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手も足も出ません

 高校生のときは不登校だった。といっても家にこもっていたわけではなく、朝起きてちゃんと制服を着て、授業の準備をして電車に乗っていた。学校に行かず公園に行ったり、近くのカフェで時間をつぶしたり、図書館で夕方まで時間を潰すなど、そんな生活を送っていた。
 どうして学校に来ないのだと言われると「わかりません」だった。学校が嫌だというわけではなかったし、同級生と仲もよかった。行けば楽しいのはわかっていたが、学校に足が向かなかったのである。だから「学校に来んかい」と言われればしばらくは連続して通い、また徐々にフェードアウトする、そんな高校生だった。

 学校に通わないと成績に支障がでる。授業を受けていないのだから当たり前である。それでも国語(韓国学校なので「日語」)、英語、社会はまだ点数をとれたのだが、問題となったのは数理である。自分からは勉強しなかったし、たまに学校に行くと知らないところまで進んでしまっているのでついていけず、放棄。教室にいても数学と生物、化学の時間は睡眠時間になっていた。

 行ったり行かなかったりを繰り返していると「あと一回でも遅刻すれば留年」と告げられた。それも2年連続。そう宣告された日からは無遅刻無欠席になった。繰り返すが、特に嫌というわけではなかったのである。しかし相変わらず数学と生物、化学はなにを言っているのかちんぷんかんぷんで、徐々に試験前の付け焼刃も通用しなくなってきた。

 そして高校二年の二学期の中間考査、数学Ⅱの試験は2点だった。それ以前からも成績表は真っ赤っかだったが、もはや理解できる問題はそこに一問もなかった。2点というのは、第一問目だけテキトーに「x=-1」と書いたら偶然にも丸を貰った。解き方はいまだにわかっていない。
 計算式を書くために広く取られた解答用紙。そこにダルマの絵を描き「手も足も出ません」と付け加えたところ、近くの大学院から非常勤で来ていた穏やかな先生が火を噴いた。「どないなってるねん。平均点が低いだけでない、答案用紙に落書きしてた奴もおる!」。あの先生が顔を真っ赤にして声を荒げたのはそのときだけだ。

 同年の学年末考査で僕は遂に数学Bの試験で0点を叩き出した。当然ながら追試である。先ほどの「手も足も出ません」の追試をどのようにして突破したのかまったく記憶がないのだが、こちらは追試も文字通り手も足も出ず不合格、本当に留年する目前まで行ってしまった。
 「あなたたちの処遇を決めるので待っておきなさい」と言われ、おなじく数学Bの追試も不合格だった同級生とふたりで教室に閉じ込められた。もうひとりは僕と違って無遅刻無欠席だった。いや、決して「僕は登校していなかったから仕方がない」と言いたいわけではない。僕たちに数学は合っていなかったのだ。

 判決が下されるまでのあいだ、木漏れ日が差す初春の教室で、僕たちは丸めたプリントのボールとほうきをバットにして即興の野球を楽しんでいた。ここで勉強するようなふたりであれば本試験の時点で及第点に達していただろう。僕らが留年するかもしれないという噂はすぐに広がり、同級生や後輩たちが僕らを冷やかしに来た。
 「ソンベ(先輩)らほんまに留年ですか?」「いやーどないなるんやろうな(笑)」という会話をしていたが(笑)っている場合ではないのである。即興野球にも飽きて後輩たちも訪ねて来なくなり、再追試の可能性を踏まえて勉強しようと数学Bの教科書を開いたとき、新品同様であまりにも使用感がなくて笑ってしまった。いや、ほんとうに笑っている場合ではない。

 数時間後に「再追試をします」と宣告された。恩情措置に感謝である。再追試は範囲が指定されて1時間だったか2時間だったかの猶予が与えられた。その時間でとにかく頭に詰めろというわけである。もはや合格点に達していたのかどうかもわからないが三年生に進級できた。
 再追試のあと、先生に頭を下げて「三年生になったら心を入れ替えて一生懸命、数学を勉強します」とか言ったはずだが、僕は数学を選択しなかった。進級してしまえばこっちのものである。

「手も足も出ません」の元ネタはここから。学校に行かずに読んでいた本だ

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