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台北の雨の匂いが好きだと言う君

 もう5年ほど前、台湾台北に月に一度のペースで通っていた。あのときは日台の往来が盛んで航空運賃もいまと比べて驚くほど安く、タイミングさえ合えば往復で一万円を切ることもあった。そんなわけでよく台北に足を運んでいたのである。

 台湾は初めての海外旅行先としてよく選ばれた一見さんが目立った一方で、とてつもなく台湾が好きだというリピーターが多い。一年のあいだに3回以上出入国した外国人に交付される入国審査優先証のようなものを貰っていた僕は頻度や回数だけ見れば明らかに後者であるが、かといって台湾がものすごく好きだったというわけではない。どちらかというと台湾は苦手なほうだった。暑がりの僕は台湾のじめじめした気候が肌に合わず、料理はまずいわけではないが中華料理だと考えたときにはどこか微妙な評価を下さざるを得なかった。

 なぜそこまで好きでもない台北に通っていたのかというと、当時付き合っていた人が台北に住んでいたからである。彼女は台北に1年留学し、ワーキングホリデーでさらに1年、計2年近く台北に住んでいた。

 僕と彼女の出会いも台湾だった。台湾の大学での語学研修でおなじクラスになり、2週間の研修の最終日から7年も付き合った。僕は高校時代から国民党系の学校が開講していた中国語を習っていたので大陸の中国語より馴染みがあったこと、彼女は台湾が好きだからと台湾に来ていた。留学の下見も兼ねていたはずだ。大阪と台北は遠距離恋愛だったが、その時点で彼女は九州に住んでいたので、はじまりも遠距離だったことから特に苦にはならなかった。むしろ九州より安かった。

 彼女が住んでいたのは台北市内のマンションの屋上。屋上というと想像がつきにくいかもしれないが、あの街のマンションオーナーは部屋数を増やすために屋上に増設するのである。ほかの部屋よりも安い代わりにかなり狭かった。なにより雨の音がひどい。

 僕が留学していた赤道直下のマレーシアは短時間にスコールがどばっと降るのだが、亜熱帯気候の台北では雨は長時間降り続ける。「バケツをひっくり返したよう」ということばが似合うとんでもない量の水だ。建物の二階以上が歩道上にせり出して屋根になっている騎楼という構造の建物がたくさんあった。雨が大量に降ることが前提なので台北市民は騎楼の屋根の下に入り雨をやり過ごす。

 台北は冬でも気温が10度を下回ることが少ないのだが、ほぼ毎日雨が降りじめじめする。乾燥肌の人には優しいかもしれないが、僕のように湿気と暑さに弱い人間は汗が止まらない。なにせ湿気を和らげるために冬場でも冷房が回っている。

 台北に遊びに行き、マンションの屋上に(おそらく違法に)増設された3畳くらいの狭い部屋で、大雨が地面やビル壁、窓を叩きつける音を聞きながらごろごろしていると、彼女が「台北の雨の匂いが好きなんだよね」と言った。もわっとした空気に、鼻の穴まで突きあがってくるような湿気。日本の冬とは違ってもともとがじめじめしている台北に降る大粒の雨。地面に叩きつけられた雨水が、台北市内の空気とともに地面から包んでくる。

 冬でさえこれなので、夏場の台北に降る雨は僕にとっては地獄のようだった。
 何度もマレーシアと比べるようだが、あちらの雨は降ったあとは涼しくなる。町中に舞う砂埃を雨が流し、ひとしきり降ったあとはちょっとした清涼感もある。
 台北の夏の雨はもう思い出したくもない。降り続ける雨に快適の二文字を感じることができない。気温は多少は下がっても汗が止まらないのだ。かといって冷房が回っている屋内が涼しいというわけでもない。ただでさえからだに熱気がまとわりついているのに、追い打ちにじめじめをコーティングしてくるような雨だ。この雨も「好き」だという。日光を蓄えたアスファルトに雨が叩き落ちて熱気とともにマンションの上まで登ってくる。この雨の音と匂いを楽しみながらお茶を飲むのが楽しいらしい。

 彼女が日本に帰ってきてからも付き合いは続いたが、僕はもう台北に行く用事がなくなったのでぱったりと訪れなくなった。休みにはマレーシアやフィリピンにも行っていたので就職していく時間がなくなったわけではない。せっかくの休みなのに、あの雨が降る場所かと思うと足が向かなかった。

 彼女もはじめは空港まで来てくれたが、だんだん「台北駅まで来て」、つぎは「最寄りの駅まで来て」、そして「近くのコンビニまで来て」、最後には「家に直接来て」となっていった。それほどまでに台北に行くことは特別ではなくなっていた。あの鬱陶しい雨も行くたびに降ったが、彼女が好きだというのでその雨の匂いが好きだというので意識してみた。好きになれたかどうかは別だが、あの雨の匂いはいまも思い出せる。

 彼女と別れてしまったいまも、台北に行くと彼女が好きだと言った雨は必ず降るはずだ。ただ「雨がよく降る街」というだけならまだしも、それ以上のものを感じてしまうのでどうも台北には足が向かない。

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