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信頼と信用のちがい

〈しあわせ〉の哲学。そのいくつになるのかな...?

前回は
動物たちから教わったこと』でした。

人間は一部の動物とは信頼関係を構築することができます。それは互いの〈悦び〉を共有することから生じてくるもの。

〈悦び〉の共有は、あるいは誤解かもしれません。

人間には人間の都合がある。
動物には動物の都合がある。

共に〈悦び〉を共有できると感じるのは、美しくても誤解でしかないのかもしれない。

たとえ誤解であっても、それを感じている者にとって嬉しいものでありさえすれば。美しくありさえすれば。

信頼とは、そうしたものでしょう。
誤解だと判明しても、なお継続するのが信頼。一旦できあがってしまえば、変質することはあっても、逆に容易に断ち切きることができない。

その意味では厄介なものでもあります。

信頼は分けのわからないもの、言語化不能なもの。


その点、信用は言語化不能な可能なもの。可能というより、言語化できることが信用というものの要件です。言語化することができ、誰もが理解をすることができる。そうでないと信用はその役割を果たせない。

人間は動物とも信頼関係を構築することができます。が、信用は取り結べない。人間は、あくまで個別的にしか動物との関係を取り結ぶことができない。人間以外の動物は言語を操ることができないから。

つまり信用は人間と同士のものでしかない。その意味で、人間を含む生物の世界では信用は特殊なものだといっていい。

信頼は身体的。
信用は言語的。

そして言語化可能な信用の極点が貨幣、つまり「お金」です。

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せっかくですから、もう少し踏み込んで説明を試みてみます。「ディープラーニング」の概念を援用して。


ディープラーニングとは、いまさら説明不要でしょうが、人工知能(AI)を飛躍的に発展させたIT技術です。人間の神経細胞ネットワークに似せてコンピュータの学習回路を組み上げる。すると、コンピュータの優れた計算能力と相まって人間以上に優秀な認識や推論の能力を持つようになった。膨大なデータを取り込み、有意の規則性を導き出す。

AIの計算能力はまもなく人間の持つ計算能力の総計を超えるだろうと言われている。「シンギュラリティ」です。


ディープラーニングの回路は人間の、というよりも、動物の神経回路の似せて作られています。ということは、逆に言えば、人間(動物)の神経回路はディープラーニング(深層学習)をする電子回路に似ている。そこから人間と動物の学習の違いを推論し、信頼と信用の違いを比喩的に説明してみようというわけです。


ディープラーニングの概念図です。グーグルで検索してトップにでてきたものを拝借しました。何かの製品の広告のようです。

左から
1.Image Fusion
2.Biophysical Fueture Space
3.Neural Network Hidden Layers
4.Decison Making
のステップがあります。
(「AUC~」は製品にまつわる部分のようなので無視orz)

日本語にすると
 1.物体の姿・行動
 2.物体の観察(データ取得)
 3.深層学習
 4.意思決定
といった感じでしょうか。

1.から4.までの過程は、人間であれ、動物であれ、AIであれ同じでしょう。というより、同じということが前提です。


ある人物がいて、その人物の振る舞いを、動物、人間、AIのそれぞれが観察し、ディープラーニングすることを考えてみます。

1.は3者にとって同じ。
2.は動物なら動物の、人間なら人間の都合によって観察して取得するデータが異なります。AIの場合は、人間が4.の意思決定のあり方から逆算して2.のデータ取得の仕方を決定するのが普通。
3.は3者とも同じ(と考える)。
4.も動物なら動物、人間なら人間の都合で異なる。AIは人間がプログラムした都合で定められている。

AIが取得し分析してするのは、その人物の動物への接し方だとしましょう。すでにAIは人間の表情を読み取って、その裏で動く感情を判定することができるほどに発展しています。ならば、ある人物がある動物に接する表情や仕草や振る舞いを分析して、その人の動物への愛情度といったものを数値化して出力することは(将来的には?)可能でしょう。

動物自身もAIと同様に(というのは、ひっくり返っていますが)、その人物の表情や仕草や振る舞いから、自身への愛情度を分析することができる。ただし、数値化して出力することはできません。その能力は動物には備わっていない。

では、人間は? ある人物の動物への接し方を観察した別の人間がその人物の動物への愛情度を判定することはできます。表情や振る舞いを細分化して観察し、得点を設けるなどすれば数値化することもできるでしょう。AIよりは苦手でしょうけれど。


動物は信頼はできるが信用はできない。
人間は信頼も信用もできる。
AIに信頼は不可能でしょう。

ディープラーニングという作動は同じでも、その出力のあり方によって信頼と信用とが異なってくる。動物はディープラーニングをして決定した意思を身体的に表現します。その表現は個別的でわかる者にしかわからない。同種の生物は理解できるだろうけれど、それを直に観察したものでないと届かない。これが信頼です。

人間には決定した意思を身体的に出力する以外に、言語化して出力するという方法がある。そして後者の方法は、直接観察していない者にでも伝達可能。これが信用。

AIはそもそも言語化して出力するという方法しか持ち合わせていません。人間は直接的にAIの身体的な表現を観察することができないから。SF的な空想をすれば、同じAIには他のAIの身体的表現が観察可能になって、そこから動物や人間が持つのと相似形の感情が芽生えていくということは考えらないことはありませんが ♬


以上のように考えていくと、次のようにまとめることができそうです。

 信頼は自己完結的
 信用は他者への伝達が目的

自己完結的であるということは、他者は、信頼の結果を直接的に観察することが不可能だということです。他者は、ディープラーニングをして信頼という意志(≠意思)を出力する個体の行動を観察することによってでしか、信頼を把握することができない。

信頼というものの構造上、誤解が生じるのは必然です。なのに、どうして信頼は大切なのか?


この疑問は『動物たちから教わったこと』と同じ回答で応えることができます。

動物も人間もディープラーニングすることができる能力が備わっている
備わっている能力を発揮するのは〈悦び〉である

信頼にとって重要なのは、結果ではなく過程です。その結果を生むに至った能力を十全に発揮できたのであれば、結果は二の次。そこにたとえ誤解があったとしても、それは信頼の価値を傷つけるものではない。

信頼においては、信頼しようとすることに価値がある。信頼を生成することができる能力を発揮することに価値がある。もっと言うと、信頼という出力を出そうとしてその能力を発揮しようとする自分自身に最も価値がある。そして、その能力を発揮していきさえすれば、社会は自ずと作りだされていく。社会を営まないと生き延びていくことができない人間は、「そういうもの」としてこの世界に存在します。


そのことは、これまた動物に近い存在である子どもたちが教えてくれてるところです。

感じるままに。