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病気になるとはどのようなことか〜<医>の概念工学〜(3):意思決定をとらえ直す

【必然だろうが偶然だろうが】


さて、前回までの議論を改めて見渡してみると、私たちが治療法を選ぶこと、あるいは広い意味で意志を決定するとはどのようなことか、考えさせられてしまいます。

なにか重大なことを選ぶというとき,私たちがはよく図1のような「決定木」を思いうかべます。

図1

第1回(病気になるとはどのようなことか〜<医>の概念工学〜(1))でみたように,この世の全てのできごとは決められたことと考える決定論に従えば、この決定木は図のようには分岐せず,一本の木として過去から未来まで決定されています。この考えを採用すると。過去の出来事については一定の納得を得ることができるかもしれません。しかしながらこれを未来に適応しようとすると困ったことになります。未来のすべてのことも,今のこの時点で既に決まってるとしたら。いかに苦しみあがきながら未来の選択をしても既に結果は決まってしまっているのならそれは虚しい行為ではないか。そう思えてきます。

それでは,全ては偶然の産物なのだと考えるのはどうでしょう。第2回(病気になるとはどのようなことか〜<医>の概念工学〜(2))でみたように,病気になるかならないかを確率的に考えるとする場合,たとえわずかな確率であっても,この自分が病気になってしまったことは誰にも説明ができない。そうであれば,この事態はすべてが偶然の産物なのだ。実際なぜこの自分ががんになったのか,と考えれば考えるほど,それは偶然にしか思えなくなる。決定木の分岐はつねに偶然によって決まるというわけです。

ちなみに,物理学の分野で20世紀前半に確立した量子力学においても,原子のようなミクロな対象物は初期の状態が決まったとしても,その後の状態は確率的にしか決まらないことが示されています(それをもって決定論が全部否定されたわけではないとされていますが,ここではそれには触れません)。

このように,すべては確率的な,偶然の産物であるという立場に立つならば,過去の事については「偶然だから仕方がない」と一時納得はするものの,それなら未来のことも偶然なのだと考えた場合,やはり「選ぶ」「決める」という行為は虚しいものに思えてきます。

つまり,世界が決定されたもの,必然的なものととらえたとしても,また全てが偶然であると考えたとしても,いずれにしても,何とそこには「自由意志」というものが働かないという事態になってしまうのです。これは,私たちの日常の理解に反することです。私たちは,夕ご飯のおかずから,がんの治療法に至るまで,自分に降りかかるすべてのことは自分で決めたい,あるいは自分で決められるという思いを持っています。たとえいろいろな人の意見を聞いて考えあぐねたとしても,最後は自分で決める。人生の重大な場面であればあるほどそう考えるべきだ,あるいはそう考えてきたと思う人は多いでしょう。歴史の大まかな流れは決まっているのかもしれないが,場面場面において,そのときどきの判断は状況に応じながら自分でしているものである,これが一般的な考え方だと思われます。

しかしながら、今回私は,がんの治療法を選ぶにあたっていろいろな経験を経た結果、「選ぶ」あるいは「決める」ということにそれほどこだらわなくていいんだ、と思うようになったのです。むしろ私たちはその都度の決断などしてはいないのではないか,この感覚を知っただけでも、ある意味「がんになってよかった」とまではいわないですが,意義はあったと今さらながら思うのです。

どういうことでしょうか。

【決める事ができなくなる】


前回(2)の【がん治療選択の旅】でみたように、治療法選択にあたっては、実にさまざまな人に出会い、情報を集め、ネットにアクセスし、考えうるるあらゆる選択肢を吟味したつもりでした。しかしいざ治療法を選ぶときには、いろいろ考え抜いた挙句、たとえばある夜,いよいよ意を決して「よしこっちにしよう」と強い思いで決めたわけではないのです。むしろ気がついたらこっちにしていた(私の場合は術後放射線療法のみ)、という感じなのです。呼吸器外科外来の予約の日、主治医の先生のところで話をする時でも、どのように自分の意志を伝えたのか、思い出してもよくわからないし、直前まで違うことを考えていたようにも思われるのです。

そもそもほぼ同じような根拠や背景を持つ複数の選択肢を前にしたとき、考えれば考えるほどどちらにしていいか分からなくなる。このことは例えばランチをカレーライスにするかラーメンにするかといって極めて卑近な場合でさえ言えることです。昨日はラーメンを食べたからなあ、でもまた別のラーメンも捨てがたいな、しかしあの店のカレーはこれまで食べた事がないな、、、などなど。物事に意味を付け加えようとすれば、無限に付け加えられるのが人間ですから、がんの治療法を吟味すればするほど、結局どちらにも利点、欠点が見出せる。そしてどっちでも良くなってしまう(し悪くなってもしまう)。考えれば考えるほど、選ぶ「自己」というものが、「主体」というものが消えていってしまう。選択する当の「自己」は果たしてあるのだろうか、そんな錯覚めいたものに囚われてくるのです。

【私たちは、いつ「決めた」のか】


そういう意志のようなものはなくてもよい(あるいは薄くても良い、あるいはない方が良い)。いくつかの哲学的概念がそういうことまで教えてくれます。

たとえば、朝起きて仕事に行かなければならない状況を考えましょう。寒い朝、ふとんの中で目が覚めたとき、当然起きなければならないなあと思いつつ、まだあと少し寝ていようと思う、どうしようもう起きようか、いやまだと心の中で葛藤しながらいろいろやっているうちにいつの間にか起きていた、そんな朝を経験する人は多いでしょう。もちろん、もうこれ以上遅れたらやばいと思って、えいやっと起きる場合もあるでしょう。しかしそんな場合でも、自分がいつ「起きる」ことを決めたのか、ふとんでまどろんでいた時点なのか、それとも起きる直前なのか、はっきり言い当てられる事は少ない(というかない)のではないでしょうか。むしろ、「あれ?今起きて立っている自分がいる」という感覚を覚えるのではないでしょうか。そしてむしろ「起きる」という行為そのものがどこからか降ってわいたように自分に訪れ感覚を覚えるのではないでしょうか。

【無自由の世界】


哲学者、青山拓央さんは著書「時間と自由意志」の中で、この「分岐問題」を取り上げています。やや入り組んでいる内容なのですが、私たちが物事を「決める」ことへの根源的な問題を提起しているので紹介します。

歴史Aと歴史Bに進みうる分岐点に。決断の瞬間であるXがあったとき、決断の結果Aが選ばれたとして、まだ分岐点上のXの時点ではBへの可能性は遮断されていません。ですのでXの時点においては「BではなくAの方を決める」力は持たない(図2)。まさに分岐点のその時(X)にはどちらの可能性もあるので「決める」事はできないということです。

図2


次に決断Xが分岐点より前の一本道のところにある事はありうるか。この場合、分岐点より前ではX通過以後もAかBかの両方に向かいうるので決断は決して分岐点の前ではありえない(図3)。そもそもこの場合はXを決断した時点とは言えないということです。

図3


もちろんXが分岐点の後でAに枝分かれしたルートにあるとなれば、すでに歴史がAに向かうと決まった後であり、これもありえない(図4)。

図4


このような決定木として可能性を表す限り、決断の瞬間はどこにおいても矛盾をはらんでしまうのです。そうなると私たちの自由意志は存在しなくなるという結論に達します(これだけではよくわからないという方はぜひ著書を参照していただければ幸いです)。

青山さんはこの論を推し進め、「自由意志を否定する」とは一切の「決める」を否定することである。そこでは何かが何かを選んだり決定することはない。全てはただ生じるだけであると述べ、そこには選ぶという主体は存在しないし、こうした「する/しない」の区別のない、自由か強制かももはや問題にならないのであるとし、いわば「ただある」だけの境地を「無自由」な世界と呼んでいます。

この世界の見方は,(2)でみた「この世界は互いに「異なるもの」の「一回限り」の事象のあつまりである」という世界観につながるかもしれません。青山さんの「無自由」な世界では,人間の「主体」というものはありません。すべてはただ生じる,そこには主体のない単なる「出来事」だけの荒野が広がっています。ここまで世界を見切ってしまえば、もはや私たちが「選ぶこと」「決めること」にそもそもそれほどこだわらなくてもよいかもしれません。すべては「決める」のではなく「決まる」のだからと。
(一方で、青山さんはそれでもふだん人称的コミュニケーションにおいて互いに自由意志を認め合うことを尊重しています。そのことはまた後で触れます。)

ここまで透徹した世界観を,実際の日常生活に適用することにどれほどの意味があるのかと思われるかもしれません。しかし私は,この青山さんの議論を読んだとき,「選ぶ」ということの意味は実に不確かなものであると感じたのです。

たとえば,私の場合でいうと先に述べたように,がんの宣告を受けたとき,検診を受けなかったことなどを後悔したのですが,がんがわかったときから見ればそう思えたのであって,去年の時点ではその時が決断の大事な分岐点だとは思いませんでした。「検診をするかしないか迷って,しないことを選んだ」という意識すらなく時間が経過しました。このように,私たちの日常には,そのときは選択するという意識はなく,過去を振り返って,あの時が歴史の分岐点だったと思うことが往々にしてあると思うのです,

あるいは,こうも考えました。私も60歳を超え,大きな病気もしたこともあり、そろそろ仕事の量を減らしてゆっくりしたいと,疲れたときなどに真剣に考えます。しかし,そうは言っても仕事が好きだし,経済的なこともあるし,そうするのも手間がかかるし,などなどの事を考えたり,あるいはそれほど真剣には考えなかったりで,結局いつもどおりの仕事を日常的に行っています。ある意味,仕事を減らす事のさまたげはあまりないけれども,でも「そうしないという選択」を日々しているのかもしれません。分岐点は日々の生活の中で実は無数にある、しかしながら私たちはそれに意識的になれずに「そうしない選択」を刻々としているのではないか、そんな気になるのです。

そして,そのように暮らしながらも、たとえばがんが再発したときとか,あるいは何か状況が変化したそのときに分岐点が訪れたと考えると思います。こう考えると分岐点というのは,自分がみずから「今分岐点だ」と認定するのではなく,周りの状況やできごとの流れが集約されて,条件が整ったときに「分岐点」だと思わされていると言えるかもしれません。分岐点というもの自体、自由意志のみからではなく、外部の状況によって左右されるし、状況が分岐点というものを意識させるのである。そう考えると、歴史の分岐点それ自体も人間の解釈の産物でしかなく、真の事物の姿は青山さんがいうように「ただ在る」ということも承服できるような気がして来るのです。

村上春樹さんは小説「パン屋再襲撃」の中でこう書いています。


たぶんそれは正しいとか正しくないとかいう基準で推しはかることのできない問題だったのだろう。つまり世の中には正しい結果をもたらす正しくない選択もあるし、正しくない結果をもたらす正しい選択もあるということだ。このような不条理性ーと言っても構わないと思うーを回避するには、我々には実際何一つ選択してはいないのだという立場を取る必要があるし、大体において僕はそんなふうに考えて暮らしている。
「パン屋再襲撃」


青山さんの無自由に接したとき,このフレーズが思い浮かんだのです。

私たちの選択や決断は「朝起きる」ことでさえ,はっきりとした瞬間を特定できない不確かなものであり,そこに私自身がどう関わっていたかも実はさだかではないのかもしれない。その根本的なところを「無自由」の概念はつかんでいるように思います。また私はここまで世界を突き詰めて考えることができる哲学者の世界観に,ある種の驚嘆を感じます。

そして,この無自由の世界を,より私たちの現実に引き戻した形で,またそれとは違った形で提示してくれる概念を紹介します。

【ここで「中動態」】


それは、哲学者、國分功一郎さんの「中動態」です。中動態の内容は、医療福祉分野でもさまざまなメディアに取り上げられており、くわしい説明の必要はないかもしれません。著書「中動態の世界 意志と責任の考古学」についてごく簡単に説明してみます。

例えば「私が歩く」という文は、私が歩くというよりもむしろ私において歩行が実現されていると表現されるべき事態であると國分さんは言います。「私が何ごとかをなす」というような能動態の形式は、意志の存在を強くアピールする。しかし「私において歩行が実現されている」はそうではないのです。この世で生じる事象を「する/される」の枠組み以外で把握する道具立て、それが中動態なのです。

國分さんは言います。


強制ではないが自発的でもなく、自発的ではないが同意している、そうした事態は十分考えられる。と言うか、そうした事態は日常にあふれている。それが見えなくなっているのは、強制か自発かと言う対立で、すなわち、能動か受動かと言う対立で物事を眺めているからである。そして、能動と中動の対立を用いれば、そうした事態は実はたやすく記述できるのだ。
「中動態の世界 意志と責任の考古学」(P158)

言われてみると,私たちの日々の生活の中で,「する」つまり能動態でもない,しかし「される」つまり受動態でもないことが実に多いのではないでしょうか。夕ご飯のおかずを決めることでさえ,自分の意志だけで選ぶというよりも,昨日はどんなメニューだったのか,同居人は何が好きなのか,予算はどのくらいなのか,などさまさまな外からの状況に囲まれています。自分一人だけの自発的な強い意志でおかずを決めているわけではなく、かと言って何者かに強制されておかずを決めるわけでもありません。おかずを決めることも実は「中動態」かもしれません。

心房細動の治療に「カテーテルアブレーション」というものがあります。心臓の左心房にカテーテル(細い管)を入れて不整脈の発生箇所を熱で焼灼してしまう治療法です。これを受けて来た患者さんの多くが「アブーレーションをして来た」という表現を使います。実際にアブレーションをしたのは、本来は医師のはずです。患者さんは「受けて来た」と言うのが事実としては正しいかもしれません。しかし多くの患者さんは「して来た」と言う。患者さんが「アブレーションをして来た」というとき、それは自分でしたのではなく、また一方的に受け身でされて来たのではなく、さらには強制的にそうさせられたのでもない、誰でもない空気のようなものに促されたかのような響きを持つのです。これは中動態に通じることかもしれません。

このように私たちは「自分は自分の意志で選んで行為している」のではなく,自分はなにかに「巻き込まれている」,すなわち中動態的な生き方を実際にしているし,またそれを自覚することを國分さんは薦めるのです。

中動態の考え方は、私にとって大きな救いでした。がんになること、あるいは病気になることそのものが、自発的な意志に基づくものでもなければ、もちろん何かの強制によるものでもない、まさに「中動態」的な構造を持って成り立っていると考えられたからです。そこにはがんになったのは自分の責任かもしれないと言った自責の念や、また一方、何かの大きな力が働いのではと言った非科学的な運命論のしばりをしなやかに解いてくれる世界があるように思えるのです。

【意志決定とはシステムである】


このようにみてくると、医学的な「意思決定」においても、自分が「起点」となって、さらには自らの自由意志が原動力となって治療法を「選ぶ」という概念を一旦仮固定してよいように思われます。私の場合に則して言えば、気がついたら決まっていたという感じでしたが、それは、自分のこれまでの経験や考え以外に、いろいろな人と出会い、話を聞き、情報を仕入れていく中で、自然に形成されたシステムのようなものを感じます。

そう、「選ぶ」「決める」ということは、誰か確固たる主体があってそうするのではなく、自分を含めた時間的空間的に出来上がった構造あるいはシステムがいわば主体なのだ、ということです。

意志決定とは、特定の主体のないシステム全体のことである。そう考えてからは、少なくとも意志決定のときに自分一人で責任を負うような悲壮な感じはなくなり、周りがなんとなくそういう構造になっているんだと思う事で一つの救いとなりました。

【選ぶことで自己という存在が出来上がる】


とは言え、そう考えられない場合ももちろんあるでしょう。
がんに関する意思決定をおかず選びと一緒にされてはたまらない。あるいはそうであってもやはり自分で決めたいのだと言う声が聞こえて来ます。
自分の意志で物事を選ぶことが重要(と思われるよう)な場合も医療現場ではまだたくさんあります。ものごとを誠実に考える人ほど、よくよく自分で考えようとする。そしてこう考える。他ならぬこの私のからだのことなのだから、自分のことは自分で考え、自分の意志で決めたいのだと。多くの人は、自分はしっかりしているし、自分で決められるのだという「確固たる自己の存在」を信じています。そしてそれは裏を返せば自分の存在がどこまでも愛おしいと思う自己愛のような感覚に裏打ちされています。

私の場合、最初がそうでした。ガンと聞いた瞬間から、なんとしてでも自分の力で選択したい、そういう思いであちこち情報を集めたました。選び切れる自己があるという「過信」で突き進んでいきました。しかしそうすればするほど情報が錯綜し自己というものがなくなってしまうのでした。

さて、そうした自己決定への執着ということに対し、最後に哲学者、宮野真生子さんの到達した概念をとりあげ、この「執着」への蹴りをつけたいと思います。

宮野さんは、先述(第1回)の磯野真穂さんとの共著「急に具合が悪くなる」において自らががんと向き合っていく中で、磯野さんと往復書簡を交わしながら、次第に「選択する」ことの核心に迫っていきます。そして最終章で、感動的な次の言葉を残しています。

選択とは偶然を許容する行為であるし、選択において決断されるのは、当該の事柄ではなく、不確定性/偶然性を含んだ事柄に対応する自己の生き方であるということ。〇〇な人だから△△を選ぶ、のではなく、△△を選ぶことで自分が〇〇な人である事が明らかになる。偶然を受け止める中でこそ自己と呼ぶに値する存在が可能になる。
「急に具合が悪くなる」(P229)

私たちは、どうしても自己というものが確かな存在であり、正しい選択ができる能力があると思いたいし、そう思うことで日々の意思決定を行なっていると思い込んでいます。そして、それは近代以降の、特に西洋の人間に対する基本的なとらえ方でした。

「患者さんの価値観を尊重しましょう、医療者の価値観を押し付けることなく、患者さんの価値観を尊重しながら共同して意思決定をしましょう」ーこれは最近よく取り上げられるShared decision making (SDM:共同意思決定)の基本思想です。医師の言うことのみで決めず、選択肢を提供しお互いの価値観を確認しながら決めていくこと、そこには患者さんも自分の意志で決められるのだという、患者自身の確かな「自己」の存在を疑わない従来からの考え方が垣間見られます。

しかしすでに何回も述べたように,まさに意思決定の場に立たされたとき、そんな確かな自己などないことに気がつくのです。そして宮野さんの言うように、選んでから「そう言う選択をした自己」が形作られてくるのです。むしろ迷えば迷うほど自己はなくなっていく、そしていつの間にか選んだその後で、それを選んだことによって変わっていく自分を発見し、対応していく自分というものを確認していくのです。

恥ずかしながら、私は宮野さんのこの一節を読んだとき、それまでの磯野さんとの長い道のりの末に、なんとこの境地にまで到達されたのかという感嘆と深い納得感から、「本当にそうだよなあ」と夜中にもかかわらず心底叫んでしまいました。(ちなみにこのことは文章を書くという行為にも当てはまるなと思って今、このnoteを四苦八苦しながら書いています。これこれを書こうという確固たる意志があって文章を書くのではなく、書いていくうちに文章全体が浮かび上がってくる。文章も自己も同じ構造なのです)。

米国の哲学者、ダニエル・デネットは著書「解明される意識」の中で、自己を「物語的重力の中心」と呼んでいます。デネットは現代を代表する分析哲学者ですが、その彼が

自己は実体というよりは組織のされ方である。あるいは自己が先にあって、それが物語を作っているのではなく、物語が自己を作る。
(戸田山和久「哲学入門」より:P350,P354)

と言うのです。驚くほど、宮野さんの指摘に一致しており、私の実感にぴったりとあった視点です。

【「中動態」を確保する環境】


今回は医療上の「意思決定」ということについて、いくつかの哲学者の概念を取り上げて、考えて来ました。

青山拓央さんの「無自由」の世界は、人間の「選ぶ/選ばない」から全く隔絶された,物事がそのまま「ただ在る」荒野に私たちを連れて行ってくれます。それは私たちに「選ぶこと」の,そして果ては「歴史が分岐していくこと」の再考を促します。國分さんの「中動態」は、病気になることや治療法を選ぶことにおいて、自発的ではなくかと言って強制でもない柔らかなとらえ方を私たちに教えてくれます。そして宮野さんの到達点は、「選ぶ/決める」時に確固たる自分というものはなく、選んだ後に出来上がる自己を受け止めることの大切さを痛感させてくれます。

意思決定も、そして自己というものもゆるぎのない確固たるものではなく、その都度の状況と自分との絡み合いの中から生じるシステムであり、成り立ちのし方そのものである。そう言えるかもしれません。

だとすると、そうしたシステムをよりスムーズに成り立つようにしていく状況とか場の設定が重要であり、その一端を担うのが私たち医療従事者だと思われます。青山さんは「無自由」を提唱しながらも、人間は他者とのコミュニケーションをする限りにおいて、すなわち二人称的な関係において自由意志がありうる空間を生きていると指摘しています。また宮野さんは偶然を受け入れそれを必然へと引き上げる時に他者の出会いが在ることを指摘しています(これらの議論も相当奥深い,というより医療,ひいては人間観の核心と思われますが後々書いていこうと思います)。

誰が決めたのでもなく、医療者が患者に選択肢を強制するのでもなく、また反対に患者の意志をことさら重要視し、主体的な選択を待つのでもなく、自然に物事が決まるような感覚の共有。あるいは一旦決めてもいつでも考え直せるような環境づくり。そうした「場」はおそらく患者ー医師という二者関係を超えた家族、医療スタッフ、福祉介護スタッフから地域までを想定したシステムとして考える必要があると思われます。

次回は少し具体的にそうした中動態的な「場」の設定をどうすれば良いか、実践的なところを考えてみることにします。

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