NO.2の育て方⑳役割に相応しく振舞うためには?~重職心得箇条から学ぶ~
「重職心得箇条」とは、幕末に幕府で鞭を取っていた佐藤一斎が出身地である美濃岩村藩で作った重役の心得をまとめたもので、聖徳太子の17条憲法に倣って17条の形式で説いたものです。
過去の名著や歴史から学ぶというのはどんな時代になっても大きな意味があります。そして日頃から思うことは、人間というのは学びを忘れて、同じ轍を何度でも踏み、あまり成長しないものだということです。
今回は重職心得箇条を題材にトップとNO.2の関わりを検討しようと思います。
重役というと、専務や常務など役員クラスを思い浮かべてしまいますが、もう少し広い意味で解釈すると、マネジャークラスの方々にも当てはまると思いますし、NO.2のポジションにいる人はもちろん対象となります。
第1条で述べられていることを簡潔に言うと、その役割に相応しい振る舞いをせよということです。
原文を読むだけでも何となく意味は伝わると思いますが、軽く訳をつけてみます。
「重役は国家の一大事を取り計らう役目を担っているので、軽々しい人物では務まらない。言動に重みを持ち、威厳を保つよう心掛けるべきである。重役はトップに代わり、さまざまな課題に向き合い、人心をまとめ、成果を出してはじめて役割に相応しい働きと言える。」
「小さなことを疎かにしたり、兆しを見落とすようでは大事を成すことはできず、万事抜かりなくやっていれば自ずと大事を成すことができる。国家運営はその役割に相応しい振る舞いをすることから始まるが、先ず、重役とは何であるかを問うことがスタートラインである。」
と、こんな感じです。
名を正す(役割に相応しい振る舞い)という言葉が繰り返し登場するのですが、人事が発表され、部長、常務、専務、副社長など立派な職位を拝命する際に、その役割は具体的に何かということは多くの組織で語られることはありません。
任命者であるトップも拝命した本人も「こんな感じの働きをして欲しい」「多分こんなことを期待されている」といった曖昧な感覚で職務が始まってしまうのではないかと思います。
違う表現で例えるなら、どの山に何の目的でどうやって登るのかを定めることもなく、漠然と山に登らないといけないと思っているような状態です。
具体的に何をすべきか明らかにしないまま、お互いの感じ方のギャップを埋めることなく、仕事に取り組んでも、評価者であるトップの覚えはきっと良くならないと思いますし、さしたる成果も上げることはないでしょう。
考えてみると、組織にはさまざまな役割があるものの、その中身が具体的になっていない場合がほとんどです。
班長、マネジャー、経営幹部、それぞれに役割、職責、目標、権限などがあるはずなのですが不明確なままそのポジションに就いて、何となく仕事をしている。それが多くの組織における日常ではないでしょうか。
その第一の原因は任命者であるトップにあります。
過去の功績を鑑みて、さらに一段高いステージで具体的に何をして欲しいのかを明確にせずポジションを任命してしまう。これでは正直何を頑張ったら良いのかわかりません。自分なりに考えたことをやってみても正解とは限りませんし、そもそも正解がないのであれば頑張りようがありません。
組織が抱える課題はさまざまです。
売上は順調に増えているが、離職率が高い、人材育成ができていない。売上が激減していて、離職率も高い。新規事業が思ったように伸びない。数年後のイメージが描けないなど課題は組織ごとに異なります。
いま何を具体的に期待されているのか。組織の課題によって役割が変わってきます。
第二の原因は、その重役本人にあります。何を求められているのかが不明確なのであればトップに確認をすればよいはずです。
自分の勝手な解釈で課題設定しても、その取り組みが見当はずれであれば組織にかえって混乱を生じさせるだけですし、トップに対しても期待していることの優先順位に背いてしまう結果になるので、頑張るほど無駄な努力になってしまいます。
重職心得箇条を初めて読んだ時の違和感はここにあります。
心得としてはもっともです。でも多くの組織では役割というものが不明確であるからこそ組織の構成員がてんでばらばらに方向違いの努力をして、疲弊しているのではないか。
どんな役割を果たさないといけないのかという前提条件が整っていなければどんなに決意をしたところで何の意味もない。そんなように個人的には感じました。
才能や実績も熱意もあり、人間的にも良い。決意もある。それでも活躍することができない。
その原因は単にボタンの掛け違いであることを認識しないといけません。
言わなくてもわかるよね?では伝わりません。
最後までお読みいただきありがとうございます。