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クリームソーダ、あの日の #『こりずに わるい食べもの』を読んで

 千早茜さんの『こりずに わるい食べもの』を読んだ。

 千早さんは『しろがねの葉』で直木賞を受賞された作家さん。noteの連載で食にまつわるエッセイを読み、精緻な情景描写と淡々とした文章に引き込まれ、すっかりファンになった。

 私は人見知りならぬ作家見知りをする質で、文体やリズムに慣れるまで時間がかかるのだけれど、千早さんの文章はすっと入ってきて、すぐに馴染んだ。小説はもちろん、エッセイ集の『わるい食べもの』シリーズが大好きで、ちまちま読んでいる。
 煌びやかなパフェにチョコレート。子ども時代に苦手だった牛乳の生臭さ。ほろ酔いのまま歩く京都の夜道で、頬に感じる風。千早さんが描写する食べものや記憶はどこか懐かしく、朧げになっていた私の記憶まで呼び覚ます。

 さて、今日は『こりずに 悪い食べもの』でとりわけ好きな一編と、そこで想起した思い出について綴りたい。

雨の日はココアとビスケット。

 『雨と神様の物語』はこの一文から始まる。気圧に弱い千早さんは、雨の日にココアを作るのだそう。ミルクパンを火にかけてココアパウダーと砂糖を練り、少しずつ牛乳を注いで作る、とろりとしたホットココア。学校をずる休みした日は雨音をBGMに、お気に入りの本を抱えて飲んだのだとか。

 ああ、いいなあ、と思う。ココアの甘さと温かさ、ずる休みしてくるまった布団の温もり、どんよりと薄暗い部屋、雨音、湿った匂い、肌寒さ、そういったものがありありと思い浮かぶ。憂鬱で、億劫で、今日は学校に行かなくていいことにほっとして、ふいに訪れた自由時間にちょっぴりわくわくして。懐かしく、どこか寂しい。

 雨の日と飲み物、という組み合わせでふと浮かんだのが、クリームソーダ。私が初めてクリームソーダを飲んだ日のこと。

 たぶん5歳だったと思う。私は幼稚園を休み、妹を妊娠中の母に連れられて里帰りしていた。母の実家には伯母さんがいて、姪っ子の私をたいそう可愛がってくれた。働き者でお喋り好きな、優しい伯母さん。口を大きく開けて笑う顔が母によく似ている。私は彼女が大好きだった。

 その日は雨が降っていた。母はつわりが酷く、いつものように寝込んでいた。郵便局に用事があった伯母さんは、おそらく暇を持て余す私を見かねて、「そよちゃんも一緒においで」と声をかけてくれた。「伯母ちゃんに物をねだらんでね。わがまま言わんでね」と母に何度も念を押された。

 外はどんよりと暗く、小雨が降っていて肌寒かった。伯母さんの傘に入れてもらい、手を繋いで歩いた。2人きりでお出かけできるのが嬉しかった。

 郵便局に行ったことは覚えていない。おそらくつまらなかったのだと思う。伯母さんに手を引かれてエスカレーターをいくつか上り、薄暗いお店に入った。小学生になって知ったのだけれど、そこはデパートの喫茶店だった。

 伯母さんは私に向かい合って座り、メニュー表を読み上げてくれた。「そよちゃん、何にする?オレンジジュースもあるよ」。
 伯母さんに買ってもらっちゃだめ、と母にきつく言い含められていた私は、言いつけを破ったことが後ろめたかった。皮の冷たいソファも、濃い茶色のテーブルも、なんとなく居心地が悪かった。「お母さんに怒られちゃう」と言ったと思う。すると伯母さんは声をひそめて微笑んだ。「お母さんには内緒」。

 そっか、内緒にすれば大丈夫か、とほっとした。伯母ちゃんが約束してくれたのだ。それに、大好きな伯母ちゃんと秘密を共有できたことが嬉しかった。2人だけの秘密というのは、幼稚園児にとっても甘美なものだ。

 「伯母ちゃんはクリームソーダが好きやったよ。そよちゃん、飲んだことある?」
 当時の私はクリームソーダを知らなかった。知らないと答えると、伯母さんは頼んでみようか、と言った。「メロンソーダにアイスが乗ってるんやよ。甘くて美味しいよ」「メロンソーダって何?」「甘くてシュワシュワするよ。飲めへんかったら伯母ちゃんが飲んだるで」

 運ばれてきたジュースは緑色で、泡がキラキラと輝き、白いアイスが浮かんでいた。てっぺんに真っ赤なさくらんぼが乗っていた。

 まず、スプーンでアイスをすくって食べた。アイスはひんやりと冷たく、ジュースに溶けて染み込み、甘い。当時の私は「色のついたジュースはあかん」と母に禁止されていたので、化学的な色をしたメロンソーダにほんの少し罪悪感を抱いた。おそるおそるストローで吸い込むと、甘く爽やかな味が広がった。後ろめたさが一瞬で吹き飛ぶほどにおいしかった。

 伯母さんに、「こんなにおいしいの、生まれて初めて飲んだ」と感動を伝えると、伯母さんはお腹を抱えて涙を浮かべるほど笑った。「そうかあ、生まれて初めてかあ。おかしいねえ」
 当時の私は最上級の褒め言葉を「生まれて初めて」だと思っており、クリームソーダはそれに匹敵するほどの感動を与えてくれた。けれども伯母さんにしてみれば、5歳児が「生まれて初めて」と言うこと自体がおかしかっただろう。

 それからしばらく、喫茶店に入る機会があればクリームソーダばかりねだった。最初、母は「飲んだことないやろ?」と眉をひそめたけれど、クリームソーダ飲みたさに私はあっけなく「伯母ちゃんと飲んだ」と白状した。「おいしかった」と。小言が来るかと身構えたが、母は「ええー、そうやったんやねえ」と笑っていた。お母さんも好きやったわ。それからは渋らずクリームソーダを選ばせてくれた。

 年を経るにつれ、喫茶店で頼む飲みものはジンジャーエールに変わり、そのうちカフェオレが台頭し、クリームソーダは選択肢から消えていった。私はブラックコーヒーを好むようになり、伯母さんは還暦を迎えた。あんなに好きだったクリームソーダは、おそらく10年以上飲んでいない。伯母さんには5年以上会えていない。

 雨の日にクリームソーダを飲みに行きたい。今度は私が、伯母さんの好きな飲みものを選ばせてあげたい。千早さんが綴る雨の日とココアの記憶に触れて、そんなふうに思った。


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