連載小説『ヒゲとナプキン』 #32
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ふと目が覚めた。暗闇に包まれた部屋の中で、イツキはスマホを探して毛布から手を伸ばした。指先に、小さな端末が触れる。それを手元にたぐり寄せると、画面から強烈な光が発せられた。あまりの眩しさに思わず目をつぶったイツキは、そこからゆっくりと瞼を持ち上げて視界を取り戻していった。
「もう十二時か……」
イツキはひとりごちると、無造作に放り出したスマホが照らし出す天井をぼんやりと見つめた。まあるい光に照らされた天井に、シゲルとフミエの顔が浮かぶ。
(おまえと血がつながってないんだ)
父の震える声が、脳内で再生された。一定時間が経ったのか、スマホの明かりが消える。天井がふたたび漆黒の闇に染まった。
鼻から大きく息を吸い込み、そして吐き出した。同時に、腹の虫がクーッと鳴った。せっかくのおせちも、ほとんど手をつけずじまいだった。そういえば、シャワーもまだ浴びていない。イツキは毛布をはねのけると、ふたたび手にしたスマホを懐中電灯の代わりにして、なるべく物音を立てないように部屋を抜け出した。
身震いするような寒気のなか廊下を進んでいくと、階下から灯りが漏れてきていることに気がついた。どちらかが消し忘れたのだろうか。足音を忍ばせて階段を下りていったイツキは、リビングを覗き込み、思わず息をのんだ。父の、後ろ姿が、そこにあったのだ。
足音に気づいたシゲルが振り返った。
「ああ、イツキ……」
「おお」
ダイニングテーブルの同じ位置で、シゲルはひとり晩酌を続けていた。日本酒が入った徳利と猪口、そして黒豆や栗金団が入ったお重の一段目だけが並んでいる。
「まだ飲んでるの?」
「ああ……」
イツキは腕組みをしたままリビングに足を踏み入れると、自分が座っていた椅子の背もたれに掛けたままにしていたコートを上から羽織った。
「おまえも飲むか?」
「ん、ああ……」
イツキはひとまず台所まで行くと、自分の箸と小皿、そして先ほどまでフミエが使っていただろう猪口を持ってリビングに戻った。
イツキが席に着いたのを確認すると、シゲルが徳利を軽く持ち上げた。イツキが無言でつまんだ猪口を差し出す。シゲルが徳利を傾けると、小さな器に清らかな液体が注がれた。二人はたがいに猪口を掲げると、無言で杯を交わした。
「それ、アルバム……だよね」
よく見ると、シゲルの手元にはいくつかの冊子が積まれていた。
「ああ……」
シゲルはしばらく冊子の山を見つめていたが、やがてそのうちの一冊をつかむと、無言でそれを差し出した。イツキは受け取ったアルバムをテーブルの上に置くと、右手に猪口を持ち、左手でウサギのイラストがプリントされた表紙をめくった。
そのアルバムには、幼いイツキが詰まっていた。母に抱かれるイツキ。父に背負われるイツキ。姉のコズエとままごとをするイツキ。どこにでもある、家族の風景だった。
右手の猪口を口元に運び、喉を湿らせてはページをめくる。そんなことを繰り返すうち、ふとイツキの手が止まった。コズエの家で見つけたのと同じ写真が貼ってあったのだ。
シゲルの膝で、父を見上げるイツキ。絵本を片手に、愛情深くわが子を見つめるシゲル——どこから見ても微笑ましい“親子”の姿だが、この二人の間に血のつながりはない。その事実を知った上でこの写真を眺めていると、コズエの家で見たときとは、また異なる感情がこみあげてきた。
「あのさ……」
イツキはアルバムから顔を上げ、シゲルの顔を見つめた。
「なんだ」
「育ててくれて……ありがとう」
一瞬、驚いた表情を見せたものの、シゲルは口を真一文字に結んでいる。やがて、父の頬にひと筋の涙が伝った。
「当たり前だろう……親なんだから」
厳しい表情を崩さぬまま父が発したその言葉に、イツキは「うん、うん」と二回うなずくと、強く唇を噛み締めた。そうしていないと、父の涙が伝染してきてしまいそうだった。
「父さん」
「ん?」
「俺もさ……なれるのかな」
シゲルは猪口に伸ばしかけた手を下ろし、イツキの次の言葉を待った。
「親ってやつに」
答えは、すぐに返ってこなかった。それは、この二十数年間の葛藤を振り返っているのかもしれなかった。
「ああ」
しかし、数十秒後に返ってきた答えは、とても力強いものだった。
それからしばらく無言で酌み交わしていた二人だったが、しばらくしてシゲルがぽつりとつぶやいた。
「おまえとこうして飲める日が来るとはなあ……」
「うん」
「息子と飲むというのも、いいもんだな」
その言葉に、イツキは身を固くした。手にしていた猪口を置き、目を見開きながらシゲルの顔を正面から見つめた。
「…………息子で……いいの?」
父は、このときはじめて微笑んだ。
「私が父で、いいならな」
その表情は、アルバムで見た父の顔と、何ひとつ変わらないものだった。
「ごめんなさい……父さん、ごめんなさい……」
その場で泣き崩れるイツキ。父は席を立つとイツキの後ろに回り込み、その震える背中を抱きしめた。
「おまえを……愛してる」
イツキは背中に父の温もりを感じると、一段と大きな声で嗚咽を漏らした。
「もっと早くに伝えられてたらよかったのにな……ごめんな、イツキ」
イツキは肩を震わせながら、何度も、何度もうなずいた。
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