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【私のnoteの書き方】②noteで小説が書けるようになった

前回(①)はこちら

noteで音楽や雑記、カルチャーについて書いてきた私。
それが突如「小説を書いてみたい」と思うようになり、やがて書き上げられるようになった。

「note創作大賞2024」では、小説部門に6万字の中編を応募した。
(2023年も、漫画原作部門に小説を応募)
中間選考に残った経験はないので、実力はまだまだと思いますが。。

こんな風に突然創作できるようになったのは、まちがいなくnoteのおかげだと思うので、そのいきさつを書いておきたい。


実は子どもの頃は、旺盛に創作していた時期があった。中学の頃。
代表作(?)は、クラスの仲良しグループの皆を登場人物にした冒険小説。

冒険小説といってもファンタジーの要素はなく、皆で旅をして、そこで素敵なお兄さんお姉さんのカップルに出会い、悩める2人の恋のキューピッドになる……という話だった記憶。
皆に回し読みしてもらって、手前味噌だけどかなり好評だった。
友達がそれぞれ言いそうな面白いことを台詞にしたり、架空の人物のラブロマンスもあり…というのがよかったと思う。

あとは、私はバレー部に入っていて
小柄だけど元気印(懐かしの表現)な、A子さんという素敵な先輩がおり、
強面な男子部のキャプテンと仲が良く、長身のイケメンエースともいい感じになっており……
三角関係!?
と妄想がひろがって、それで小説を1本書き上げてしまった(やだこの後輩怖い)。

もちろん名前や細かな設定は変えて、ドロドロの三角関係とかではなくさわやかな話。とはいえバレないよう、部活以外の友達に読んでもらっていた。

あとは、好きな曲をモチーフに短編を書いた。
マッキーの「冬がはじまるよ」とか
ドリカムの「さよならを待ってる」とか
高野寛の「虹の都へ」とか。
(時代を感じる……)
今でいう二次創作ですね。

(この「虹の都へ」でどんな小説を書いたのか、それが思い出せない。一生懸命書いていたことだけは覚えている。ファンタジーだったかな)


当時本をよく読んでいたけど、ほとんどがコバルト文庫(氷室冴子、喜多嶋隆、正本ノンなど)や講談社X文庫ティーンズハート(折原みと、倉橋燿子など)といったジュニア小説。それらの影響を受けていたと思う。


そんな中学生活が終わり、
高校に入ったら、パタッ!と書けなくなった。誰に見せるともなく時々小説を書こうとはしたけど、全く書き進めなくなった。

いろいろ理由はあると思う。
まず、読む本が変わった。ジュニア小説は卒業し、大人と同じものを読むようになった。

夏目漱石や遠藤周作などの文豪も「読んどかないと」くらいに1,2冊ずつは読んだ。
でも好きなのは、宮本輝や山田詠美や、母の本棚から拝借した村上春樹や。あと鷺沢萠さぎさわめぐむさんという早世した作家が1番好きだった。大人の小説を読むようになって「このくらいのものを書かないと」とハードルが高くなったのかもしれない。

あと、私小説というか、自分にがっつり向き合ってシリアスなものを書こうとした。自分や周りの人を登場人物にして。それが私にはよくなかった。

だって、大変ですよ。シリアスな小説を書くって、いいことばかりじゃなく、ネガティブな面も書かないといけない。自分や周りの人のそういう面を書くのは、正直しんどい。

仲良しの友達とこんな冒険の旅ができたらいいなーとか、部活のA子先輩みたいな恋(←妄想だけど)したいなーくらいの小説が私にはちょうどよかったのに、背のびをして書けなくなってしまった。

考えてみたら中学の頃も、自分を書いたことはなかった。
常に好きな人がいて、友達とそんな話ばかりしているような子どもだったけど、自分の恋を小説に書こうとは考えもしなかった。

自分の恋を書くって、なかなかの行為だ。
好きな人のどこが好きか、どうして好きになったかって描写するだけでも、おそろしく恥ずかしい。
noteでエッセイを読んでいても、パートナーのどこが好きかを克明に描写しているものなんてほとんどない。皆、照れくさいにきまっているのだ。

あと高校時代以降は、読んでくれる人がいないのも悪かった。
高校時代の友達は皆個性的で大人っぽくて、自分の小説を読ませたいとはあまり思えなかった。(刺激的な存在ばかりで、今でも大事な友達だけど)

時代もあったかもしれない。SNSはおろかインターネットすらない。
物を書くことのハードルが、今とは比べものにならないほど高かった。凡人は大人になるにつれ、そこから卒業するのが普通だったと思う。


でも、それから月日が経ち。
インターネットができ、SNSができ、だいぶ時代は変わった。

そして私もnoteを始めて、突然また小説を書きたくなった。

ひと言でいうと、「中学の頃と同じ環境が、noteにあった」のだと思う。
ジュニア小説とはちがうけど、「私も書いてみようかな」と思える、noterさん達の書いた、親しみやすい読みもの。
そして、書いたものを読んでくれる人たち。競い合って励まし合える環境まで!

その環境の中で、自分がちょうどよく書けるものを取り戻すことができた。

昔卑猥な冗談を言われた同級生がどうにも気になって、つきあうようになった、とか
一緒に継げもしないくせに、老舗の御曹司を好きになってしまった、とか
ありえない劇画タッチの強烈キャラが、忘れた頃に必ず出てくる、とか。

そんな架空の話を考えて書くのが、いい大人になってもめちゃくちゃ楽しかった。


音楽に関する記事を集中的に書いてきた経験も、いっけん関係ないようで、とても役に立っていると思う。
この曲やアーティストのどこが好きか、すばらしいのか、それがどうやったら伝わるか、考えながら書きつづけた経験が。

あまり自分のストレートな思いだけでは読んでいる人が引きそうだから、できるだけ読んでいる人が共感できるような、客観的な情報やエピソードを書いて。

それでたまーに、どうしてもという時だけストレートな思いをぶつけよう、とか。

そういうやり方が自然と身について、それも、小説を書けるようになったひとつの理由だと思う。


自分の家庭をモデルにしたエッセイ小説も以前シリーズ化して書いていたけど、それはあまり楽しくなくなってきたので、もう書かないかも……

自分のことや子どものことや親のこと、今自分が抱えている問題を再認識させられるみたいで、重くて。

そういう問題は実生活でちゃんと向き合いますから!という感じなので、もうあまり書かなくていいかなと思っている。小説では自分の作り上げた世界で遊んでいるほうが、今は楽しい。


私小説の名作は多いし、noteでも、自分の生い立ちを書いた秀逸なエッセイ(小説)が多い。読んでいて胸が痛くなるくらい身に迫るものも、本当にたくさんある。

書いている人たちは、書くことでどうしようもない思いが整理され、浄化されて、自分自身の救いになっている面もあるのだと思う。さらにそれを読んで救われる人がたくさんいるから、そういうエッセイ(小説)はとても人気がある。私も興味深く読ませていただいている。

でも私は、そういうものを書くのは向いていないみたい。

自分から少し離れた世界を書くとき、とても自由になって想像が広がって、いろんなものが書ける。書いているものとそれくらいの距離感があるのが、私にはちょうどいい。それでも、どこかに必ず自分がにじみ出てくるものだし。


目下の悩みは、自分の文章(小説)の良し悪しがわからない、ということ。
多かれ少なかれ誰にでも改善点はあって、絶対私にもある。

改善点とか、クセ。
いいクセならそのままでいいけど、悪いクセがあるなら直したい。
でもその、判断がつかない。

だってなんだかんだ言って、やっぱり自分の書いたものはかわいいから。
そしてnoteはSNS的な要素が強くて、応援してくれる人が周囲に集まって、そうでない人にはスルーされて接することがないから、批判されることがほとんどない。

これは、どうしようもないといえばどうしようもないのだけど。
(批判的な人からバッサリ言われたら、それはそれで、凹むのだろうし)

よく言われるように、プロの作家さんや選考を通過した人の書いたものを研究してみるのが、1番いいのかも。


音楽のことを書いていると、そのアーティストや曲を好きな人が読みに来てくれる。それらの力を借りられる。これもきっと、二次創作みたいなものなのだ。

小説を書いてはじめて、自分の書いた文章そのもので勝負する、ということを意識せざるを得なくなった。

noteの街の皆さんがあんなに「書くこと」「文章」にこだわっていたのはこういうことだったんだな、と思う。

自分の強みや苦手を、もっと理解したい。
そしてもっといろいろなものを、これからも書いていきたい。


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