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ショートショート15 消し去った顔

 <一流整形外科医が語る。美容整形がもたらす未来>

 実に平凡な講演名だが、客入りは上々で評判も良かった。イベントの主催者と軽い打ち上げをやり、解散したが私は少し飲み足りず周囲をふらついていた。せっかく、出張で地方まで出てきたのだ、このままホテルに引っ込むのはもったいない。

 やがて薄暗い路地裏を少し進んだところに一軒店を見つけた。

 白く光る店名が書かれた看板、長らく使い込まれていたことがわかる色褪せた暖簾。

 それでいて不思議と薄汚れた風には感じず、時間を重ねたことによる風情が漂っていた。

 私は思い切ってそのお店に入ることにする。

 引き戸を開け、暖簾から頭を潜らせるとカウンターが8席、壁側に2人掛けのテーブルが2つだけという予想通りこぢんまりとした店だった。

 カウンターにはおばんざいが所狭しと並び、その食欲をそそる香りに私は自分の直感が間違えていなかったことを確信した。

ーこのこと、誰にも言うなよ。

 一瞬声がした。低くぐもった。でもかすかに震えのある…。

ーわかってるよな。

 大皿に積まれたおばんざいに醜い顔が浮かびあがるーように見え、思わず悲鳴をあげそうになった。

「あら、いらっしゃいませ」するとカウンターの中から一人の女性がすくりと立ち上がり、姿を見せた。

 女性は私を見て微笑む。

 やや切れ長の目にすっと通った鼻筋、蠱惑的ともいえる薄い唇の下には小さなほくろがあり、眉のやや上で揃えられた短い黒髪は白い肌を引き立てている。若くは見えるがその落ち着いた雰囲気から40代といったところか…。いや30代かもしれない…。

 しばし呆然としていた私だが彼女は特段不思議がるでもなく「どうぞ」と自分の前の席を指し示す。

「ああ…」やっとのことで返事をし、「コートは後ろにおかけください」と彼女の案内に従ってカウンター中央の席に腰かけた。

 あたりを見渡すと手書きのメニューと古めかしいビールのポスターが壁に掛けられている。カウンター奥の天井近くにテレビはあるがつけられておらず静かだ。ここにきて客は私一人だとようやく気付いた。

「お客さん、他所から来た人?」彼女は私に熱いおしぼりを渡す。

「うん。でも、なんで?」とそこで横の椅子に置いた土産物の袋を見て「丸わかりだね」と自嘲気味に笑った。

 彼女はにこやかに見つめ返してくる。やはり美しい。どうしようもなく魅力的だ。もう10歳若ければ、間違いなく口説いていただろう。

 注文を聞かれた私は瓶ビール1本と、里芋の煮物など、おばんざいをいくつか頼んだ。

「お仕事ですか?」と聞かれたので私は笑みを絶やさず答える。私は医師で、ここへは学会の発表があり来たこと。そして、明日も午前に講演があり、昼過ぎの新幹線で東京に帰ることなどを饒舌に。時折、目を見開いたり、首を静かに振りながら相づちを打つ彼女を見ながら、私は話した。

「大変ですねぇ」と彼女は手を頬に当てながら首を軽く傾げる。その仕草は10代の少女のようにも見えた。彼女一人でこの店を切り盛りしているんだろうか。店の奥には階段が見え、二階が彼女の住居になっているに違いないが、男が同居している可能性もある。

「一人でこのお店をしてるの? その…」

「あやのです」

「えっ?」思わず声がでた。偶然だろうか。この場所で。いや、彼女は・・・

「彩りに、乃」と彼女は指で空に文字を書く。

 やはりそんなはずはない。字が違う。

「一人でこのお店をしているのかな? 彩乃さんは」仕切り直してもう一度聞くと、彼女は「ええ」と静かに肯定する。名前で呼ばれたからか、少し頬を赤らめているように見える。

 私が頼んだ地酒を用意する彼女の指先を注視するがそこに指輪はない。

「お待たせしました」とカウンター越しから銚子と小さな小鉢が置かれた。小鉢に入っていたのは糠漬けだった。彼女が自分で漬けた自信作らしい。糠漬け特有の香りに私は忘れかけていた数十年前の記憶が蘇るのを感じる。

 そう…。あれは大学生のときだ。

「どうかしました?」

 走馬灯のように駆け巡る記憶に気を取られぼんやりとしていたらしい。

 そう。私はこの土地に来たのは初めてではない。

 今回で2回目だ。淡い、淡い青春の一ページ。

 私は彼女に語り始めた。

***

 あれは大学3年の夏。当時の私は親兄弟から医師としての将来を嘱望されていた。ひたすら勉強に励み、遊びを知らない私を心配した友人、島崎隼人から夏休みを利用して短期のアルバイトをしないかと誘われたのである。今でいうリゾートバイトというやつだ。

 親に相談すると意外なことに快諾を得られたので私は隼人とともに参加。私は小さな和食料理屋に、隼人近くの民宿にそれぞれ働くことになった。

 店を営む夫婦はアルバイト経験のない私にもやさしく接してくれ、私も期待に応えるべく懸命に働いた。いや、そこまで打ち込めた理由を正直に言うと夫婦の一人娘である如月綾乃にアピールするためだろう。綾乃は私より3つ年下だったが、ひと目見た瞬間に私は雷に打たれたような衝撃を受けた。黒くて艶やかな長い髪、少女の面影を感じる華奢な体躯に、小さな顔。それでいて目や鼻、それぞれのパーツはくっきりとしていて芯の強さを感じさせた。私は飲食店の2階にあるひと部屋に寝泊まりしていたが、夫婦の寝室を挟んだ先に綾乃が寝ていると思うと胸が高鳴り、最初の一週間は睡眠すらままならなかった。女性経験はほとんどなかった私だが、熱に浮かされていたのか彼女が店を手伝うときには積極的に声を掛け、勉強を教えたり、店が休みで隼人と集まる際に彼女を仲間に加えたりもした。これまでのプレッシャーから解放され、今だけを楽しめるかけがえのない時間だった。

 日が経つにつれ綾乃との距離も縮まっていき、バイトを終えて部屋で遅くまで勉強をしていると綾乃がやってきて「夜食を食べに行こう」という。オーナー夫婦はすでに寝ており、抜き足差し足で廊下を歩き、階段を下りる。風呂上りの綾乃の香りと、禁を犯している背徳感で私は胸が痛いほど高まっていた。キッチンに着くと、綾乃は冷蔵庫をそっと開けるが、あるのは下準備がされた食材ばかりで目ぼしいものは見当たらない。しかし、彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべ私を奥へと誘導する。床下収納を開け、彼女は中から大きな壺をゆっくりと引っ張り出した。

「これうちで漬けてるの」と慎重な手つきで、蓋を開け手を入れる。ぬちゅぬちゅと奇妙な音を聞き、顔をしかめる私の手を掴み彼女は壺の中に引き入れた。

 温かいような、冷たいような奇妙な感覚だった。壺をまさぐるうちに私の手は彼女の手に触れ、反射的に強く握る。私と綾乃は目を見合わせ、少し笑った。恍惚にも似た感情すら湧き上がる至福の時間で、私は想いを伝えようと決意したのだった。

***

 少し話し過ぎたように思えたが、カウンターにいる彼女は笑顔で私の方を見ており、手は壺の中の糠床をかき混ぜていた。その音が完全にあの日の記憶とリンクする。

 すると、かすかに声がした。まるで赤ん坊が泣いているかのような…。

「きれいな思い出ですね」彼女は私に微笑みかける。

 そう、きれいな思い出だ。今まで忘れていたのが不思議なくらいに…。

「彼女とはその後、どうなったんですか?」彼女が艶めかしい声で私に問いかける。

「そうですね…。まあ昔の話なので…」

「覚えてない?」

「いや…」いや、覚えている。

 私はクイと酒を飲み干し、おかわりを頼んでから再び話し始めた。

***

 翌日、店は休みだったが隼人は忙しくしており、私はあてがわれた部屋で一人、昨夜のことを想いながら一人悶々としていた。

 すると襖がすっと開き彼女が入ってきて、私のそばにあぐらをかいて座り込む。ノースリーブとショートパンツから見える小麦色の肌が眩しく、思わず息をのむ。

「ねえ」綾乃は私の顔を覗き込む。「今日の夜、一緒に花火しない? 二人で…」

 その誘いに興奮した私は思わず綾乃への想いが口をついた。

ー好きだ。と。

 頬を赤く染める綾乃を抱きしめたい衝動を抑え、手をそっと握る。軽く汗ばんでいるその手は、昨晩つないだときとは違い、まぎれもない綾乃の体温が感じられた。

 この時点で夏休みは残り3分の1になっていたので、私たちは生き急ぐように思い出を作ろうとした。昼休憩の際は一緒にご飯を食べ、夜は日付が変わるころまで互いのことを語り、休日には綾乃に周囲を案内してもらったりした。綾乃の両親、つまり私の雇い主は察してはいたが黙認しているようだった。長くは続かない、若いうちに誰もが経験するひと時の恋、と思っていたかもしれない。無理もない。現に私たちの別れは刻刻と近づいていたのだ。

 私たちはデートこそ重ねていたが手をつなぐのが精々だった。一度、夕日がきれいに見える海辺に連れていってもらえたとき軽い口ずけを交わしたが、そのきりだった。

 言うまでもないことかもしれないが私は綾乃に触れたかった。綾乃の細い唇に自分の唇を合わせ、まだ少女のようなか細い腰に手を回し、肺いっぱいに匂いを吸い込む様を想像するだけで下半身が熱くなり悶々としたこともある。

 もっと強くつながりたい。このままでは私がこの島を発って間もなく綾乃は私のことなど忘れてしまうだろう。私は焦っていた。

 肉体的つながりと、精神的な結びつきを切り離して考えるには当時の私は若すぎたのだ。

 この生活も残り一週間になったとき、店の片づけをしている私に綾乃が近寄ってきた。おもむろに私の腕を掴み、何かを手首に通す。

 ミサンガだった。

「手作りなの」とはにかむ綾乃を私は猛烈に抱きしめたくなり、今まで抑えていた劣情が体の芯からあふれてくる。

 同じミサンガを付けた綾乃の右手首を強く引き、一緒に2階へと駆けあがった…。

***

「はい。牛肉のしぐれ煮です」カウンター越しに小さな器を差し出される。

 彼女の細い手首にはミサンガが巻かれており、強く握られたような跡があって…。

「いらないんですか?」彼女の声でようやく我に返る。

「いや、ありがとう」器を受け取り今一度彼女の手首を見たが、当然そこにミサンガなどあるはずもなかった。

 そしてまた…。赤ん坊の泣き声がした。2階からだ。

 酒もあるだろうが話に熱が入り過ぎていたようだ。目を閉じると彼女の姿がはっきりと浮かぶ。きめ細やかな白い肌、触れるとかすかに感じられるうぶ毛、鼻腔を通して脳に刺激を与えてくれる甘い香り…。

 気が付けば私の下半身はむくむくと大きくなっていた。全身が滾ってくるいつぶりだろうか。

 目の前にいる着物をまとった女将の顔が当時の彼女に重なる。そういえばどことなく面影が感じられる。

「少し飲みすぎられました?」私の隣には空になった徳利が4つ転がっていた。

「休んでいかれます?」彼女が蠱惑的にほほ笑む。

 今すぐ透き通っているかのような白いうなじと首筋に唇を這わしたい、という衝動に駆られる。

「もしあれでしたら2階へ…」と彼女はカウンター奥にある階段を示した。間違いない。彼女は私を誘っている。私は立ち上がりながら彼女に視線を向ける。そっとうなずく仕草に私は確信した。暖簾をおろし、彼女も2階へ上がってくるのだ。

 はやる気持ちを抑えゆっくりと階段を上る。狭い踊り場の左手には襖があり開け放つと6畳ほどの和室が広がっており、その大きさ、家具の配置に私はしばし呆然とした。

 左手奥にある木製の勉強机と、それとはやや不釣り合いのキャスター付きの椅子。右手には布団が几帳面に三つ折りにされ、その上には枕が…。
間違いない、あの部屋とまるで同じだ。

***

 あのとき、私は綾乃の部屋に向かった。熱い抱擁を交わしたあと、私は綾乃を椅子に座らた。膝を曲げ大きく開脚させる、スカートがめくれ上がり、下着があらわになると、戸惑う綾乃をよそに私は、内ももに軽く口づけをした。消え入りそうな声であえぐのを聞き挿入したい気持ちを抑えながら、私は柔らかな脚に舌を這わせ、秘部へと近づく。下着を指で横にずらし茂みへ顔をうずめた。太ももの滑らかさに比べるとかなり深く、濃い茂みを掻き分け舌を這わし、唇で吸い、あふれてきた愛液を口に含む。はじめは羞恥から抵抗をしめしていた綾乃も徐々に私を受け入れてくれているのを感じた。互いの体を遠慮することなく貪り、快感を与えらる場所を確かめ、そこに愛があるのかを確認しあう作業はこれ以上なく甘美な時間だった。

***

 和室に足を踏み入れたところでぼんやりとしていると彼女が背後から手を回してきた。ゆっくりとシャツのボタンを外し、隙間から私の胸をまさぐり愛撫する。

 あのときと同じだ…。綾乃を抱いた当時の興奮がよみがえり、私のアソコは痛いくらいに勃立していた。たまらず、彼女に覆いかぶさり、そのまま畳に倒れこむ。衣擦れの音が私の興奮を掻き立て、もどかしく、力づくで脱がそうとする私を彼女はたしなめるように押し戻す

 仰向けになった私の上に彼女がまたがる。そして、私のアレは導かれるまま彼女の中へ入っていった。

 彼女が腰を動かすたび、豊かな胸が揺れ、私が下からそれを鷲掴みにする。

 柔らかく温かい肉体を全身に感じながら、彼女の顔が綾乃に重なる。

 やがて…。

 綾乃の下腹が徐々に大きくなってきた。私の手をつかみ、その膨らんだ腹を触らせる。「ねえ、わかる? あなたの子どもよ」

 そうだー。

 彼女はー。綾乃はー。

「うそつき」

 彼女は髪を振り乱し、腰を動かしながら叫ぶ。

「うそつき! うそつき! うそつき!」

 そうだ。その通りだ。

 私は、綾乃と付き合ってすらいなかったのだから。

 やがて綾乃の顔がぶにょぶにょとグロテスクに崩れていく。
 
 そのあまりの醜さに私はたまらず悲鳴を上げた。たっぷりと水分を含んだ肉片が顔に降りかかり、私は意識が遠のいていくのを感じた。

***

 
 馬鹿にする周囲を見返すため、私はひたすら勉強に時間を費やし、三流大学の医学部へと入学した。

 しかし、三流といえど頭がいいのは当たり前の世界で、どうにかしがみつくように合格した私とはそもそもの格が違った。

 その上奴らは、育ちが良く、顔だちも整っていた。醜く太り、脂ぎった私は相手にされるはずもなかった。

 そんな中、隼人だけが私に親切だった。ともに苦学生という境遇が似ていたからだろう。まあ、彼からはそんなことを微塵も感じさせない上品さや屈託のなさがあったが…。

 バイトに誘われたのも、勤めた飲食店に綾乃がいたのも本当だ。

 しかし、綾乃が心惹かれたのは隼人で、私はただ二人の様子を少し離れた場所から見ているしかなかった。勉強をしているときも、夕日のきれいな浜辺で二人がキスをしているときも…。

 なぜこうも違うのか。なぜ隼人で私ではないのか…。私のほうが近くにいたはずなのに。

 綾乃も隼人も私を避けるどころか積極的に三人で一緒にいようとする態度も私には見せつけられているようにしか思えなかった。

 最後の日の夜、綾乃は私にミサンガを渡してきた。「友情のあかしだ」と。

 彼女の屈託のないほほ笑みに私はある種の憎しみすら感じた。私の気持ちを知っているのかと。知っていてもてあそんでいるのか。それとも…。

 湧き上がってくる情動を私は抑えられなかった。

 彼女の腕を掴み、部屋へと連れて上がり、押し倒し、スカートの中に顔をうずめた。

抵抗を示す中で彼女が「やめて、気持ち悪い!」と喚いた。私の理性は完全に失い、彼女のアソコの匂いを吸い込み、胸を揉みしだき、唇を奪ったのだ。

 ことが終わり、綾乃は呆然としていた。

「わかってるよな。誰にも言うなよ・・・」と私は言う。彼女が処女でなかったことが、私自身の最低な言動を肯定させた。彼女は何も言わずに頷いた。

 私は逃げるように隼人を放って島を出た。大学がはじまっても顔を合わせたくないので、連絡を無視したし、講義では離れた席に座ったし、構内ですれ違っても徹底的に知らないふりを決め込んだ。私の中であのときの行為を正当化する理論はあったが、さすがにそれを第三者に振りかざすほど、私の神経は図太くはなかった。

 数週間ほどしてあれほどしつこかった隼人からの連絡はこなくなる。ホッとする一方で、「まあアイツは俺なんかいなくても何とも思わないものな。優秀だし」と僻んでいる自分もいた。

 そんな中、風のうわさで隼人が退学したと聞いた。家庭の事情、両親が夜逃げをした、女性をはらませた、怪しいビジネスに手を出したなど、さまざまな憶測が流れる中で、私だけは綾乃に関係あることに違いないという確信があった。

 もし、綾乃が私にされたことを告げ口したら…。いや、もしそうなら退学などせずに、警察にでも相談するのが得策ではないのか。しかし、この手の事件は被害者女性が口をつぐむケースも多いらしいし…。さまざまな思考がうずまき、私が不安で眠れない日々が続いた。自宅で寝ていると警察が訪ねてくる悪夢にうなされたこともあった。現実から逃げるように私は朝から酒を飲んだ。

 夕刻過ぎにアルコールの回った頭で、こともあろうに私は勢いに任せて隼人に電話しようと考えた。事実を確かめすっきりしたいという思いが大きかったのだろう。

 コール音が続き、自分のしている大胆に気づき切ろうとした瞬間ー隼人が出た。

「ー死んだよ…」

 第一声がそれだった。すぐに彼女のことだと悟る。

「海でさ…。浮かんでたんだ…」

 隼人の声が涙でぐもる。

「妊娠してたんだよ、彼女」

 亡くなる前に彼女から隼人に連絡があったそうだ。父親のことについて一切言及しなかったので、週末に会って話す予定を取り付けたが、それを待たず彼女は自らの命を絶った、ということだろう。

 私は絞り出すような声で静かに「そうか…」とだけ言った。隼人の心中を察しかねた。綾乃と体の関係はあったにしても、彼のことだ。慎重を期したはず。となると、彼女が身ごもった子どもの父親は、私である可能性があると疑ってもいいはずだ。

 なのに、まだ彼は私を責める気配はない。

 最愛の人が、父親かわからぬ子ーほかならぬ私である可能性が高いがーを身ごもっままま亡くなった事実にひたすら打ちひしがれているだけのようだった。

「またな」

 そう言って電話が切れた。隼人と話したのはそれが最後だった。


***

 
 それから私はすべてを忘れるかのように勉強に打ち込んだ。はじめからそのつもりだったのだ。身も心も醜い私は、勉強することでしか自分の価値を証明できない、今まで私を馬鹿にしてきたやつを見返せない、そう思っていたではないか。整形外科という道に進み、自らの体、顔をもって新しい技術に挑戦を重ねてきた。完全に生まれ変わったのだ。コンプレックスを持ち、それを自らの手で克服した一流整形外科医の話は人々を魅了する。共感と哀れみと羨望が入り混じった深い感動を呼んだのだ。病院を経営し、人を育成し、講演で各地を回り、テレビ、雑誌の取材を受け、エッセイ本も出版した。あまりの多忙さに過去ー綾乃や隼人のことーなど忘れていたし、大学時代の同期も今の私と当時の記憶を結びつけるものはいないだろう。私は過去を捨てたのだ。今は成功して、妻も娘がいる。愛し、愛されている。何度出張に行こうがそのたびに土産は買っていて今回ももちろん忘れていない。

 でもー。

 私は女を抱いた。

 抑えられなかった。

 整形をした途端、女の私を見る目が変わったーように感じたのだ。

 こうやって飲み屋で知り合うこともあれば、そういう店に出向くこともあった。

 女は一様に喜んでいたし、私も青春時代を取り戻すかのように女を抱いた。

 やがて快感はなくなったが、セックスをすることで私は自尊心を保つことができた。

 今もそうだー。今も、私は偶然入った店の女将を抱いている。はるか昔に凌辱した女性の姿を重ね、背徳と興奮を感じながら…。


 彼女の動きが激しくなり、雄たけびを上げると同時に二人して絶頂を迎えた。

 彼女は挿入したまま、私の上に倒れこむ。

「気持ちよかったわ。とても」

 その声は、綾乃のものではない。先ほどまで私に手料理をふるまっていた小料理屋の女将だ。なにも変わりはない。当たり前だ。彼女はとうの昔に死んだのだから。

 彼女は両手で私の顔を挟みいとおしむように撫でまわす。

「悪い子。奥さんいるんでしょ?」

 いつもと同じ会話だ。私は完全にいつものペースを取り戻した。

「悪い子、悪い子、悪い子」といつまでも顔を触る彼女をはねのけ、立ち上がる。

「ありがとうね。帰るよ」私は彼女に色をつけてお金を渡す。

 外されたシャツのボタンを留めながら、一階へと降りた。

 するとー。

 カウンターにうずたかく積まれていたおばんざい一つ一つに醜い顔が浮かびあがってきた。

ー誰にも言うなよ。

ーわかってるよな。


 声がこだまする。


ー彼女、妊娠してたんだよ。


 これは隼人の声だ。


 それらの声から逃げるように私は店を飛び出した。

 全力で走り、近くにあったトイレに駆け込む。


 酔っているんだ。そうに違いない。

 洗面台の蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗う。

 そして、顔をあげるた。

 目の前の鏡には、私の「かつて捨てた顔」が映っていた。

 うそだ、うそだ、うそだ!

 衝動的に頭を鏡にぶつけ、鏡を割る。
 しかし、鏡の一つひとつは残酷にも私の顔を映し出す。
 醜い。醜悪だ。気持ちが悪い。吐き気がこみあげてくる。
 先ほど食べたものを盛大に戻した後、私は虚脱しその場に座り込んだ…。



                              (了)

 

 



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