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「中央区」町名由来紹介1 改訂版

前回のをブログ形式にしてブラッシュアップ。
写真の編集と追加情報で街の情報なども入れました。
(中央区歴が知らぬ間に16年ぐらいになりました。)

中央区三十七町地図

「中央区三十七町と東銀座」としてあるのは
 旧電通ビル解体工事の仮囲いパネル


旧電通ビル 丹下健三氏が1967年に設計したビル。とても特徴的な外装をしたビルでした。


京橋 日本橋を起点にして京に上がる東海道の最初の橋だった。江戸時代、京橋川河岸は大根を中心とした野菜の荷揚げ市場だった。再開発で注目の地区。東京スクエアガーデン

明石町  町名の由来は、江戸時代に播州(兵庫県)明石の漁師がこの地に移住したためとも言われる。 外国人居留地跡として、異国情緒が垣間見れる。多くの大学創立の碑が建ち、また聖路加病院、聖路加国際大学もある。

新富町 明治の初めに花街として栄えた新島原の「新」と江戸時代からあった大富町の「富」を合わせて命名。この地に守田座が進出し、のちに歌舞伎座ができるまで演劇の中心地であった。古風なお店と人気レストランが介在。


入船 かつて町の西側にあった入船川が町名の由来。明治初期に軍靴製造工場「伊勢勝 造靴場」があった。銭湯もある

  隅田川を臨む町で、江戸時代に大型船が荷物の揚げ降ろしをする江戸湊として発展。鉄砲洲稲荷神社は1200年の歴史がある。
銀座のタワーマンションが立ち並ぶ。



浜離宮庭園 かつて徳川氏の別邸「浜御殿」と呼ばれ、幕末には石造洋館延遼館を建設。明治3年宮内省に属した際、浜離宮と改称。
浜離宮恩賜庭園は広く、季節の花々を楽しめる。
船着場もあり、船でお台場、浅草まで行ける。

八丁堀 江戸城の防衛や物資運搬のために作られた水路の名に由来し、その長さが八町(約872m)であったことから、八丁堀と呼ばれた。
東京駅までは歩いて15分と徒歩圏内。レストランバーラーメン店などのいいお店がたくさんある。


新川 万治年間(1658-1661)に開削された堀割を新川と称した。江戸時代から戦前まで酒問屋が集中しており、その名残をとどめている。
ここの八百屋が注目


日本橋本石町 江戸時代に金貨鋳造や鑑定を行った場所「金座」が置かれた町。現在その跡地に日本銀行本店が所在する。かつて、米・穀物・の商人が多く住み、単位の「石」に由来して町名が名付けられた。

日本橋室町 名前の由来は、京都の室町にならったという説と商家が多く集まっており、その土蔵(室)が立ち並んでいたためという説がある。江戸時代から金融業者や大商人が多く、大呉服商「三井越後屋」があった。
三越本店、COREDO室町などのショッピングセンター以外にも海苔の山本山本店などの銘店も多々あり。

日本橋本町 徳川家康が最初に町割を行った地。江戸と日本橋の中心的地域であることから生まれた町名。薬問屋が多い。


日本橋小舟町 慶長8年(1603)の町割りの際はし下舟町とよばれたが、享保5年(1720)に大船町の旧名に対して小舟町となる。かつて西堀留川が流れ多くの江戸錦絵の団扇問屋があった。


日本橋大伝馬町 江戸の市内から郊外の宿場をつなぐ伝馬役所があった。旧2丁目は通旅籠町といい、日光東照宮の祭礼に派遣された勅使が宿泊。歌川広重の「名所江戸百景」では大伝馬木綿店・大伝馬こふく店が描かれる。


日本橋小伝馬町 江戸城郭内の伝馬役所がこの地にあったことが由来。江戸以前より奥州街道に沿って往来があった地。十思公園には江戸の時を知らせた石町の鐘が保存されている。


日本橋堀留町 掘割(東堀留川)の行き止まりにあった町。古くから日本橋地区の商店街・問屋街があった。富くじで有名な椙森神社がある。



日本橋富沢町 江戸時代に呉服問屋や古着屋が軒を連ね、現在も繊維業関連の問屋が並ぶ。江戸の盗賊の取締りを命じられた鳶沢甚内に支給された土地で、初めは鳶沢町といっていた


日本橋人形町 操り芝居や浄瑠璃芝居の小屋が並び、多くの人形師が住み、人形店が並んでいた。俗称だっただ関東大震災後正式名称となる。かつてはこのあたりは吉原と呼ばれたいた。
*親子丼の玉ひでは絶品!



日本橋小網町 小網神社の名にちなむとされる。漁村として発達し、江戸中期以降は船積み問屋が多かった。歌川広重「名所江戸百景」では「鎧の渡し」が描かれる。

銀座 銀座とは銀貨鋳造所のこと。慶長17年(1612)駿府(静岡)からこの地に移設。俗称で銀座と呼ばれる。明治2年1869より町名。ガス灯、柳並木、乗合馬車が文明開花の先端を切った。

大江戸博物館にある、明治時代の銀座の街 模型は必見!22年4月から改装で3年間閉館!


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