自分の頭で考えるお金の話 その7~銀行は役割を終えたのか?
『その6』に引き続き、準貨幣経済についての続きです。
おさらいとして、ぼくが勝手に定義した「準貨幣経済」「インフレ状態」「デフレ状態」について改めて
インフレ状態:社会にお金が十分に行きわたっている状態
デフレ状態:社会の中にお金が十分に行きわたっていない状態
準貨幣経済:「デフレ状態」での貨幣経済
こんな記事が目に留まりました。
つい最近まで花形企業だった銀行の凋落が止まらないという記事です。銀行は構造的に儲からなくなって、時代遅れの存在になってしまっているという話。経済のなかに貨幣需要がなくなってしまって、銀行は必要のない存在になりつつあるという。
ここでちょっと注意が必要なのは”貨幣需要”という言葉です。貨幣需要を言葉の通りに素直に解すると「お金への需要」ですが、そう考えてしまうと誤解が生まれる。誰だってお金は欲しいですから、その意味では需要はある。
貨幣需要とは「新しいお金」への需要ということです。「新しいお金」への需要がないということは、すでに社会の中にお金は十分に足りている。なので、経済学でいう自然利子率はマイナスになる。すなわち「インフレ状態」です。
『その6』で「借金」と「ツケ」は異なり、また銀行と金貸しでは表面的には同じ仕事をしているようでも本質的な役割は違うのだと書きました。
すなわち「借金」とは、「(通常の意味での)お金の需要」に対して「新しいお金」を供給してもらうことであり、「ツケ」とは「お金の需要」に対してすでに社会の中にある「古いお金」で応じることです。
ちなみに言いますと、昔、社会の中に存在したのが「古いお金」が大半だった時代は、利息を取ることは禁止されていました。少し考えればわかることですが、社会の中のお金の量が一定という条件下で利息を認めてしまうと、貨幣経済ひいては社会が立ちゆかなくなってしまうからです。
★ 「私的」貨幣の発行
話を繋げるため(と自己宣伝のためw)に、過去誇示を紹介させてもらいます。この春に書いた『大人の遠足』というテキストです。
「村人」さんが子どもの頃は集落は主に炭焼きでお金を稼いでいた。「村人」さんのオヤジさんも炭焼きをしていた。下に雑貨屋があって、子どもの「村人」さんはよくキャラメルやカリントウなどを買った。買ったといっても、現金はなかったのでツケだった。オヤジさんは炭が売れて現金が手に入るとツケを精算していた——と、いったような昔の暮らしの話。
図らずも「村人」のご夫婦から聞かせていただいた昔話(といっても、数十年前)は、「「ツケ」の話すなわち「デフレ状態」の準貨幣経済の話でした。
この昔話からわかるのは「お金の使われ方」、すなわちお金が持っている機能のうちの、何がどのように使われたがわかる。
「お金の機能」をWikipediaから引いてみると、次のように書いてあります。
貨幣の機能
貨幣の重要な機能として次のようなものがあり、いずれかに用いられていれば貨幣と見なせる。それぞれの機能は別個の起源と目的をもっている。
価値の尺度
支払
価値の蓄蔵
交換の媒介
「村人」さんの話からわかるのは、4つの主要なお金の機能のうち、常に用いられているのは「価値の尺度」だけだということです。
「価値の尺度」とはつまり価格のことですが、キャラメルやカリントウには値段が付けられていたということは、お金の「価値の尺度」としての機能は、「交換(購入)」が行われる際に機能をしていたということです。
ところが面白いことに、交換をしているにも関わらず「交換の媒体」としては、常には機能はしていない。それは単純に「お金がない」からで、お金ができるとまとめてツケ払いをして、お金の「交換の媒体」としての機能を働かせていた。
つまり、準貨幣経済でのお金の使われ方は、
・「価値の尺度」は常に機能している
・「交換の媒体」は、間欠的に機能する
ということになります。
この捉え方は「お金がない」ということを前提にしています。けれど、ここは疑問を差し挟むことができる。
「お金がなかった」というときの「お金」とは、国家が発行した紙幣や硬貨、あるいはお金とみなされる金銀がなかったということです。しかし、お金の起源まで遡って考えれば、元々のお金は、国家が発行したものでも金銀でもなかった。私的とも言える間柄で「交換」の際に記される「帳簿」がお金の起源だとされています。
だとするならば、「村人」たちの間でお金の「価値の尺度」としての機能が働いた「交換」が行われていれば、そこには現代のぼくたちの常識に適う「お金」は無かったとしても、原初的な”私的”貨幣は発行されていたと見ることができます。
当の「村人」ですらそんな意識はなかったとしても、です。
つまり、準貨幣経済とは、
・「価値の交換」は常に機能
・「交換の媒体」は、法定通貨と私的貨幣の両方によって担われている
さらには、
・私的貨幣を法定通貨へと置き換えようとすることが貨幣需要
・貨幣需要が存在する貨幣経済が、準貨幣経済
だということができます。
以上の視点を加えて準貨幣経済を図示すると
★ 「信用」か? 「信頼」か?
「私的なお金」の供給源は「信頼」としました。
「私的なお金」が機能するような人間同士の関係性を「システム」と捉えるならここは「信用」と書くべきだし、貨幣の起源について書いてある書物(たとえば『21世紀の貨幣論』や『新しい時代のお金の教科書』など)では「信用」の方が採用されています。
ですけれど、ぼくは敢えて「信頼」としたい。
理由は「私的」という観点においてです。
ご存知のように「ツケ」はだれにでも効くものではありません。「ツケ」が効くということは信用されているということですが、ここでいう信用はごく私的なもの。
「ワタシはアナタだから信用する」
といったような、一人称と二人称の関係性が基礎になっているものだと考えるから。このような関係は、”信用”という言葉を当てて呼ぶことがあるとしても、本質は「信頼」であると考えるから。
「信用」の本質的なところは三人称のものだということ。だからこそ、システムとして捉えることができる。
また、こういった言い方もできるでしょう。
「私的なお金」とは、信用のふりをした信頼である。
あるいは、
信用の器の中に信頼を満たしたものが私的なお金である。
★ 銀行は何をしてきたのか?
経済学の中には「私的なお金」という考え方は見当たらないように思います。見つけられないのはぼくの不勉強の可能性は高いのですけれど、でも、そうだとするならば、
貨幣需要=経済の潜在的な成長率
といった考え方にはならないはずです。「私的なお金」をカウントに入れるならば、
貨幣需要=経済の潜在的な成長率+「私的なお金」の入れ替え需要
となるのが順当のはずだからです。
このことは、身近なことからの想像でも、理解ができます。
ぼくたちは、日々買い物をすることで生命を繋いでいっています。そして、ぼくたちが買い物をできるのは「信用」の範囲内において、です。
ここでいう「信用」とは、
・所持しているお金の残高
・(通常の意味での)借金をすることができる範囲
のこと。現代人は、この「信用」を拡大しようと躍起になって生きている。
コンビニやスーパーへ買い物へ行って、この「信用」がオーバーしてしまうと、商品は購入することができない。「インフレ状態」に馴染んでしまっているぼくたちにはごくごく当たり前のことです。
けれど、この「当たり前」は、以前はそうではなかった。理由は、上述したように、簡単です。そもそも社会の中にお金が足りていなかったから。それでも人間は、人間がもつ関係構築能力を発揮して「私的なお金」を(無意識のうちに)発行し、「デフレ状態」を乗り越えて経済を回してきました。
なのに、現在、ぼくたちは本来持っているはずの関係構築能力を発揮できずにいる。求められるのは、ごくごく限られた分野における関係構築能力だけです。その限定された範囲を「コミュニケーション能力」などと呼んで、あたかも全般的な能力であるかのようにプロパガンダを行っています。
環境に適応して「当たり前」になっていくことを、アドラーは「ライフスタイル」といい、生きづらさを生むライフスタイルを改善しようとアドラーの心理学は現在、流行しています。
アドラーの心理学は個人が対象ですが、アドラー流の社会学も考えられなくはないでしょう。そうならば、「ソーシャルスタイル」というものだって考えられるし、ぼくたちが現在、「当たり前」としていることはその「ソーシャルスタイル」に他ならないと言えます。
ぼくたちは「インフレ状態」が当たり前と感じてしまう「ソーシャルスタイル」によって、本来ならば「信頼」を基礎におかないと健全な機能が期待できない分野――例えば教育や医療――にも「信用」を浸食させて行ってしまった。
「信頼」の最後の砦であるはずの家族でさえも、いまや「ソーシャルスタイル」の脅威に脅かされています。子どもという信頼の結実であり源となる存在ですら、現在の「ソーシャルスタイル」からすれば、厄介なお荷物になってしまう。
これが、図らずも「銀行がしてきたこと」。もちろん、悪意があってのことではない。経済発展に寄与しようとする善意を持って真剣(serious)に、なされてきた。
そして、現在、銀行はその役割を終えようとしていています。「新しいお金」は、もう必要ではない。それどころか「古いお金」ですらも、もはや必要とされなくなってしまう可能性がある。ゆえにこそ「お金2.0」などの需要が生まれてきています。
ただし、重要なのは「ソーシャルスタイル」です。銀行が発行する「新しいお金」が「ソーシャルスタイル」を変化させていったように、お金2.0などの「次のお金」は現在のぼくたちの「ソーシャルスタイル」を進化させていくものでなければ意味がありません。
仮想通貨で儲けようなどと考えるのは、従来の「ソーシャルスタイル」でしかありません。
感じるままに。