、ぼくの仕事である広告とPRという「言語」によって「私とはなにか」という哲学的なものごとについて語っていきたい。
その中心となる概念は、「分人主義」と呼ばれるものである。
作家、平野啓一郎がまさに『私とは何か』(2012年、講談社現代新書)において提唱した概念である。
この「分人主義」を説明するにあたり、まず広告とPRの違いについて考えていきたい。

広告とPRの違いとはなにか?
教科書的な定義の違いについては、下記徳力基彦氏の『やっぱり「広告脳」と「PR脳」は構造が違うので、別部署にするのが現実的?』(2015年、AdverTimes)に簡潔にまとまっているので引用する。
https://www.advertimes.com/20151013/article206385/

広告であれば、お金を払って広告枠を購入しているので、お金を払った分確実に露出がされますし、広告の内容も基本的には企業側が完璧にコントロールできます。ただ、その分お金が無ければ大きな露出はできません。
一方、PR露出は、コミュニケーションを通じて獲得するものであって、お金を払って獲得するものではありません。記事やクチコミとして出現する内容も、記者やユーザー次第であってコントロールは普通できません。

要するに、すこし乱暴に言ってしまえば
広告は有償で、編集権は広告主、
PRは無償で、編集権がメディア側にある、と理解してもらえれば問題ない。
ここを前提として一歩踏み込んで考えると、こうした仕組みの違いは、情報をパブリッシュしていく側の“思考”もまた必然として異なるものにする。


この思考の枠組みが端的に表現されている文章を、石原篤氏『これからの「売れる仕組み」のつくり方』(2015年、グラフィック社)から引用する。

ワンメッセージに集約する球体の広告的発想と、マルチメッセージに拡散させていく多面体のPR的発想、この2つの発想法=アプローチを頭に入れて掛け合わせで発想する

広告の王様はCMである(であった?)。
スポットと呼ばれる15秒のCMのなかで、商品特性を生活者に伝えることは至難の業だ。
その短い尺のなかで最大の効用を発揮するために広告クリエイターはひとつのコピー、ひとつのステートメントに集約し、執着し、魂を込めた。
それはまるで球体の内部、奥の奥深くに分け入って、コアを取り出すような行為である。
一方PRは、メディアとの関係性のなかでフォーカスする商品価値は異なり、商品という「もの」をメディア側のコンテクストに合わせて再解釈していく。
まるで生き物のように絶えず面を殖やしていく動的な行為だ。

広告とPR、それは一と多、あるいは核と関係性の違いとして言い換えられる。
以上を踏まえて、ここで本題「私とは何か」という問いに立ち返りたい。
この問いを考えるとき、広告とPRという二項対立に呼応する概念は、個人主義と分人主義である。

今でこそぼくたちは、「個人」という言葉を違和感もなく使いこなしているが、本来「個人」とは明治時代に西洋から輸入された概念であった。
この語源についても平野啓一郎『私とは何か』に詳述されているが、重要な部分なので簡単に説明したい。
個人という語に対応する英語はindividualであり、その語源はラテン語のindividualisにある。
このindividualisには本来、今でいう「個人≒私」としての意味はなく、あくまで「分割不可能なもの」という意味をもった語だった。
このindividualisを語源にもったindividualは神学、経済学、社会学の発展に伴い、現在の「個人≒私」という定義を獲得するに至った。
神に対して向きある分割不可能なもの=私、社会・経済を構成する最小単位=私、といった次第に。
そう、言ってしまえば「個人」とは西洋独特の思考様式・思考のくせであった。
しかし、明治時代に輸入されたこの「個人」という概念は力を持ち、大正・昭和・平成と生き延び、今を生きる私たちという実存を悩ませる原因となった。
「本当のわたしっていったいなんなの?」

こうした悩みに対し応える一つの光明が、分人主義である。
分人主義とはなにか。
『私とは何か』(2012年、講談社現代新書)で平野啓一郎はこう語っている。

私たちには、生きていく上での足場が必要である。その足場を、対人関係の中で、現に生じている複数の人格に置いてみよう。その中心には自我や「本当の自分」は存在していない。ただ、人格同士がリンクされ、ネットワーク化されているだけである。

「個人主義」を広告と同様に「ひとつの核」を措定していく思考法だとしたとき、分人主義はそう、広告と対置したPRのように、ひとつの「コア」ではなく、関係性のなかで初めて生まれる存在に焦点を当てている。
「私」たちは、まるで脳のシナプスのように張り巡らされたネットワークのひとつのノード(結節点)であり、関係性のなかで初めて存在し得る。

分人主義をもっと理解するために、『私とは何か』からもうすこし抜粋したい。


私たちは、朝、日が昇って、夕方、日が沈む、という反復的なサイクルを生きながら、身の回りの他者とも、反復的なコミュニケーションを重ねている。人格とはその反復を通じて形成される一種のパターンである。(p70)
誰とどうつきあっているかで、あなたの中の分人の構成比率は変化する。その総体があなたの個性となる。 (中略) 個性とは、決して生まれつきの、生涯不変のものではない(p89)
私という存在は、ポツンと孤独に存在しているわけではない。つねに他社との相互作用の中にある。というより、他者との相互作用の中にしかない。他者を必要としない「本当の自分」というのは、人間を隔離する檻である。(p98)

ここで以前、ぼくがTwitter(@h_s_philo)で語って(微妙に)反響のあったツイートも口直し(?)にご紹介。

話してて楽しい女の子と顔がタイプの女の子と性的に魅力のある女の子ってそれぞれ違うじゃないですか… それを全て充たすことってなくないですか… かといって二股三股して他人を傷つけたいわけじゃないんですけど…

こんな誰しもが抱えたことがある(かもしれない)悩みに対する解答にも、この「分人主義」はなりえるだろう。

村田沙耶香『コンビニ人間』(2016年、文藝春秋)のなかで主人公が逐一語っていたように、我々は自身を取り囲む環境=人々の影響を絶えずうけ、その一部を「わたし」として取り込みながら成立しているのである。
ぼくたちは、本当の自分ってなに?という「呪い」を抱き、その揺らぎのなかで傷つき苦しんできた。
「彼氏といるときの私と友達といるときの私、どっちが本当の私なんだろう?」
「好きなひとが複数人いることっておかしいのかな?」
「誰にも言えないこんな私を知ったら友達は幻滅してしまうかな?」
なんていうふうに。

ぼくたちは、そんな悩みに対して立ち向かうための武器を得た。
それが分人主義だ。
ただ、ここでひとつ注意しておきたいのが、個人主義と分人主義の関係について。
それはまるで広告とPRのように、あくまでどちらが上か、という価値序列のなかで考えるものではなく、振り子のように行き来すべき思考法である。
改めて、『私とは何か』において平野啓一郎はこう語っている。

人間は、放っておけば、対人関係ごとに別々の分人になっていく。しかし、その反動として、「個人」という整数的な単位に統合しようとする力も働く。現実的には、私たちには、その2つのレイヤーを往復
しながら生きることになるだろう(p119)


平成の終わり。
固定化された価値観=呪いからの解放。
ぼくたちは、時代の雪解けに立ち会っている。

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