エイブのキッチンストーリーを観たんだ

昨年の春に『エイブのキッチンストーリー』を観賞。

いやー。すごくいい映画を見た。この映画を見る前に、ユダヤ料理は『サウスパーク』と本間千枝子さんの『アメリカの食卓』、ムスリム料理は『サトコとナダ』である程度予習はしたけど、ファラフェル(豆のコロッケ)にひよこ豆を使うか空豆を使うかで内乱レベルの口論になるのは知らなかったよ……。

多様化された現代だからこそ起きている価値観の相違、それから起こる歪みやいさかい。それを踏まえて奮闘するエイブの姿勢がひたすら美しい映画だった。

主人公のエイブは、イスラエル系ユダヤ人の母とその親族、パレスチナ人の父方の親族と無宗教の父親に育てられる複雑な家庭。そんな家庭環境だから父方と母方の家族が一同に会した日には争いが必ず勃発。

いや、もう、これさ。アイデンティティクライシスどころかアイデンティティエクスプロージョンレベルだよ。よくグレずに生きてきたね。偉いよ、エイヴ。

作った料理をインスタにあげて、賛否両論され、時には母方の従兄にいじめられてもめげずに料理を作ってupするエイブが健気でかわいくて応援したくなる。そして、いさかいばかりの家庭環境だからこそ、食べれば人を幸せにする料理に彼は希望と活路を見い出したんだろうなあと考えてしまう。でも、エイブよ。ラーメンタコスはないわ。『OH!MYコンブ』じゃあるまいし。

ある日、ブラジルファラフェルなるファラフェルをブルックリンの屋台村で販売しているチコというブラジル人シェフに弟子入り志願するエイブ。最初は相手にもしなかったチコさん、しかし、ホットソースに噎せながらもシラチャーソースを使っていることを察知したエイブの鋭い味覚から才能の片鱗を感じて料理を教えるまでのプロセスが秀逸。チコさんが眩しくなる程いい大人なのもエイブにとって本当によかったなあとしみじみする。最初は洗い物やごみ捨てばかりでなかなか料理をさせてもらえないもどかしさにへこんでいたエイブ。けれど、ひたむきに努力して、少しずつなからも料理の基礎を教えてもらい、ついにはチコさんからの指名で賄いを任されるまでになるのはこちらも嬉しくなる。

しかし、そんな状態に反比例するかの如く父方と母方の親族の争いは加速し、両親は離婚をほのめかしはじめる。

エイブはチコさんから教わった料理のノウハウを駆使し、自身のバックグラウンドであるムスリム料理とユダヤ料理を融合させた料理を感謝祭の日に振る舞うことを決意。構想を練り、味、食感、香り、見た目、栄養価を考えながら、家族が喜ぶ料理を計画するエイブ。モーツァルトの『フィガロの結婚』序曲がまるでエイブを鼓舞するファンファーレのように流れるくだりにこちらの血も騒ぐ。

そして、感謝祭。ユダヤのパンであるハッラーにムスリムのヒヨコ豆ペーストであるフムスを添えたもの、ザクロを使ったサラダ、亡くなった母方のお祖母さんのレシピをもとにしたヒヨコ豆ベースのファラフェル等ユダヤ料理とムスリム料理の混成料理をふるまうエイブ。エイブが作った料理はどれも美味しそう。しかし、よかれとしたことが仇になり、互いのアイデンティティをぶつけ合う父方親族と母方親族のいさかいはさらにヒートアップ、いや、大炎上。

生焼けだったから焼き直そうとオーブンに入れたメインディッシュの七面鳥はそのままに、泣いて家出するエイブが悲しい。改めて言う。よくこの環境でグレなかったね。

七面鳥が焦げた匂いで事態に気づき、エイブを深く傷つけたことを思い知らされる家族。

しかし、ユダヤ系の母方の親族がエイブラハム、ムスリム系の父方の親族がイブラヒムとエイブを呼んで探すさまがふたつの価値観で揺れているエイブの立ち位置がわかり、観ているこちらの心は痛くなる。

そして、チコさんのキッチンで眠るエイブ。朝、エイブを見つけたチコさんが彼にかけた言葉が重くも温かい。その言葉はチコさんがエイブをいかにしっかりと見守り、叱咤しつつも心配し、慈しんでいるのがよくわかる。チコさんは本当に素敵な大人である。

そして、エイブが作った料理が後れ馳せながら小さな奇跡と前進を家族に与えるさまに安堵するとともにエイブの未来に幸あれと願わずにいられない。

「僕は僕。エイブだ」

終盤、エイブの努力が報われるくだりと、ラストのこのモノローグを聞いて、エイブはこれからどんなことがあってもきっと大丈夫だと確信した。 世界はラーメンタコス以上に混沌とし、酷いけれど、それでも料理が生む願いと希望は光を灯してくれる。そんなことを思ったこの映画に拍手を送りたい。

追記・冒頭でエイブが重曹だけで作り、一度失敗して、次はベーキングパウダーの代わりに重曹とクリームオブターターを使って膨らませられたケーキ。地味だけれど美味しそう。それでも劇中、エイブがインスタにあげた際には不評だったけど。うーむ。あのケーキ、間に木苺か桑の実のジャムをはさんでホイップした生クリームを上にのせて砕いたチョコとピスタチオで飾ったらいいかもなあと思う。素人の妄言ですが。

(文責・コサイミキ)