書くことについて。vol.1
なぜ書かずにはいられないのだろう。
7月22日 30.6度、暑い。すごく不快。控えめに言って最低である。そんな日に、ボロアパートの八畳半の一室で、金がないからとエアコンも入れず上裸でこの記事を書いている。
昔から感じたことや思ったことを言語化することは好きだった。基本的に自分は頭がやかましく、めんどくさい人間なので、日々の生活の中で何かと考えることや感じることが多い(大半はしょうもないこと)。なにか考えや思いが浮かび、まとまるとすかさず言葉にしようと試み、それをなにかに記録しようとする。
これまで、それはスマホのメモなんかに断片的なものとして留まって、文章化されることはなかった (後から見直すと大抵のことは理解不能なんてのは常)。日々溜め込まれたものたちを何度も書こう、書かねば、と思ってはいたのだが、(大したものが書けるわけでもないのに)見栄えや正確性を気にして、書くということをためらっていた。もちろん、このためらいには持ち前の先延ばし癖も大いに貢献している。まったく厄介な野郎だ。
しかし、最近尊敬する友人らがnoteに投稿をしているのを見て、「そろそろ自分も」と、かなりミーハーな動機と、誰かがいいと思ってくれるかもというスケベ心でぬるっと書くに至った。
さて、そんな経緯で、暑さでふやけそうな頭を励ましながら、この記事を書いているのだが、記念すべきの第一弾のテーマはこいつになるだろう。
書くってなんだ…?
なんで人は思考を言語化し、書き、記録しようとするのかネ。
今回はそんなふわっとしてるけど根本的な疑問について少し考えたい。なぜわたしたちは書くのか、別に必要とされていないとい知っていながらも、なぜ書かずにはいられないのか。この記事の中になにか面白いと思うところがあればうれしい。
umibeno/ミナトタクトとは
はじめに、たいていの人は「まずお前誰やねん」状態だと思うので、ここで簡単に自己紹介をしておく。ペンネームはumibeno(割と気に入っている)なんて名乗っているが、あたしにはもう一つ名前がある。ミナトタクトというやつだ。
この男、現21歳で知る人ぞ知る大学に通っている、まゆ毛の濃いどこにでもいる大学生だ。歌を歌ったり、映画をみたり、本を読むのが好きで基本は家の中に閉じこもっていたいような典型的なインドア野郎。性格については、前述のとおりめんどくさくはあるが、わりと楽観的でサークルにインターン、カナダ留学など割といろいろやっている。ギャグのセンスが絶望的に周りと合わず、にもかかわらず(自分にとって)自分が世界で一番面白いと思っているところがたまにキズだが、わたしとしてはなかなかに憎めない奴である。この記事を書いている/書いていくのはこんなやつである。以後お見知りおきを。
別に書かなくてもたのしく生きていける
本題に戻りやす。なぜ※「書く」のか。
※以降「書く」は単純に文字を書く情報処理作業ではなく自分の思い等を書き下ろすことを指す
この時代、娯楽や暇つぶしはいくらでもある。無料で楽しいコンテンツが溢れかえり、インスタやツイッターなどで友達と何かしらをシェアし放題だ。そんななか、言葉なんて、人と話したり好きなyoutuberが言ってることを理解したりするのに必要なくらいで、自分の思考を何かに書いて記録するなんてことはしなくても楽しく生きていける。まして、言葉なんかに起こしたところで多くの場合人に読まれないだろうし、何より書くのめんどくさい。それになんか内気で暗いイメージさえある。
なのに、一定数の人は、僕らは、自分の言葉を探ってああでもないこうでもないと唸りながら、いらない紙切れや手帳、スマホのノートやらに、感じたことや自身の哲学なんかをいそいそと書き込むのである。正気の沙汰ではない。
誰かにやれといわれたわけでもなく、これと言って将来なにかの役に立つかともわからない。ただ、なんとなく書き留めてしまう。
言葉を掬いあげる、それを記録する。
「書く」というのは、日々の思考、感性、または何かに対する自身のモヤモヤを何かしらの形に残そうとする行為じゃないだろうかと思う。
なにか頭に浮かぶことがあって、そいつらを捕らえて、ある程度の形をつけるために、脳内の言葉のデータバンク的なところをひっかきまわして適当な表現を見つける。ほんでもって、その情報を未来の自分または他の人に伝わるように、そいつらを共有できるように保存/記録する。
行為としてはこんな感じだが、問題はなぜ自分の言葉を探す→記録というめんどくさいことをするのか/やってしまうのか、である。それを探るには、そもそも「言葉」ってなんだってことを考えた方がよさそうだ。
言葉は存在の肯定であり、表現は自身の存在証明。
ミナトタクトは高校生まで自分の本音を自分の言葉を人にぶつけたことなんてなかった。いや、ぶつけられなかった。彼は、自分の考え方や感覚が「ふつう」から外れていると思い込み(実際「考えすぎ」だの「キザ」だのは言われていたが)、どうせ受け入れてもらえないだろうと本当に言いたいこと(自分の言葉)をひた隠していた。典型的な自意識過剰少年である。恥ずかしい話、どうせ言っても理解されないだろう、というプライドや逃げ道でしょうもない自分を何とか守っていた節もあるのだろう。そこに至る背景には家庭環境が割と関わっているのだが、それはまたどこか別の場所で。
教室という狭さの中で、自分の本音を自分の表現/言葉たちで伝えれば、浮くことになるのではないか、「なんだこいつ」と思われて居場所がなくなるのではないか、なんてことを考えるうち、彼なりの言葉はどんどん排除され、当たり障りのない言葉と意見を選び、人と付き合うようになった。それで「嘘を隠すためのウソ」を繰り返し、いつしか綱渡り状態に。そしていつのまにかそれにも慣れ、彼の「言葉」はどんどん失われていった。
そんな中学、高校時代だったが、受験後は地元の人間関係から、家から遠く離れ、誰も知らない土地で大学生として過ごし始めた。しかし入学直後コロナに襲われ大学は全面オンラインに。友達もうまくできず見知らぬ地で一人、本を読み、大学のレポートをこなすだけの日々が続いた。
そこで彼は、ただただ自分と、いや自分を生きていくうちに、だんだんと自身の言葉を探し、取り戻し、使えるようになっていった。小説やアカデミックを通してたくさんの言葉たちに触れ、そいつらと対話し、自分の言葉を再構築する時間と機会(レポート作成、笑)がたっぷりあったからだ。
コロナが落ち着きだし、先輩の一人からオンラインの学生団体イベントである多文化共生についての交流会に誘われ、参加することになった。
もちろん参加者は全員初対面。だがそれが良かった。誰も自分を知らないから、どう思われてもいいと思えた。
勉強会は、様々な生き方についてグループ内でゆるくディスカッションものだった。言葉を取り戻し始めてはいたものの、それまで人の前で自分の言葉/腹の底を話したことがなかったミナトタクトは、ここでようやく、おずおずと自身の言葉で、思っている本音をそのまま話し始めた。
すると、意外にも、メンバーや参加者の方々が彼の言葉を受け止め、「おもしろい」といい、興味を持ってもっと聞きたいといってくれた。正直、嬉しかった。ものすごく。
(きっとそれまでにもあったはずだが)初めて自分が言っていることを正面から受け止めて、認めてもらえた気がした。
今までの自分、今まで歩いてきた日陰を肯定してもらえた気がした。
これではないだろうか。言葉の本質は。
思うに、言葉そのものはそれが指し示す存在を証明する機能がある。
そして、その自らの感性に誠実に掬いあげられた言葉たちを使って
「表現する」ということ、つまり自分の言葉を紡ぐということは、
自身の存在の肯定であり、私はここにいるんだという存在の主張
なのではないだろうか。
だから、不細工でもすぐに出てこなくても、なんでもいいから、
人には自分自身のことばが必要だと思う。
言葉/言語は感性(perception)であり、その人のアイデンティティだ。すべての感動を「エモい」で片づけてしまうなんて、どこか悲しいじゃあないか。
そして書くとは、そんな言葉を記録し、人や未来の自分に伝えようとする行為である。こう考えると冒頭の疑問に対する一つの答えが出てくる。
なぜ私たちは書かずにいられないのだろうか。
書くこと、この世界で輪郭を描くこと
さて、前置きが長くなりすぎたが、なぜ私たちが書くこと、つまり自身の言葉を探り、記録することをやめられないかという疑問に対しての現時点での答えはこうなる。書くというのは
こんな世界で自分を忘れないため、自分の輪郭を描き続けるため。
ではないだろうか。気を抜けば膨大な情報に飲み込まれてしまうこの世界で、その存在/アイデンティティを何とかそこに留めるため、自分が自分であるために書くのだ。
この世界は分からないことが多すぎる。それはもう生きるに足らないくらいに。人間関係、社会、政治、仕事…。世界のことなんてわからないし、
そこで息をして、いろいろ考えている自分自身のことも全然わからない。
わからないから書くのだ。
「書く」ことは水を掬うことに似ている。形のないものを、文字通り雲をつかむような思いで何とか捉え、多くを取りこぼしながら、それでも何とか輪郭を描こうとする。
そこにある/あった自分の記憶を、感性を、自分自身を肯定し、
それらを忘れないために、私たちは書く。
誰のためというわけではない。
要は、こんな世界で何とか生きている自分を忘れたくないし、忘れないでほしいのだ。こんな世界で自分を忘れないため、自分の輪郭を描くために、
しょうがないから、書くのである。
私たちは今日も書く。
p.s
鼻息荒く書き始めたはいいものの、めちゃクソ長いしどちゃくそ堅い、分かりにくい文になってしまった。イヤー反省反省。言語や、言葉とアイデンティティについては別の記事でも語りたいと思ってますが、次回からはもっとゆるーく思ったことをテキトーに書き留めていくつもりです。それでもまあ思ってることは言えたし、何とか書き終えたんで自分に合格点出しときます。
読んでくれた方は本当にありごとう、こんな文を最後まで読んでいるあなたは紛れもない変態です。それではまた。
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