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『道』(1954年/イタリア)

昨日、予告した(?)ように、映画レビューを。

イタリア、フェデリコ・フェリーニ監督の『道』。

名作として名高い。
もっとも、ぼくがこの映画の存在そのものを知ったのは一昨日でしたが。


名作だけあって、立派なレビューも数多あるようです。ちょろっとググれば、出てくる出てくる...♬

映画の話といえば、ぼくのような年代の人間には淀川長治さん。日曜洋画劇場でしたね。子どもの頃に聞いていた淀川さんの映画の「お話(「批評」と言いたくない...)」は、その頃はよくわからなかったけれど、今になって接するとよくわかる気がします。

「批評」と言いたくないのは、子どもながらにも淀川さんの映画愛は伝わっていたように思うから。



いろいろと感じるところはありますが、まず、触れたいのはジェルソミーナ。オツムが弱い変な女の子――ということになっている。

「なっている」と書いたのは、そうは見えなかったから。そのように演技をしていることは理解できるけれど、でも、その振る舞いはとても知的なものに感じれた。健気で可哀想な女の子なんだけど、そういうふうには見えなかった。ジェルソミーナを演じている女優(ジュリエッタ・マシーナ)は知的な人なんでしょうね。

知的というのは、統一感があるということです。アタマの弱い様子を演じていても、「アタマが弱い様子」が的確に演じられていて、その「的確さ」が、実はアタマは弱くないということを感じさせてしまう。

「そういうことになっている」のだから気にしないで観ればいいのでしょうけれど、自分を誤魔化せないというか、見えないものは見えないから仕方がない。


その点でいえば、ザンパノはよかった。

ザンパノ役のアンソニー・クインは知的な人でないというわけではありません。この人も知的な人だと思う。綱渡りを男を殴り殺してしまうところなど、粗野(の演技)ですが、粗野な感じが統一感をもって演じられていた。

統一感というのは、洗練というのとは違います。たとえば、殴るにしても、ボクサーの動作と素人の動作には差があって、この差は「動作の洗練」の差です。そうではなくて、「洗練されていない感じ」がよく出ていた。この「よく出ていた」感じが統一感。

要するに、ザンパノは、アタマとからだが上手くつながった健康な人間。健康だけれど、不機嫌な男です。不機嫌がよく出ていた。

そこへ行くと、ジェルソミーナは上機嫌だけど、アタマとからだの接続に問題がある人間、あまり使いたくない言葉だけれど、わかりやすくいえば「障害を抱えた」人間――のはず。はずなんだけど、そんなふうには見えない、と。


これでは映画鑑賞というより「人間鑑賞」ですね...(^_^;)



前半はジェルソミーナの演技に違和感を感じつつ眺めていたのだけど、これが後半になると印象が変わります。

ザンパノが綱渡りを男を撲殺してしまって、その様子を目の当たりにしたジェルソミーナは気が触れてしまう。不思議なことに「気が触れた」感じには違和感がない。「オツムが弱い」のはあまり感じなかったのに、「気が触れた」感じはとてもよく出ています。

「オツムが弱い」感じが出ないのなら「気が触れた」感じの方も出なくても不思議はないのに。


『道』は「戦後」の映画だということなんだと思います。まだ戦争の傷跡が色濃く残っているという意味においての「戦後」。それは、映画の背景となっている街並みなどもそうだけど、なにより人間の心の傷跡という意味において。

ジェルソミーナは「オツムが弱い」がゆえに、戦争の悲惨なところには気がつかずにいられた――と、たぶん、そういう設定なんだろうと思います。

そう考えると「設定」という部分では、『この世界の片隅に』と共通することがあると言えなくはない。


「ウチはぼ~っとした子じゃけぇ」

というわけです。『この世界の片隅に』のほうは、ぼ~っとしていて上機嫌で居られたすずさんが、一度は折れたけれど、それでも上機嫌を取りもどして周囲を上機嫌のなかに巻き込んでいくという話。『道』はその逆で、ぼ~っとしていて上機嫌で居られたはずが、ザンパノの不機嫌に巻き込まれて気が触れてしまう。

ジェルソミーナに違和感がなくなるのは、ジェルソミーナも不機嫌になってから。ジェルソミーナの不機嫌は気が触れた状態のことですが、「不機嫌の表出」という点において違和感がない。

アンソニー・クインも、ジュリエッタ・マシーナも、俳優である以前の「人間」として不機嫌を抱えていたのだなぁ、と、映画を通しての「人間鑑賞」において、感じるわけです。



フェリーニ監督が描きたかったのもそこのところに違いないと思います。【不機嫌】がもたらす悲劇を、フェリーニは描き出したかったに違いない。映画監督以前の「人間」として。


ザンパノは役に立たなくなったジェルソミーナを見捨ててしまいます。しかもジェルソミーナを見捨てたあとのザンパノは、羽振りがよくなっている。

なのに、ザンパノの心の中には空虚がある。ジェルソミーナが与えてくれていた〈上機嫌〉を捨ててしまったから。自ら捨てたはずのジェルソミーナの面影を探していて、ジェルソミーナが死んでしまったと知ると、泣き崩れてしまいます。

【不機嫌】に呑まれた哀れな人間の姿です。



ひとつ、上手く整理できないところがあります。ザンパノに撲殺されてしまった綱渡りの男。

「私は役に立たない」

と卑下するジェルソミーナに綱渡りの男は

「誰だって役に立つんだよ」
「この石ころだって役に立つんだよ」

と伝える。そして自分の持っているラッパでジェルソミーナに歌を教える。

淀川さんは、この男を「神」だとしています。「天使の羽」をつけた描写もありますから、フェリーニ監督自身も神ないしは天使の側だと考えていたことは間違いないでしょう。

でも、果たしてそうか?
ぼくには【不機嫌】を隠蔽している「意識高い系」に見えてしまいます。


ザンパノは、綱渡りの男から不愉快に思っている。バカにされていると思っている。このことは、不機嫌なザンパノの思い込みのように解釈されています。

けれど、【不機嫌】はそういう性質のものではありません。ザンパノの【不機嫌】を掻き立てたのならば、その男もまた【不機嫌】なのだとする方が自然です。

【不機嫌】は、アタマに対しては隠蔽することができる。が、からだに対しては隠蔽は効きません。だからこそ、ザンパノ(のアタマ)は自らジェルソミーナを捨てたのに、ザンパノ(のからだ=心)は空虚に感じてしまうということになる。アタマとからだ(心)が一致していれば、そんなふうにはならないはずです。


話がいささか飛躍しますが、綱渡りの男は日本の文脈に置き換えると、「意識高い系の護憲派」のようなものではないか、と。

戦争は悲惨なものだからなくすべきであり、平和が大切なのは道理だけれども、そこを「崇高な理念」に祭り上げてしまうと、かえって不機嫌な人の【不機嫌】を掻き立ててしまう。それは「崇高な理念」が隠蔽にすぎないからだ――仮説ですけれども。


そういえば思い出しましたが、昨日接したネットニュースにも似たようなものものがありました。

「丁寧な暮らし」は、平和と同じように誰もがその大切さを認めざるを得ない「当然のこと」です。ではあっても、意識高く押しつけがましくなると、とたんに、イラッときてしまう。そうしたくてもできない人間の(当然ではなくて)自然な反応です。


綱渡りの男も、「当然」ではあったろうけれど「自然」ではないと感じます。もっとも、そのように感じるのは、ぼくが一神教を受け入れられない日本人だというところが大きいのでしょうが。







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