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短編「船と少年」

「船と少年」  作・夢乃玉堂


「いくら私があんたの三倍稼いでいるからって甘えないでよ!」

カリブ海を巡る新婚旅行の4日目。
捨て台詞を残してホテルの部屋を飛び出した明子は、
黄昏の名残をたたえた港を眺め、心の底から後悔していた。

「あまり考えないで攻め立てる単純なところが
あたしの短所なのよね。
確かに、稼ぎの少ない方が家事をするって提案したのはあたしだけどさ。
でも、仕事に燃えている私を、見ているだけで良いなんて言われたら、
『ヒモになりたくって結婚したのか!』って誰でも言いたくなるわよ」

明子は自分に言い訳をしながら、人気のない堤防に腰を下ろした。
太陽はすでに沈み、暖かな茜色と深い藍色の境界線の前を、
巨大なクルーズ客船がゆっくりと通り過ぎていく。

「学生時代はお金が無くて
船を眺めるだけのデートを何回もしたっけな」

二人はよく横浜の桟橋を散歩した。
いつかは二人で豪華なクルーズ、と憧れを込めて話していた夢は
ITバブルの好景気のおかげで、予想よりもずいぶん早く実現した。

明子が就職したベンチャーが上場し、社員対象のストックオプションで手に入れた未公開株が思いがけず高騰したため、一気に富裕層の仲間入りを果たしたのだった。


「二人で初めて豪華なクルーズ客船に乗ったのよね。
下船する時に、『働くお前を見るのが好きだ』なんて
あの頃からヒモになりたかったのかしら、『心にもないこと言ってるな』って笑ってしまったのよね・・・あれ?
心にもないということは、その反対だったってこと?
うん? まあ、どっちでも良いか」

ボォォォー

突然、豪華客船の汽笛が鳴り響くと、
明子の目の前を一人の少年が横切った。
地元の少年だろうか、袖口のほつれたTシャツを着て、
真っ黒な肌が、波の照り返しの中で美しかった。

少年は客船を見ながら堤防の突端まで走り切ると、
また明子の前を横切って桟橋の方まで戻っていった。

間もなく次の客船が出港してくると、
やはり少年は明子の前を通り過ぎ、堤防の端まで走っていった。

「船に手も振らないから
知り合いが乗っている、というわけじゃあなさそうね」

少年は客船が来るたびに堤防を往復した、何度も何度も、飽きることなく。

何回目のターンの時、明子は戻ってきた少年に声をかけた。

「ねえ。あの船に乗ってみたいの?」

少年は立ち止まって明子の方を向いた。

「私たち、あの船に乗ってきたのよ」

心の秘めた思いが、言葉の響きの中で際立つ時がある。
明子は、豪華客船に乗ったと伝える言葉に、
どこか優越感を含んだ卑しい響きを感じた。


「こんな子供に自慢してまで自分を慰めたいのか、嫌な女だ」

そんな哀れな心が自分の中にあることがとても恥ずかしく思えた。

しかし少年は、まっすぐに明子を見据えて答えた。

「ダメだなぁ。乗っちゃったら、この景色が見られないじゃない」

確かに。乗ってしまったら、この感動的な船の勇姿は見ることができない。
見ているだけで、いや、見ている方が幸せなことだってあるのだ。

黙り込んだ明子を置いて
少年は再び出港する客船を追って堤防を走り抜けた。

「あの人も、私を見つめているだけで幸せなのかしら」

そのつぶやきが、独りでのろけているようなに聞こえて
明子は照れ臭くなった。

「いやだわ。あたしったら単純。でも、単純なのはあたしの長所だもんね」

そして、バッグから携帯を取り出し、夫に電話をかけた。

「あの人が何か言う前に謝ってしまおう。
今この景色を見ながらなら、謝ることが出来そうな気がする」

「もしもし」

電話に出た夫の声に明子は優しく答えた。


                     おわり


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