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アインシュタインの言葉を肌で実感した話。勉強って教育って教養って。

教養とは、学校で学んだことを全て忘れた後に残るもののことです。

 この言葉は、アインシュタインが残したとして有名なもののひとつです。残念ながら、いつどこで誰に言ったのかを調べきることができませんでした。ご存じの方はぜひ教えてください。

 このアインシュタインの言葉を彷彿とさせる出来事が起きたので、感動が薄れないうちに綴っておきます。

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1冊の本を読み直して、私は驚愕した。

 2020年4月16日木曜日。久しぶりに読んでみるか、と気まぐれに手に取ったのは『超一流の、自分の磨き方』(太田龍樹/著 三笠書房)という本でした。

 この本を私は中学2年生のときに買ったのですが、題名からも分かるように、内容はバリバリのビジネスマンが読むようなもの。様々に感銘を受けはしましたが、当時の状況に当てはめられるような内容ではないし、そうであったとしてもそうするだけの応用力はありませんでした。もちろん、行動に移すことも、行動に移そうと日々気をつけることも当時のキャパシティでは困難。
 高校に入学した後の3年間は、一切この本を手に取ることはありませんでした。

 しかし大学生になって数週間経った今日、久しぶりに読んでみると、高校生活で気をつけていたこと、後輩に教えたこと、自分の美学としていたことが、この『超一流の、自分の磨き方』に散りばめられていたのです。

 読みながら、とても驚きました。初めて読んだ本なら「なんだこんなこと高校生でも気をつけてるやーい」と言えますが、これは私が中学生のときに自分で買って何度か読み直していた本なのです。
 間違いなく、影響を受けています。

 私は、今日読み直すまで、この本にどんなことが書いてあったかを覚えていませんでした。正しく言えば、思い出そうとしたり、何か行動を起こす際にこの本の存在を思い浮かべることすらしなかった。

 もちろん、読めば「そういや、こういうこと書いてあったな」と思い出すことはできました。でも、そういう記憶って受験とかテストとかが絡むような勉強においては『不十分』とされます。

 しかし、私はその不十分な記憶で実際にこの本に書いてあることを、全てではありませんが、実行に移していたのです。これが勉強や教養の本質ではないでしょうか。

教養とは、学校で学んだことを全て忘れた後に残るもののことです

 私の場合は学校で学んだわけではありませんが、以上がアインシュタインの言葉を肌で実感した話の全容です。

 正直、私はこの本を読んでガッカリしました。自分の頭で考えていたと思っていたことが、少なからずこの本のモノマネであったことが判明したからです。

考察:アインシュタインの言葉を考えるときの、もうひとつの視点。

 教養とは、学校で学んだことを全て忘れた後に残るもののことです。

  この言葉が引用されるとき、ふつう「学校で学んだこと」=「覚えさせられた知識・情報」と置き換えられ、また「残るもの」=「自分自身の思考・体験」の比喩だとされます。

 つまり「ただ知識を詰め込んだだけでは意味がなく、それを基にして自分の頭で考えたり行動に移すことを、誰かから強制されることなく行えなきゃ、それは教養とは言えないよ」というようなニュアンスを伴うものとして、教訓的に使われたり、学歴や知識量ではない真に教養ある者を称える言葉として使われることが多いのだと思います。

 ただ、私は今回の経験を通じて以下のような解釈方法もあるのではないか、と考えました。
「一度取り入れた知識は、忘れたと感じてもなおずっと残っている。それらの積み重ねが、その人自身の教養になってしまうのだ」

 私たちは日々様々な情報に触れ、会話を聞き、景色や人を眺めています。それら全てを、長い期間覚えていることは不可能です。しかし、それらが無意識下で頭のどこかで蓄積されると共に、私たちの中に「教養」が作り上げられていく。たとえそれが、他人にとっての「悪癖」であったとしても。

 そういう考えもあるんじゃないかな、とふと思ったのです。

 子供の頃の遊びは、その後の人間性や得意ジャンルに深く影響するものです。私は、子供の頃から文字を読むことが一種の癖でした。絵本、お菓子の袋、看板、テレビの字幕、張り紙、保育園や小学校からのお便り、家電に書かれている注意事項・・・・・・。「目の前に文字があれば読む」という誰から強制されたわけでもない習慣は、「読書が好き」「知らない言葉を知るのが好き」「類語辞典を眺めてるのが好き」といった趣味に現れ、後々の「同級生よりも速く文章が読める」「一読して内容が理解できる」「シーンにあった文章を作成できる」といった能力(得意分野)に繋がっていきました。

 私は高校生になるまで、学校や生徒会から配られた通信・冊子を深く読まない生徒が多数派である、ということを知りませんでした。存在さえ知っていれば、よほど忙しくない限りは読むのが普通だろう、と思っていました。

 これくらいのことなら、誰にでもある他者との価値観の違いに終わります。しかし、もし私が「配られたプリントを読まない人間は、頭が悪かったり素行が悪かったりする、非常識な人たちである」といった誤った認識(あるいは正義感に似た論理)を意識するでもなく持っていたらどうでしょうか?

 普段からこのことを言葉にして出していれば、きっと誰かが訂正してくれます。でも、当たり前のことをわざわざ口に出したりはしません。
 誰からも否定されることなく、子供の頃から大人になるにかけて育った「教養」を自ら疑うことは、キッカケなくしてはとても難しいです。もちろん、大人になってから身についたことだって「教養」の一部になっているでしょう。

 だからこそ、ふだん見聞きする情報・習慣・経験はどんな些細なことであれ、その後の自分を作り上げる材料になることを意識して生活しなければならない。そう、感じたのです。


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