見出し画像

広島の朝 1945年8月6日 午前7時

(あらすじ)

広島市内にあった産業奨励館。現在は原爆ドームとして知られるこの建物で戦前・戦中と働いてきた職員の眼を通してみた、8月7日の朝の出来事とは。原爆ドームが、実際に人々が働く場所として心の交流があった時代を描いた作品。

(5868文字)

(2022年8月7日発表の作品を再掲載)

-----------------------------------------------------


誠一はその朝、普段より早めに家を出た。朝一番にどうしても済ませなければならない書類仕事がある。自宅近くの停留所に着くと、はやる気持ちで七時のトラムを待った。到着したトラムはすでに少し込み合い始めていた。誠一はトラムに飛び乗り、職場の近くの停留所へ着くのを待った。道は行きかう人々で込み合っており、雑踏には朝の忙しさが感じられた。

トラムが停留所へ着くと、誠一は急ぎ足で職場の産業奨励館へ向かった。産業奨励館ではその日も当直が早くから玄関を開けてくれていた。正面玄関を入ってイオニア式の柱のある広間を過ぎると、速足で自分のデスクのある執務室へ向かった。

戦争が始まった頃は、産業奨励館は絵画展などの開催で忙しく、毎日のように書類仕事があった。藤田嗣治などの画家の描いた絵画を集めた展示会は盛況ではあった。しかし戦局が苦しくなるにつれ、産業奨励館は本来の役目は一旦停止し、今では内務省の出張所が何件も入る建物となっている。

誠一はその建物の管理部門で、各入居者からの要望や苦情を処理する役目を負っていた。今日は一階と二階の入居者の部屋の修繕と水回りの管理である。一刻も早く修繕して欲しいとの要請から、昨日は書類を家に持ち帰り、すべてに目を通して必要事項を記入し、判子を押すところまで整えていた。

鞄を開いた誠一は、しまったと顔をしかめた。大事な書類だからと自分の部屋の机に置き、朝慌てて出てきたせいで、書類をまるまる自宅に置いてきてしまったらしい。

「あれ、池田さん。おはようございます。今日は早いですね!」

事務第二課の森田が声をかけてきた。今日は早番の様だ。

「早いも何も、書類を早く処理しようと思ってきたのだが、その書類自体を家に忘れてきてしまってね・・・今何時だい?」

「まだ七時半ですよ」

「そうか。今から一旦家に戻って書類を取ってくる。誰かが俺を探していたら、8時半までには戻ると伝えておいてくれ」

「承知しました。相変わらず池田さんは忘れ物が多いなあ。。。皆知っとるから大丈夫ですよ。いつもの通り忘れ物があったと言っておきますから」

森田は楽しそうに笑うと、自分のデスクへ歩いて行った。

産業奨励館から自宅のある広島の郊外まではトラムで二十分ほど。トラムの待ち時間を含めても、一時間で悠々と戻ってこられるはずだ。誠一は再度正面玄関から外に駆け出ると、トラムの停留所へと走っていった。

ちょうど出勤時間とあって、町はどんどん人出が多くなってきている。ほどなくしてやってきたトラムに乗り込むと、誠一はひとつ大きなため息をついた。

日頃から忘れ物が多いと自覚をしているのだが、肝心な時に限って忘れ物をしてしまう。妻の早苗が出がけによく注意してくれるのだが、今日は早苗が台所仕事をしている間に飛び出してきてしまった。妻を頼りすぎてもいけないのだが、それにしても急いでいるときに限って普段の癖が出るのは何とも忌々しい。

街と反対方向に向かうトラムは幸いながら空いており、空席を見つけることが出来た。やれやれと腰を下ろして少し落ち着くと、車内を見渡す余裕が出来た。休暇が取れたのだろうか、若い兵服の男性が数名集まって向かいの席に座っている。これから家に帰るのかもしれない。呉の海軍が駐留している港から、こうして広島へ帰ってくる若い兵士達は多い。

誠一の三男の茂も先週家に帰ってきたばかりだった。技術者の茂は呉の港で戦艦の修理や保全に携わっていた。軍事拠点である呉の港は先週四度の空襲があり、壊滅状態になったと聞いた。

「軍事施設だからいつかは、とは思っていたけれどさすがに三日連日での空襲は悲惨なものでした。被害は相当なものだったと聞いています。その後も二十九日にもう一度空襲があり、せっかく修理をしてきた軍艦がいくつもやられてしまった」茂は悔しそうに言った。

外では言えないが、こうして息子が無事に家に帰ってきてくれただけでも有難い。周り近所では若者たちが南方に出兵しており、戦況が芳しくない現在、戦争に出ている若者たちからの連絡はほぼ途絶えていた。

誠一の子供達は、戦中、様々な場所に散らばっていた。

長男の達也は南方へ送られている。妻の美代子と6歳の孫息子の二人は広島市内の自宅で達也の帰りを待ちながら、時々私たちを訪ねてきてくれる。

次男の克人は若い頃一人でアメリカに渡り、かの地で戦争を迎えているはずだ。次男とは戦争が始まってからというもの便りが途絶え、今はどこでどうしているのかも分からない。

五年前に結婚をした長女の百合子は大阪で暮らし、中国に出兵した夫の康人を待ちながら、四歳の孫息子と、産まれたばかりの孫娘を育てていた。

四男の哲郎は、まだ未成年のため、学徒動員で広島市内の食品関連の工場で働いていた。今日ももうすでに出勤している頃だろう。

向かいに座っている若い兵隊たちを見ていて、子供たちの事が一気に思い出された。

50代をとうに過ぎていた誠一には、今回は赤紙が来なかった。先の大戦ではお国に尽くすことが出来たが、今回は兵としては参加できないようだ。

はっと気が付くと、若い兵隊達の横には見た事のある顔が座っている。その人は立ち上がり、速足でこちらに来て誠一に話しかけた。

「池田さんですよね?ご無沙汰しております」

20代と思われる女性だった。よく見ると、奨励館でよく顔を合わせていた茶道と生け花の講師だった山田芳子だった。娘の百合子と年頃も近いせいか、戦前産業奨励館が普通に機能していた時は気軽に声を掛け合ったものだった。

「やあ、山田さん。こちらこそご無沙汰をしております。こんなところでお目にかかれるとは。お元気そうで何よりです」

「池田さんもお元気そうで。この時間のトラムに乗っていらっしゃると言うことは、もしかして奨励館でのお仕事はお辞めになってしまったのかしら?」

「いやいや、お恥ずかしい事に今朝は大事な書類を家に忘れてきてしまいましてね。今急いで家に戻る所です」

「そうでしたか!それではまだ奨励館でお勤めなんですね」

「はい。中は色々変わりましたが」

「そうでしたか。そちらで講座を開いていたのが懐かしいですわ。お茶やお花の講座に出ていた生徒さん達とはまだ連絡を取りあっているんですよ。疎開されたり、広島にとどまっていらっしゃる方もいたり」

「それはよろしい事ですね」

誠一はふと数年前の芳子とのやり取りを思い出した。茶道の講座が開かれる部屋で支度をしていたはずの芳子が慌てて事務所にやってきて、囲炉裏に入れる炭が無いと言ったのだ。これは建物を管理している我々のミスだった。炭が熾っていなければ湯を沸かすことも出来ない。講座はあと数十分で開始だ。事務所の若い者が大慌てで走り、炭を購入して戻り、何とか滑り込みで講座に間に合った。あの時の事務所の慌てぶりは今思い出しても身が縮む思いだ。

「奨励館は懐かしいですわ。気軽に行ける所ではありませんが、あの螺旋階段は今も健在でしょうか?講座の前にあの階段に飾ってある沢山の美しい品を眺めるのが大好きだったんですよ」

螺旋階段は今も健在だった。広島県の誇る選りすぐりの工芸品を螺旋階段に陳列し、訪れる人たちに宣伝をする。工芸品の入れ替えをするのも誠一たちの仕事の一つだった。

芳子と話しているうちに、奨励館が本来の業務を行っていた頃が思い起こされた。広島の物産の陳列や宣伝。絵画展などの文化活動や、博覧会などの華やかな催し物。その裏方で働いていた誠一たちは、一日も早く本来の業務が戻ってくることを心の中で願っていた。

「螺旋階段は今も健在ですよ。この戦争もどうなるかわかりませんが、山田さんもいつかもう一度戻ってきて、お弟子さん達にお稽古をつけてあげてください。文化の火を絶やしてはもったいない」

「本当にそうですね。あ、私次の駅で降りないと。それではこちらで失礼いたします。池田さん、またお会いしましょうね」

芳子はそう言うとトラムの出口から足取りも軽く出て行った。

一瞬ではあるが、懐かしい顔を見た誠一の気持ちは戦前に戻ってしまっていた。もう一度奨励館を活気づいた文化の発信地にしたい。すべては戦争に勝って、世の中が落ち着けばもう一度立て直せるものだ。それまでは、今奨励館に入っている内務省の方々に居心地よくしてもらわなければ。

トラムが自宅近くの停留所に着いた。時間を見ると8時を少し過ぎていた。今から走って家に戻り、書類を取って、もう一度帰りのトラムに乗れば何とか定時に間に合うかもしれない。

誠一は駆け足で自宅に戻り、玄関の戸を引いて中に入った。引戸が閉まる音に驚いた早苗が大急ぎで駆けてくる。

「どうなさったんですか?こんな時間に戻ってこられるなんて・・?」

「いや、大事な書類を忘れてしまってね」

「またですか」早苗はころころと笑った。

「そう笑うなよ。これをもってとんぼ返りをしなければ」

「お急ぎだったのでしょう、大汗をかいていますよ。冷たいお水があるから一口飲んでいきんしゃい」

早苗は奥に行くと、茶碗に水を入れて戻ってきた。そういえば喉がからからになっている。今日はとにかく暑く、一杯の水が身体に染みるうまさだった。

気持ちを落ち着け、再度玄関に向かおうとしたとき、とてつもなく眩しい白い光が玄関や窓を貫き、すさまじい爆音と振動ともにガラスが割れ、家の中に向けて飛んできた。衝撃があまりに強くて立っていられない程だった。

台所にいた早苗の悲鳴が聞こえた。

「無事か!」

「こちらは大丈夫です。今のは?」

「近くに爆撃があったのかもしれん。おかしいな、空襲ならサイレンが鳴るはずなのだが・・・」

「哲郎は?あなたと入れ違いに街に出勤したばかりなのに」

「とにかく私も一旦戻って街の様子を見てくるよ。もしかしたら敵機が来たのかもしれない」

そんなことを話しているうちに、焦げ臭い臭いがしてきた。

「池田さん!池田さん!」

外から隣の岡本さんの叫ぶ声が聞こえる。

「どうしました!」

「ああ、いらっしゃったんかい!消火を手伝ってください!先ほどの揺れで向かいの鈴木さんの家から火事がでて」

外へ駆け出ると、近所が一変していた。あちこちの家から黒煙が上がり、どの家もガラスが割れていた。

誠一は岡本さん達と大急ぎで水を汲み消火に当たったものの、火の手は広がるばかりだった。

誰かが叫ぶ声が聞こえた。

「これは我々の手に負えないけん!年寄りと子供たちは防空壕へ一旦非難したほうがいい!」

「街の方はやられたようだ。先ほどから見たことも無い、まるでキノコの様な雲が街の上に上がっている」

「街がやられた?冗談じゃない、うちの子が工場で働いているんですよ?!」

火事と、とぎれとぎれに入ってくる街の様子に、誠一達は一時混乱の渦に巻き込まれていった。

消火活動を再開させたのはその後しばらくしてからだった。誠一達の手では、とにかく火の手が広がらないようにするので精いっぱいだった。

そのうち雨が降り出した。もしかしたらこれで出火も少し収まるかもしれない。そう思って近くにいた岡本さんの顔をみた誠一は一瞬ぎょっとなった。岡本さんの顔も服も黒くなっているのだ。

誠一の顔を見た岡本さんが言った。

「池田さん、顔も服も黒くなっていますよ。なんじゃろう、煤ではなく、なんだか黒く濡れているようですな」

ほどなくして、誠一たちは自分たちが煤で黒くなっているわけではなく、降りしきる雨水が黒いのだと気が付いた。

「おかしいな。こんな黒い雨など見たことが無い」

その日の午後から誠一達の生活は一変した。

広島の街の中心部は壊滅状態になった。多くの人達が亡くなった。

四男の哲郎は、長い事見つからなかった。誠一と早苗は遺体収容所を何か所も周り、哲郎の特徴の一つである首にあざのある遺体を探したが、どの遺体も悲惨な状態にあり、識別することは困難だった。

情報はとぎれとぎれにやってきた。あの日、八月六日に広島に落ちたのは新型の爆弾であったと言う事。途方もない数の人が亡くなり、生き残った人たちも火傷や原因不明の体調不良に悩まされたという事。

誠一と早苗は、引き続き哲郎を探した。ある日、目に飛び込んできたのが誠一が働く産業奨励館だった。

建物は見るも無残に破壊され、かろうじてドーム型の屋根で産業奨励館だと分かる。

誠一は呆然となって建物の前で立ち尽くした。中にいた同僚達や、入居されていた内務省の人たちはどうなってしまったのだろうか。

この時誠一は自分が生きて残ったことが信じられなかった。

あの日、書類を忘れて家に戻らなければ、自分はここで瓦礫の下に埋まっていたかもしれない。

それを考えると、自分が生き残ったことを恥じる気持ちが芽生えた。

今の段階では分からないが、あの日産業奨励館に出勤してきた人々はあの爆弾にやられてしまったのかもしれない。あの日トラムで会った山田芳子はどうしているのだろうか。自分たちの日常がこんなにも一瞬で奪われることになるとは夢にも思わなかった。

そうこうするうちに、誠一は眩暈に悩まされるようになった。

医療は広島市内ではひっ迫しており、医師から見てもらえたのはその年の秋だった。そのころには眩暈以外にも、ちょっとしたことでの出血が止まらなくなり、歩くのですら辛くなることが出てきた。医師によると恐らく白血病とのことだった。ベッドに空きが出次第、入院をすることが決まった。

自宅で休むうちにも、症状は悪化の一路をたどるばかりだった。鼻血や歯茎からの出血が止まらなくなり、吐血することもあった。眩暈はひどくなる一方で、外に出て歩くこともままならなくなった。

自分が死んだら誰が家族を守るのか。誰が街のどこかにいるはずの哲郎を探すのか。誰が子供達と連絡を取り、困っているときに手を差し伸べるのか。誠一は気力を振り絞り、日に日に増えていく様々な症状に耐えた。

しかし、最期はひっそりとやってきた。大出血があった翌日、誠一は早苗に見守られながら五十六歳の生涯を閉じた。

誠一の様な死を迎えた人は広島では一人や二人ではない。

爆弾の真下で亡くなった大勢の人々、黒い雨の後遺症で命を持っていかれた人々、火傷や重度の鬱で苦しむ人。アメリカ側での調査では、核爆弾と呼ばれる新型爆弾は、投下した時だけではなく、その後何年にもわたる人的被害をもたらした。

あの日を境に、広島の街は一変した。そして誠一が毎日を過ごし、仕事に打ち込んできた産業奨励館は、骨組みをさらし、雨風に耐えて、名前も原爆ドームと変わり、令和の時代においてもその姿をとどめている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?