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なぜ対話なのか?

ぶっちゃけて言ってしまうと、私がそうしたいから、なんですけどね。笑

対話をしたい。

おっと、これでは文脈が見えないですね。

日本の江戸時代にあった寺子屋に倣って、「空小屋」というものを始めようと思い立ってしまいました。私は思索をすることが大好きなんですが、それでは物足りなくなって、伝えたいわけですが、それでも物足りなくなって、伝わる手触りを感じたいと欲求し始めてしまいました。

だから、対話です。

逆もありです。対話をすると、私のほうが伝えらてもらうことも、当然、起きるわけです。

伝えたり、伝えられたりしていると、「何か」が湧出してきます。ひとりで思索をしていても湧出はあるのですけど、対話のときのそれは、ひとりでやるよりずっと大きいですから。

「湧出」とはつまり「創造」です。クリエイション。Creation. 

対話をして、双方が「創造」できると、創造の《回路》になって、共創造―― Co-Creation ――の場が出現します

これが楽しい。

こちらでは、こんな「対話」をしてみました。(動画になっています)


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いきなり、論語なんて出されると、記事を読んでいるだけでは面食らうかもしれませんが、「対話」だと、面食らうこともまた、双方に伝わって悦びになります。感覚することって、悦びですから。

孔子がいうところの、"学習”の「學」は、感覚することだと。

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あらたに出現した画像は、先に対話をしていた「ヘレン・ケラーの奇跡」からの文脈です。あの奇跡の瞬間に、ヘレンが感じていたもの。片の掌に、"w-a-t-e-r”という「カタチ」を描いていくサリバン先生の指の感触と、もう片の手に感じる「冷たく流れていく」もの感触。これすなわち「學」である、と。

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「習」は「気づき」を意味します。そして「気づき」とは、両の手に感じている別々の感覚を、同じだ! と気がつくこと――ということに、対話をしていると気がついてくれる感覚が伝わってきます ♬

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それは、すでにして「創造(Creation)」です。そうとしか、言いようがない。なぜなら、「別々」は「同じ」ではないから。

言葉の世界で考えると、「別々」は別々であって、「同じ」ではない。ところが感覚の世界では、「別々が〈同じ〉になる」ということがおきます。それが「気づき」あり「創造」。不思議なこと。Wonder です。

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論語はすでに、そうした Wonder に伴う悦びを「説」という字で表現していますが、もっと重要なことも言っている。それは「時」なんです。

感覚して、時間が経って、はたと気がつく。これは悦びだ。
まるで、遠くから友だちがひょっこり訪ねてきてくれたような、楽しさ。

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ところが、「気づき」に時間が必要であることを知らない人は、イライラ(「慍」)してしまって、待つことができないのです。「人事を尽くして天命を待つ」ようなことができないのですね。

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一方で、「不慍」な人もいます。そういう人は、イライラする人にもイライラしない。多くの人は、他人のイライラには巻き込まれてしまって、自分もイライラし始めてしまうけれど、君子と呼ばれるような人は、他人のイライラに巻きも込まれずに、イライラしている人を落ち着かせることができる――と、孔子は言っていた。

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その、イライラせずに落ち着かせることがまた、〈学習〉です。

「學而時習之」が一次の学習だとすると、
「不慍」は、一次の学習を促す二次の〈学習〉です。

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「〈同じ〉と為す」ことは、学習であり、創造です。
新しい感覚の創造。

では、愛とは?

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子どもが学習して、新しい感覚を創造します。

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大人は、時間が必要な子どもの学習を、イライラせずに見守る。そうして観察(「學」)することで、子どもが学習(成長)したことに、気がつく(「習」)。

大人に起きているのは、二次の〈学習〉です。

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〈学習〉が学習を促し、さらに子どもは学習をする。その様子を観察する大人は、また〈学習〉をして、またまた子どもが学習します。すると、そこには学習と創造の《回路》が出現します。

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この《回路》が、今日のわれわれの言葉でいえば「愛」です。

「愛」とは《回路》なんです。


愛がある場においては、《回路》を回す双方に「創造」が起きていますから、愛とは共創造、Co-Creation ということもできます。


せっかくなので、もう少し話を深くしてみましょう。

way_findingさんのこちらの記事。

言葉は、言葉の次元で捉えると「分節するもの」です。

言葉によって「分節されたもの(違うもの)」を「矛盾的に合一」する。「矛盾的合一」は誰しもに可能だと、『大乗起信論』で論じられると指摘しているのですね。

わたしたち人類は、絶えず分け方を動かし、新たな分け方を試す余地に開かれているのである。

すごいのは、ここから先です。

分け方を動かし、新たな分け方を試すこと。それは井筒氏の言葉を借りるなら「超個」の「集団的言語阿頼耶識を育成する」ということになる。これこそが人類の思考と知性の創造性、イノベーションということの鍵だったりするわけである。

「阿頼耶識」なんて言葉が飛び出してきました。仏教の「唯識論」という、本当に訳が分らない理のなかの言葉なのですが、

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深層心のなかの「末那識(まなしき)」というやつは、現代風・西洋風にいえば、「虚構(fiction)」です。言葉を実体あるものだとして把握してしまうことから生じる、妄執・我執のこと。妄執・我執が集合化すると「秩序」というものが生まれる。

文明社会においては、秩序は必要不可欠なものだと考えられていますが、その秩序が自我執着心。フロイトの言い方でいえば「エス(超自我)」でしょう。

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(画像はhttps://www.slideshare.net/youichiromiyake/ss-80086146より引用)

西洋哲学は、物事を分けて行く。
東洋哲学は、物事を分けない場所まで導こうとする。

ここでいう「分ける」は言語レベルでのこと。

西洋は言語レベルで分けようとするのに対して、東洋は感覚レベルで分けようとします。私に言わせれば、東洋も西洋も分けようとするのだけれど、分け方のレベルが違う。東洋のほうが、一段深い分け方をします。

感覚レベルで分けることを「空(くう)」と言います。

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この慈円の歌からイマジネーションされる状況が「空」です。

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「庵」は言葉に相当し、「草」は感覚に相当すると考えられます。

「庵」は「草」へと解いて、野原へ戻すことができる。この、戻すことができる境地のことを「空」というのだと思います。

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これを「ヘレン・ケラーの奇跡」に準えて読んでみることもできます。

このように読むことができる、ということが「空」であるわけです。


こういった「感覚ベース」の捉え方・読み方で、対話をしてみたいと思います。なので、このような記事をあげています。ソクラテスが「対話」を知の産婆術と言った意味が、よく理解できた気がしています。なんていうと、偉そうですけど。苦笑

どなたか、対話してくださる方、おられませんか?

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予定としては、このあたりを考えています。

贈与なんて、言語ベースで考えると、とても面倒くさいのですが、感覚ベースで捉えると、すっきり理解ができてしまいますよ。

(ソクラテスが「対話」を知の産婆術と言った意味が、よく理解できた気がしています。)

以上が本文です。下は有料エリアですが「空」です。笑

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