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ドキュメントサニーデイサービス感想


ドキュメントサニーデイ・サービス。

ここ最近のサニーデイ・サービスのライブの熱さ、ロックさ、愛情深い暖かさの全てにガッテンがいった。

最近知人に『サニーデイ・サービスってどう良いの?』と聞かれた。
"好き"につながる箇条書き的なワードは浮かぶが、どう良いのか好きなのかを言語化するのが随分と難しくいまいちうまく伝えきれなかった。

曽我部恵一、ライブでの年齢を思わせないロックな演奏と、MCの観客全てを包み込むような暖かな眼差し。ここで燃えて消えてしまいそうな、全て自分勝手に見ていた幻想だったと、なかった物になりそうなそんな儚さを持っているおじさんだと思っていた。
90年代デビュー当時の映像の曽我部恵一を見ていると、嫌味なく漠然と自信家で、どこか退屈そうな、寂しそうな青年がいた。
劇中に田中貴が言った『曽我部は嫌なことを言う、求めてくるのに離れると行かないでと言う』と言うのはまさにイメージにしっくりときた。
エッセイに溢れていた曽我部恵一像とぴったりだ。失恋し布団にもぐり、死んでしまいたいと思うその少年のような儚さをずっと抱えている。
90年代から今に向かっての彼を見ていると、脆さ儚さのレベルは違えど、どこかやはり儚い。この一瞬にかけて全てを終わらせてやろうと言う刹那的な姿勢が演奏姿勢に前面に出ている気がする。
歌詞こそはロマンチシズムに溢れ穏やかな空気が包んでいるが、心はロックスターだ。その一瞬一時に全てをかけて、世界を変えてやろうと、全部燃やし尽くしても良いと思っているような、そんなセツナを生きる姿だ。

ここしばらく、仕事もなんとなく慣れてイマイチ燃え切らず惰性で続けるくらいならここがやめ時かと見切りをつけようとしていた。
それが心底馬鹿馬鹿しくなった。
先のこと、今までのこと、会社への不平不満こそ今もあるが、その瞬間にやりたいことをただ楽しめれば良い。目の前にいる人に楽しんでもらえる愛を捧げばいい。それだけの話がこんなに難しく考えてしまうのが大人になり都会に揉まれる果てなのかと思ってしまう。
やりたいことが何かと明確には決まっていない。でも自分自身には言葉がある、楽器は弾けないが物を綺麗に形容して伝えることは得意ではないかと思う。洋服と自分とのセッションができる。アウトプットするツールがギターではなく洋服で、そのツールを使って伝えていることが、自分が演奏した音楽として人に伝わる。
やりたいことが出来ない、楽器も弾けない、アウトプットするものがない、そうずっと思っていたが、随分と近くにあることを見逃していた。
だとしたらこのギターを片手に自分が何を演奏したいのかイメージし、それをその一瞬の為に弾き注ぐだけである。
これがまた慣らし演奏が癖になってしまった今となっては難しいところだが、それを超えてこそ自分が今やりたいことを体現できるロックスキルが身につくのではないか。武者修行、曽我部恵一BAND編同様。

映画を見ながら、自分は随分と理性的になったものだと思った。良いように見られるため、良い評価のため、出来ないことは他責にし、うまく言葉でカバーして諦めをつけていた。
自分が今何をしたいのか、何をしてる時が楽しいのか、何を届けたいのか、それを考えさせてくれる。
最後のトークショーで『最近ライブでやってて楽しい楽曲は?』と言う質問に、曽我部恵一は風船讃歌と答えていた。
1人でもお客さんが来てくれるならライブをやる意味があると冒頭で話していたのがまさに今の心の軸にあるんだろうなと思った。そりゃあんなに愛情深い眼差しでライブをする。

メジャーデビュー、メンバーの脱退加入、休止、再結成、死別、再始動。そんな歴史も若かりし日の自分自身も包み込んで今演奏しているその領域で、あんなに燃え尽くすほどの熱量で演奏をする姿が好きだ。飾らず今の自分の姿を素直に表現する。カッコ悪いところも全て。

たまたまどっぷりハマったバンドがサニーデイ・サービスというロックバンドだった。ただそれだけだが、自分にはそれで充分だった。


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