言葉はギフト
ダイヤモンドは
ダイヤモンドで磨くんだそうだ。
(他にはレーザーやイオンビームとやらの加工法があるそうです)
硬さの問題みたいね。
じゃあ
人間力 とやらを磨くには
人間も人間同士
擦り合わせて研磨する?
そんなわけにはいかないし…
むしろまず、イヤだ笑
じゃあ
どうやって磨きをかけるか?
人だからこそぶつからずとも
磨きは出来ると思ってる。
それは言葉の使い方や
人との関わり方でしか
学べないとも思ってる。
言葉は相手に渡すギフトでもあり
相手から受け取るギフトでもある
目の前に用意されるのが
望むものばかりとは限らない
望まない相手にも渡さねばならぬこともある
渡したい相手にこそ
上手く用意できないことも少なくない
当然だ、と
心揺れず微笑みながら言えるほどに
やり取りを重ねてきた。
言葉のギフト
『好き』だの『嫌い』だの
『欲しくなかったもの』と判断するのは
解釈や認識、価値観、経験値の差から起こる感情であり
どう受け取るか
どう渡すかも
解釈、認識、価値観、経験値の差が出てくるところだと思う。
幾つであろうが
『ギザギザ』『ザラザラ』を認識していても、していなくても
そのまま加工もせずに
誰かに渡してしまう人もいる
磨きや加工のテクニックやツールが
先の解釈、認識、価値観、経験値だとして
それを使いこなす技を自らに備えるつもりがあれば
『ギフト』を次の誰かに渡す時
磨き直して渡す相手に合わせた加工を施し手渡すことも可能だ
様々な人と関わることで
そう考えられるようになった私は
ギザギザ、ザラザラどころか
トゲトゲ、キリキリを
そのまま誰かにぶつけた経験と
その後悔と胸の痛みに向き合い
受け取ったからなのかも知れない。
『ギザギザ、ザラザラ』を受け取った時感じた気持ちは
それを
そのまま受け取った人の気持ちに気づく為のギフトだった
と受け止め思えたから
今となればそれも悪くない。
過ぎて終えば一つの経験値でしか無くなる。
有難い気づき、だったわけで。
その感謝の気持ちは
また違う誰かに渡せば良いと思ってる。
循環させずに止める、留まる方が
申し訳ないと 何故だか昔から思うのだ。
こんな考えを持つ私は
言葉と行動が連動していない場合非常に耳障りな言葉の一つに
「すいません」があると思う。
綺麗になる為の場所で
無意味で無駄な連発は勿体ないと感じる為
本当の意味で綺麗をサポートしたい人には
「ありがとう」に置き換えてみては?とご提案することがよくある。
その人のエネルギー的な部分からそうなれると感じるし、
ご自身の本来の美しさと強さを知って欲しいからだ。
言葉は毎日使うから
自然とその言葉の意味通りに
身体が動くように思う。
表情は特に分かりやすく現れてくる箇所だし
それが自身と周りに及ぼす影響は
計り知れない。
しかし多くの人は
それに気が付かずに
目を向けずに
無意識にまたは
意図して?言葉を選び
日常をただこなしているようにも見える。
髪のことやスタイリングのことを聞かれるのは日常茶飯事で
惜しげなく技をお教えするたび気づくのは
意外にも
「なるほど!」や
「ありがとう!」と
特に付き合いの浅い関係で
初めからそう仰ってくれる人って
実はとても少ない。
(多いのは「難しいなぁ〜」とか
「めんどうだ」など。
まぁここでもギフトの使い方にコツがあるが大抵「なるほど」に持っていける)
代わりに なぜか
「私 美容師じゃないから」や
「知らなかったんで」と
見りゃわかるて、と言いたくなる様な
謎の返事をする人も
少ないが、いる。
(自己肯定感の低い他責思考の人に多い)
知りたいから聞く、
知らないから教えてもらう。
今までのやり方では
どうにもならなくなって
困っている
そこから抜け出すために
答えを知る人に聞く。
はずなのに
シンプルに素直になれないと
小さな問題も拗れてしまい
手がつけられなくなっていくのだなぁ… と眺めているが。
どんな言葉を
どのタイミングで
誰に届けるか
ある程度の年齢を境に特に差が出る
言葉の違い。
それは同時に見た目を作るもの。
ギフトの交換でしか無い
些細な言葉のやり取りから
人間性は作られる。
「自信がない」
「自分なんかが」
そう言いたくなったら
それを受け取った相手に何を渡すのか 考えてみると
その言葉を使うのをやめられるかも知れない。
それでもその言葉を聞いて欲しいなら
「どうしたらいいかな?」を付け足してみてはどうだろう。
磨いてくれる相手は
真逆のギフトを持ってぶつかってきてくれるかも知れない。
受け取るか
投げ捨てるかも選べばいい。
人間は何もしなけりゃ
現状維持 そんなはずは無い
堕ちて朽ちるだけ
だから思い切って磨き上げて
ダイヤモンドになっちまえ
って思ってますよ、
以上です。
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