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あなたがあなたでいるところが、わたしがわたしでいられるところ。

恋歌の歌詞みたいなタイトルですけれど。

中身は「お金の話」です。
でも、タイトルが偽装というわけではない。
そういう話でもあります。


いつものように、長文です。


北海道で地震がありました。
震度7が観測されるくらい激しい地震だったらしいけれど、地震の規模そのものはさほど大きかったわけではない。マグニチュードだと6.7だと報道されいますね。

といって、地震そのものの規模(自然科学的)がそのまま被害の規模(社会科学的)になるわけではない。北海道の地震の被害の規模が大きくなっているのは、人間の暮らし(文明生活)を支えているシステムへのダメージが大きいから。

全道が停電の憂き目にあって、完全復旧にはしばらくかかるという。そうなると日々の暮らし(文明生活)に大きな影響がでてくるし、富士山の麓で暮らしているぼくのところにも、そうした情報は伝わってくる。

でも北海道って広いし、まだまだ自然に近いところで暮らしている場所も多かろうから、「ちょっと困った」くらいでやり過ごすことができているところも多いんじゃないかと想像したりもします。

札幌は大変でも、帯広の近郊だったら日々の暮らしというところでは、停電でもそんなに困っていないかも....、あくまで想像ですが。


そんな想像をするのも、自分自身がそうだし、そうだったら。「こういうふうにすれば、いつもより不便だけど、まあ、なんとかしのげるよね」というのがある。そういうのがないところ、ない人は大変だろうと思うけど(たとえばタワマンで暮らしている人とか)、それは「自己責任」だろうね――と腹黒く考えていたりするところへ、このような意見を目にしたりして。

ぼく自身はというと、キャッシュレス派です。コンビニ店員なんで、キャッスレスの便利さを日々実感しています。コンビニという「コンビニエンス」を追究する場所で、その役割を店員に押しつけて自身は「現金が安心」という自己満足に浸っている者どもを相手に、一日何度心の中で舌打ちしているかわからない。

ちなみにこの「押しつけ」は、会社の方もそうです。もう少し客の側に立ってレジシステムを改良すれば行列は解消できるのに――、そういうところってホント「見えないところ」、そして会社の「本音が現れるところ」なんだなぁと思っているけれど、ちょっと話がズレてきましたね。


キャッシュレス派ですが、でも、ぼくは停電になってもさほど困りません。キャッスレスはですから、ふだんあまり手元に現金はなかったりしますが、停電でATMが動かなくなっても、なんとかなるだろうという予測が立つ。

現在は(かつて熊野で暮らしている頃とは違って)日々の糧はほぼすべて購買行動で入手していますが、それでも大丈夫(なはず)。メインの購買行動のお店では、そういう事態になれば「ツケが効く」だろうから。


「ごめん、停電でお金が引き出せないんだけど、食べ物がなくなって。後払いで融通してもらえないかな」
「(愚慫さんなら)いいよ。こんなときだから『お互い様』だよ。いつも買い物をしてもらっているし。」
「ほんと、こういうときこそ『お互い様』だよねぇ。ぼくが働いているコンビニじゃ、(店員が)そうしたくてもできないけど...」
「コンビニは普段便利だけど、こうなる(停電)といろいろ難しいだろうねぇ。」

――といったような会話が成立するだろうと、予想することができます。


もちろん、こんな事態はないほうがいいに決まっています。

でもでも、そこでぼくの思考は止まりません。

いつもの日常が「こんな事態」だったら、社会はもっと〈しあわせ〉でいられるのではないか。停電であってもなかっても、「ツケが効く」ような関係性に満たされている社会。

ぼくに取り憑いて離れない「夢想」です。


で、今朝、こんなニュースを目にしました。


学校や会社などの共同体で実施した行動経済学の実験を見てみよう。この実験では、ちょっとした手助けを頼む対価として3つの条件を用意した。「お礼にお金を渡すから」と頼むか、「チョコレートをあげるから」と頼むか、「とにかく困っているからお願いします」と何も渡さないか。それぞれのケースで作業効率を調べたところ、最も作業効率が高かったのが「何も渡さない」で、次点が「チョコレート」、最悪なのが「お金」で頼んだ場合だった。

「これは人間に備わっている共同体原理のせいではないかと考えられます。『お互い様』で助け合うことで共同体は維持されるのですが、そこにお金を持ち込むと、市場原理の世界に変わってしまい、共同体という意識が吹っ飛んでしまうのです」

読んでうれしくなりました。
我が意を得たり、行動経済学!

そして、タイトルの言葉が浮かんできて、今、この長文を書いています。


ぼくには、ごたいそうにも〈しあわせ〉の哲学などと銘を打って、細々と書き連ねている一連の文章があるのですが、その第一テーゼは

〈いのち〉は持てる能力を精一杯発揮できることに悦びを感じる

というもの。

『お互い様』は、元々人間に備わっている共同体原理です。

人間に限らず〈いのち〉というものは、自身が持てる力を精一杯発揮できることに悦びを感じるものである。

ぼくはこのことを動物から教わりました。

そして、人間の場合。
ヒトという動物において備わっているのは共同体原理の方です。決して市場原理なんかではない。

こんなこと、自分の胸に手を当てて考えてみればすぐにわかることなのですが、なのにぼくたちは現在、市場原理にすがりつこうと死に物狂いになっている。


どうして、そうなったのか。
そこを自分の言葉で考えたいと思って書き連ねているのが、



上で記した。「もし停電になったら?」という現実にあり得る想定から出発した想像の話と、

自分の頭で考えるお金の話 その6~「借金」と「ツケ」の違い
自分の頭で考えるお金の話 その7~銀行は役割を終えたのか?

のふたつを合わせて読んで頂ければ、幸いです。

あなたがあなたでいるところが
わたしがわたしでいられるところ。


これこそ共同体原理です。
このように書き表すと恋の香りがしてくる。

当たり前のことです。
人間だからこそ恋をする。
恋は、人間が人間である原理に沿っての行動なのだから。



ちょっくら蛇足。

思うに、実は恋はちょっと共同体原理からはズレています。

「わたしがわたしでいたいところが、あなたがあなたでいたいところであって欲しい」が恋です。

それが「あなたがあなたでいるところが、わたしがわたしでいられるところ」へ変わると、恋が愛に変わるというわけです。


最後に、さだまさしの「考察」を。


感じるままに。